日本の歴史、ハテ、さてそういえば、・・・?/歴史の謎を探る会編

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nihonnorekisi_hate

「日本の歴史・ハテ、そういえば・・・?」 (歴史の謎を探る会編)
副題:いまさら聞けない長年の大疑問
2008年5月1日  河出書房新社より文庫本初版 

 本書を読んでいると、歴史に関する小智識の蓄積のレベルを問われているような気分に陥る。むろん、よくよく知っているものもあるし、いい加減だった知識が正されたりもあるし、「だから、なんだ?」といいたくなるものも、「へーえ、そうだったのか」と納得させられるものもある。

 これはと思った部分を以下に記しながら、私見があれば(   )内に記載する。

*「天皇」という称号は「皇帝」と「天子」をミックスさせた造語であり、読み方は「てんおう」だったものが明治以降「てんのう」に換えられた。

*「日本」という国号が表れたのは648年、中国の史書に「倭国からの使者がみずから倭という名を嫌って、日本とあらためた」という記録がある。語源は推古朝の隋への国書に記された「日出ずる処の」の一文からのものと考えられる。

 また、当時の日本の発音も「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の三通りがあったことが室町時代の辞書から理解できる。(東方見聞録でニホンを「Jipang」と紹介し、それが後世に至って「Japan」と変化する源流かも知れない)。

*切腹に介錯人がつくという作法が当初からあったわけではなく、源平闘争の時代、佐藤忠信という武将が腹を十文字にかっさばいて命果てるまでのたうちまわったという記録がある。

*正倉院の宝物の大部分は無事に今日まで残されてきたが、1039年以降の記録によれば、四件の盗難事件があった。

 (織田信長が正倉院で大切に管理されていた上質の香を一部削り獲った話は有名)。

*1156年に平家が源氏を倒し、源氏の棟梁であった源義朝は東国へ落ちていく途中で惨殺されたが、義朝と同行していた頼朝は処刑を免れて伊豆の寺に置かれ、弟の義経も処刑を免れて、京都の市中にある寺に預けられた。(私見だが、この二人を生かしておいたことが平家の滅亡に直結した。頼朝が平家の血に繋がる人間の存続を許さなかったのに比べ、清盛は優しかった(?)と言えるのだろうか)

*本能寺で最後を迎えた信長の遺体は行方不明のままで、日本のミステリー。

*「生類憐みの令」は天下の悪法だったことは確かだが、(時の将軍、綱吉の幕閣に法の内容や施行を柔軟に、人命の重さを説く者が不在だったというのが、どうにも不可解。将軍、大君などというのは傀儡でいたほうが政治も社会も平和)。

*古事記が神話で日本書紀が正史と評価されつつ、日本書紀も虚偽に満ちている点では古事記に毛が生えたようなものとの批判があるようだが、(日本書紀も客観的にみて、それなりの歴史書の体裁を整えていないようにかねて思っていたが、そうでもないらしいことを本書によって知った)。

*かつて、時代小説を書く作家、司馬遼太郎にせよ、山本周五郎にせよ、テレビの時代劇にせよ、「---藩」という言い方が平然とまかり通ってきたが、そういう言い方は江戸時代全体を通してなく、政権を朝廷に返上した大政奉還の翌年から使われた言葉。(名だたる作家に騙された気分)

*源頼朝による武家政治の確立以来、政権を奪い返す意地をみせた天皇は後鳥羽上皇ただ一人。結果、隠岐に流され、以後、徳川慶喜が大政奉還するまで、天皇の存在は幕府の飾りでしかなかった。とはいえ、幕府から3万石という経済的基盤をもらい、その上、参勤交代も、自腹を切っての普請や土木作業を行なう国役や軍役を強いられることもなく、財政は安定していた。

 (ペリーが黒船とともに東京湾に来航、江戸の人々はもちろん、幕府のお歴々をパニックに追い込んで、「開国」を迫って以降、日本中が騒然たる雰囲気に満たされた。これをチャンスと見た九州、四国、中国地方の田舎の若い武士たちが唐突に朝廷の公家たちにアプローチするようになり、花鳥風月だけに浮かれていた公家たちはいきなり政治づいてくるという歴史。長いこと我慢して、ようやく巡ってきた政治への機会だった)。

*桜田門外の変で井伊直弼を1860年に襲撃した18名の水戸、薩摩の浪人たちはその後ほとんど惨殺されている。


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