日露戦争に投資した男/田畑則重著

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日露投資

   

  「日露戦争に投資した男」  副題:ユダヤ人銀行家の日記

     田畑則重著  新潮新書  ¥700  2005年11月初版

 日露戦争は1904年2月、ときの外務大臣、小村寿太郎がロシアの駐日公使、ローゼンに国交断絶の最後通牒を渡しときに始まり、同年2月8日には早くもソウル外港、仁川と旅順で戦闘が行われた。

 この戦争に日本が辛うじて勝利を得た裏舞台にユダヤ系アメリカ人金融業者のサポートがあったこと、具体的には日本が発行した外債を第一次募集のときから積極的に引き受けてくれた歴史については、本ブログ「ユダヤ人の歴史」(2005年8月書評)で明記したが、本書はその人物がジェイコブ・シフという名のニューヨーク在、投資銀行家であり、日本が費やした戦費のトータルが17億2千万円(国家予算の6倍以上に相当)で、外債への依存額が8億円だったこと、そして、ジェイコブ・シフが引き受けた金額はそのうちの30%だったことを教えてくれている。

 外債の第一次募集(1000万ポンド)は同盟国であるイギリスのロンドンで始めたものの、イギリスはロシアと縁戚関係にあり、と同時に、南アフリカでのポーア戦争終結直後で疲弊していたため国として公式に引き受けられず、他の西欧諸国もアジアの小国がロシアと戦って勝てるわけがないと予測、引き受けてくれる国は一国もなかった。任にあたった高橋是清(後の首相)は自身のネットワークを使い、多くの金融業者とかけかい、結果、時間はかかりはしたが、幸運にもイギリスの銀行団が500万ポンド、たまたまアメリカからロンドンを訪れていたジェイコブ・シフが単独で500万ポンドを引き受けたが、この事実は世界に対し、イギリスのみならずアメリカが日本支援に動いたという印象を与えることとなり、強いインパクトとなってロシアを襲った。

 

 むるん、ジェイコブ・シフの思惑はロシア在のユダヤ人が迫害を受けていたことが背景にあるのだが、彼の胸のうちに表裏があるとしたら、それは表であり、裏には日本が進めていた満州の経営、ことに鉄道の敷設に参画したいとの希望もあった。ジェイコブ氏は元々、アメリカでは鉄道への投資が多かったし、成功もしていた。

 また、国家予算が3億円に満たない時代、日本政府は明石元二郎(陸軍大佐)に100万円の工作資金を与え、スウェーデンの首都、ストックホルムを拠点としつつ、ロシア国内の謀報活動と撹乱工作にあたらせた。レーニンをはじめ、ロシアにいじめられていたポーランドやフィンランドの革命家にも撹乱のための資金提供を行ったが、その結果、1904年の2月、ロシアの首都、ペテルブルグでのゼネストに端を発した民衆の請願行進に兵卒が発砲し、100人もの死者を出した。世に「血の日曜日」という名で喧伝された事件である。

 1905年6月には戦艦ポチョムキン号で水兵の反乱が起こる。いずれの事件にも、明石が関与したといわれ、黒木大将が率いる日本軍が鴨緑江(おうりょっこう)の渡河に成功し、旅順港が陥落したことも手伝って、以後の外債の売れ行きを良化させた。

 一方、ロシアの外債は次第に信頼を失い、売れ行きにブレーキがかかる。明石大佐単独での揺さぶり戦法は兵力10個師団にも相当すると賞賛された。

 ロシアもニューヨークのジェイコブ・シフを訪ね、アメリカでの起債を依頼したが、にべもなく断られている。

 ロシアと国境を接するドイツにとって、恒常的にロシアは仮想敵国であり、「黄禍」(黄色人種脅威論)より「スラヴ禍」だとの理由で、第二次外債募集時にはフランクフルトにあるロスチャイルド家(ユダヤ系イギリス人)の支社が引き受け人となることに異を唱えず、さらに、日露が開戦したばかりの時、フランスの新聞はハリネズミが巨大な熊に向かう姿をマンガチックに描き、掲載したほどロシアの戦力を過信していただけでなく、ドイツを恐れるあまりロシアとは同盟関係にもあった。そのフランスまでが日本の外債引き受けを承諾する。日本の打ち続く勝利が欧米の「日本観」を根底から変容させたということだろう。

