日本の「安心」はなぜ消えたのか/山岸俊男著

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書評:ためいき色のブックレビュー-日本
  「日本の安心はなぜ消えたのか」  

  作者:山岸俊男(1948年生/心の社会性に関する教養研究拠点のリーダー)

  副題:社会心理学から見た現代日本の問題点

  2008年2月29日 集英社より単行本初版  ¥1600+税

 本書に触れてショックを受けたのは、まず第一に、数日前に書評対象とした「ケダモノダモノ」と対照的で、「人間の利他性という不思議に対する回答への鍵は進化の産物としての人間の心、すなわち人間性のなかに潜んでいる」という言葉と、第二に、藤原正彦氏とは真逆の「武士道や品格などは現在の社会を改善するうえで何の役にも立たない」という言葉だった。

 「武士道は江戸時代の武家社会という閉鎖社会において通用した倫理観であり、現代社会は開かれた社会、武士道の入ってくる余地はなく、むしろ江戸時代に培った商人道のほうがはるかに現代社会に役立つ内容を包含している」と主張する。

 「情けは人のためならず」という諺は「情けはまわりまわて己に還ってくる」という精神に代表され、そういう仕組みが人間社会にはずっと組み入れられていた。現代の日本社会が直面する問題は利他を重んじるという倫理の喪失である」

 (利他的な配慮、思惑、推量などは世界でも日本人に格別に強くある性癖である。長期にわかる隔離された島国での平和がもたらしたものであろう)。

 「現今の日本社会が抱えこむ問題は日本社会のモラルの崩壊、日本人の心の荒廃であって、これをどうにかしない限り、日本社会の復活はない」

 「これまで日本人が共有してきた様々な価値観が揺らぎはじめ、社会としての一体感が損なわれているのは否定できない。また、未来へのヴィジョンが見えにくい時代になっているために、誰もが将来に不安を抱いている」

 「道徳教育や倫理教育で、いい国や美しい社会など生まれないことは歴史が証明している。教育は知識を提供はできても、人間性や心の問題に踏み込むことはできない。教育は万能ではない」

 「世界中どこの国にも、いじめっ子もいるし、いじめられっ子もいる。人間の心のなかには、残念ながら、他人をいじめるという人間性が潜んでいて、この現象は人類共通。日本社会のモラルや秩序の乱れを日本人らしさの喪失に結びつけて考える、その思考方法が今の日本の混迷を招いている」

 

 「終身雇用制度の下では、会社に忠誠心を示すことが利益に反映されたから、会社人間になったに過ぎず、ヘッドハンティングなどのない社会では、転職の機会がないから、アメリカ式に生きることは不可能だった。これは環境が決めたことであって、日本人に転職への欲求がなかったという意味ではない」

 「人間には誰にでも自己高揚傾向がある。成功すれば自分の腕が良かったから、失敗してもたまたま運がなかったからと考える傾向。この傾向が自尊心の浮力を供給し、みずからを高めていくための心の動き。ところが、日本では欧米と違い、自己卑下傾向が観察される。つまり、日本社会は人々との調和を旨とする傾向が強く、謙譲の美徳という心理があり、人前で自分を高く評価するのはうぬぼれで、マイナス評価されるから、とりあえず、自己卑下しているに過ぎず、建前と本音を使いわけているだけのことで、日本人が欧米人に比べ、本当に謙虚であるという保証はない」

 (日本には「出る杭は打たれる」という俚諺がある)。

 「平均的な日本人は自分たち日本人のことを集団主義的傾向があると考えているが、ただし自分だけは例外だと考えている集団であり、これを『日本人のパラドックス』という。つまり、日本人は日本人が考えているよりはずっと個人主義である」

 (平均的な日本人サラリーマンは現象として、通勤時、会社に来ていく洋服は黒、紺、グレー、茶といった派手でない色に統一されていた。他者とまるで異なる服装をすることで目立つことが得策でないことを意識していたからで、また、日本人をアメリカあたりに単独でセールスに出すとビビッてしまい、二人をペアにして出すと、2.5人分の仕事をしてくるというのも事実だった。こういう現実との整合性について、日本人特有の小心さについて、作者は触れていない)。

 「相手の行動から相手の意図を推量する性質が人間にあるために起きる認知の間違いを『帰属の基本的エラー』という。日本人も欧米人も、日本人は集団主義的な心をもつ民族だと思っていて、それが日本人らしさだと思っているが、それは日本人が集団主義的に振舞っているだけのことで、個々の日本人は必ずしも、団体主義を好んでいるわけではない」

 「実験の結果でも、日本人のほうが他人を信頼しない人がアメリカ人より多く、他人の役に立とうとする人間はアメリカ人のほうが多く、他人は自分を利用しようとは思っていないという人はアメリカ人のほうに多い。明らかに、日本人のほうが他人への信頼感が希薄で、いまだに「他人を見たら泥棒と思え」という心理があり、アメリカ人は「わたる世間に鬼はいない」と考えている。だから、『和をもって貴しとなす』はペテン」

 

 「近年になって、日本の社会はそのあり方を大きく変えようとしている。終身雇用の崩壊、系列や株の持ち合い、護送船団方式といった戦後の日本経済を特徴づけていた集団主義的な要素はどれも否定されるようになり、アメリカ流のグローバル・スタンダードに基づいた経営をどの企業も求められる時代になっている。このことは労使関係に大きな変化を与える」

 (グローバル化した世界経済の中で、一国だけのエゴや手法で生きることは不可能であり、世界の潮流に合わせていく以外に経済活動の推進はあり得ない。ディシジョン・メイクするのに数々の押印が必要な「無責任体制」との決別は必須にして迅速を旨とする)。

 「他人を信頼できなければ、安心社会から信頼社会へのシフトチェンジがうまくできるわけがない。今の日本はまさに身動きのとれない状況に陥っている。そのことを端的に象徴しているのが近年の不祥事の報道。この10年、日本ではさまざまな企業や組織による不祥事が相次ぎ、消費者の不信を掻き立てている」

 (金融恐慌以来、個人による犯罪も増え、かつ凶悪化している。「貧すれば鈍する」という俚諺の通り)。

 「他人を信頼する人のほうが、センシティブで、相手に問題がありそうだと判断すれば、すぐに評価を変える柔軟性をもっている。思考の柔軟な幅をもっていると言い代えてもいい。人を信頼する人は世の中は持ちつもたれつで、他人に協力することが人生では不可欠であると思い、信頼することで得られる成果は裏切られる悔しさを上回って余りあることを知っている。こういう手の人は常に人を信頼し、協力を求めていくから、他人に対する観察眼が鋭くなり、検知能力が磨かれ、成功率が上昇する」

 「一方、人を信頼しないタイプは裏切りや騙されたりに遭うと、ますます人を信頼しなくなり、相手への検知能力が育たない。人を信頼して生きていくタイプはポジティブなスパイラル現象が起きて、現実社会への抵抗能力がアップするのに比べ、人を信頼しないタイプはネガティブ・スパイラルが起きてしまい、社会に対する不適合な方向に進んでしまう」

 (信頼できる人間か否かを判断できることこそが最もポジティブな姿勢ではないのか)。

 「日本人が控えめに行動するのは、そうしたほうが日本社会にうまく適応できるという考えから生まれてきた『心の働き』である。過去、その方が日本社会でうまくいったからに過ぎない。現代は、信頼性社会に適合しなくてはならない時代を迎えている。にも拘わらず、日本人は相手の信頼性の検知能力を心の道具箱のなかに配置されていない。空気を読むという修正がグロ-バル化の流れのなかで、価値基準になっているのは、明らかに時代への逆行」

 「今の日本人の多くは他人を信じられずにいるために、他人とかかわる機会が減少し、信頼関係の構築ができないという悪循環に陥っている」

 「人間社会は協力行動を選ぶ人が臨界質量をほんの僅かでも超えると、あとはドミノ倒しのように、協力者が増加、社会的ジレンマは解消する。学校でのイジメの問題も、傍観者が多くなると、イジメは深刻になるが、イジメを良くないと考える仲間の数が臨界質量を超えると、イジメ問題は簡単に解決する」

 以上、内容がかなり斬新なこともあり、ポイントを列記したが、正直に申し上げると、理屈をこねくりまわすので、読んでいて、きわめてまどろっこしい感じがつきまとう。

 アメリカ社会には法整備があるから、他民族がうまく関係作りを行い、ビジネスに問題もなく、経済が進展しているといった話があるが、法整備があるからこそ、それが四六時中アメリカを席巻し、訴訟の発生率は世界一であり、それにどのくらい無駄な時間とコストがかけられているかを認識しておくべきだ。

 また、最近の日本社会では、かつてはなかった訳の判らぬ犯罪が多発していることも事実であり、そうした実態が他人を簡単には信頼できなくなっている土壌ともなっているのも見逃しがたい。また、犯罪の多発には、日本国内に居住する外国人が増えていることとも関連しているだろう。


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One Response to “日本の「安心」はなぜ消えたのか/山岸俊男著”

  1. くっきー より:

    ありがとうございます!
    またお邪魔します♪

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