 余談だが、この戦の前、外務大臣らの努力により日英同盟が成立したとき、ちょうどロンドンに留学中だった夏目漱石はその報に接するなり、「あたかも貧乏人が富貴の家と縁組を取り結びたる嬉しさのあまり、鉦(かね)や太鼓をたたきて村中をかけまわるがごとし」との自虐的な手紙を岳父宛てに書いた。表現は実態を的確に衝いてはいるものの、当時これが公けにされていたら、右翼からの暗殺対象を免れなかっただろう。

 東郷平八郎を旗艦に頂いた日本海軍がロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で駆逐し、陸軍がクロパトキンが率いるロシア軍をハルピンまで押し込んだあと、ルーズベルト大統領の介入で、戦争終結への呼びかけがなされ、ポーツマスでの交渉が始まるが、あらかじめ大統領に依頼していたのは日本側であり、ジェイコブ・シフのみならずルーズベルトも、日本が満州開拓と鉄道の敷設を目論んでいることを知っており、公式にそういう発言があったわけではないが、協同して満州地域の開発を進めたいという意図があったことは歴然としている。ただ、日本は陸海による戦争の継続は体力の限界まできており、これ以上の戦争継続、戦争拡大には堪えられなかった。

 ポーツマスでの交渉結果は樺太(現サハリン)の南半分の割譲を受けるというだけの成果しか得られず、12万人もの死者を出し、17億円余もの金を消費したあげく、一銭の賠償金もとれないということに、国民は納得しなかった。暴動があり、交渉に直接あたった小村寿太郎(背丈が145センチしかなく、ロシアを代表する大男とデスクを挟んで向かい合う姿はまるでフランスの新聞に掲載された漫画そのものだったという)の自宅は数々の投石を受けた。

 このことは、日露戦争が大きな博打だったこと、幸運が幸運を呼んで、辛うじて勝てた戦争だった事実について、報道管制が敷かれたことを示唆している。日本はこれより以前に赤子同然だった清朝を戦争に巻き込み、軽く一蹴、勝利を得た後には3億円の賠償金を奪っている。そのことも日本人一般の脳裡から消えずにあったのではないか。

 上記は作者が「まえがき」「第一章」「あとがき」に書いた内容に、私が知っていることを加えてまとめてみたが、とくに「まえがき」の文章に、肩肘張った固さと力みを感じたことを付記しておく。

 本書は、実は、作者が綴った部分より、副題にあるジェイコブ・シフの日本への旅行日記の翻訳が大部分を占め、日記から窺える当時の日本の風景、雰囲気、人間がおもしろい。彼は妻と二組の友人夫妻を含め、ニューヨーク出発から帰着まで3か月半(うち日本と韓国での滞在が8週間)におよぶ長期旅行をしたのだが、そのきっかけとなったのは、明治天皇が自ら旭日勲章を授与するという、かつて例のない一般人への叙勲という栄誉を知らされ、來日を決意した。

 

 1906年2月に出発し、6月に帰国というスケジュール。

 ジェイコブの日記から、たとえば、以下のようなことが判る。( )内は私の意見。

1.日本では貴族院が治世をあずかり、議員の4分の1が皇族、4分の1が政務をつかさどる上で能力抜群であると推薦された人材を天皇が任命する(勅撰議員)、4分の1が華族(公家)、4分の1が多額納税者(三井、住友、三菱、澁澤などの財閥であろう)の互選。(江戸時代260年余にわたって苦渋を味わい続けた皇族、公家らの欣喜雀躍とした姿が彷彿するが、それまで花鳥風月の話で終日飽きなかったという連中に政治が解ったのか、外交が判ったのか、庶民にかかわる現実認識ができたのかとの疑問は拭えない)。

2.正体不明の「怪獣キララ」のように思っていた日本を訪問することが長年の夢だった。

3.横浜への到着から始まり、行く先々で歓待を受けた。連日連夜にわたって、宴会が、食事会が、観光が日本側によってスケジュールが組まれ、ことに畳の上での食事には辟易した。

 (このことはいかに日本政府だけでなく、彼が日本の外債を引き受けてくれたことで戦艦が買え、戦争を継続でき、ロシアに勝てたことを知っているすべての人間が彼に感謝していたことの証であろう。もちろん、知っていた人は政財界のボス、皇族、華族など、一部であったであろうが)。

4.ジェイコブ・シフが日本で会った人物が半端ではない。首相の西園寺公望、当時は韓国総監だった伊藤博文、業界の帝王といわれた大倉喜八郎、海軍元帥の東郷平八郎、陸軍元帥の大山巌、日銀総裁の松尾臣善、全権大使をやった小村寿太郎、元老の井上馨、松方正義、山形有朋、その他、政界、皇族、華族、業界のお歴々が妻を同伴し、娘、息子を連れ、連日押し寄せるようにやってきては、ジェイコブ・シフとの面談を求める。どの人物をとっても、歴史に名を残している。

 ただ、パーティに参加した人々のなかにはイギリス、ドイツ、アメリカなどへ留学したり、長期滞在した者が多く、言葉に不自由しない人がかなりの数で存在した。

 (いうまでもないが、留学ができ、長期滞在ができたのは、上流階級に属する人間か、財閥系の金持ちの子女に限られていた)。

5. 日本の印象について:

1)物品に定価が示されていず、常に交渉ベースになることは時間の無駄であり、不快だった。(現在の発展途上国に同じレベル)。

2)大倉喜八郎の邸宅は丘の上に建ち、広大、広壮にして優雅、美しい庭園に囲まれ、眺望絶佳、別棟には日本や清のアンティークを混在させたコレクションがあり、圧倒された。 また、大隈重信は文字どおり宮殿のような大邸宅に住み、これまで色々な貴顕の邸宅に招かれたが、大隈邸が最も貴族的な印象をもった。風光明媚な土地に別荘もあると聞いた。

 (このような話が出てくると、当時100万とも200万ともいわれる日本女性がマニラ、バタビア(現ジャカルタ)、サンダカン(マレーシア)、香港、マカオ、シンガポールなどで身をひさいでいた、いわゆるカラユキさんたちへの思いやりや、憐れみの情などをみせる有徳の仁が一人としていなかったことに思い至って不可解に陥り、鹿鳴館で連夜舞踏会を催していた上流階級者の不遜な姿勢に不快を抑えきれなかった。明治という時代は江戸時代が形と色を変えただけの封建体制の継続ではないかなどと憎まれ口をききたくもなった)。

  

3)東京、横浜より北に住む日本人に比べ、京都の住人は男女ともに容貌にしても容姿にしても優れている。(けばけばしく化粧したり、派手な着物を着たりするのが上方の風習だったから、外国人の目には美しく見えたのかも知れない)。

4)学校を訪問したところ、少女たちは慎み深く、機転が効き、礼儀正しく、親切で、謙虚、礼儀正しい。このことは日本人一般にも通ずる。

5)感情の抑制ができ、年寄りにはいたわりをみせ、質素であり、祖国への忠誠心の強さを感ずる。(このような日本人がかつてこの日本にもいた。「公序良俗」という言葉が浮かぶ)。

6)政治が世論というものにあまり影響されないという印象がある。(「長いものには巻かれろ」主義の時代であり、階級社会でもあったから、政治家はやりやすかっただろう。立ち退き命令に従わないなどという人間も皆無だったろう)。

 作者は、最後に、満州の経営についての話で本書を締めくくる。

 (伊藤博文は「欧米にも満州建国後は市場を開放すべきだ」と自説を開陳したが、児玉源太郎や小村寿太郎は「血で購(あがな)った戦果は日本独自で開発すべきであって、他者の介入は不要」と強行に反対、譲らなかった。戦後、伊藤博文の権勢は急激に低下、あげく3年後にはハルピンで暗殺される。もし、伊藤博文の意見が通っていなくても、少しでも関東軍の逸脱を抑制できる政治家が存在し、あわせてアメリカの金融業者をはじめ、海外開発の担当者と親しく交わることの出来る人材がいたら、太平洋戦争は避けられた可能性がある。当時の政界はいわゆる外交に巧みな人材に恵まれず、陸軍の幼稚きわまりない判断力に増させざるを得なくなったことが日本を最悪の状況へと押しやることになった。

 司馬遼太郎は日露戦争時の児玉源太郎を賞賛し、一方で乃木稀典を無能とこきおろしたが、児玉の頭脳に柔軟性に欠けていたことを、この史実から知った)。

 

 以降、満州事変、アジア太平洋戦争へと一瀉千里。「日露戦争における勝利がアメリカ系のユダヤ金融によって支えられたからこそ辛うじて勝てた戦争だった」という事実認識が国民に希薄なまま終戦をみたこと自体にも、日本人が一般に他国に対し尊大になっていった経緯が窺われる。日露戦争ではあまりに多くの事実が国民に知らされなかった。

 さいごに、作者のやや力みかえった文体とは別に、ジェイコブ・シフの日記からは学ぶことが多かったことを明記しておく。

   


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