昭和の名将と愚将/半藤一利・保坂正康著

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昭和の名将と愚将

「昭和の名将と愚将」 半藤一里・保坂正康著
 帯広告:敗軍の将たちの責任そして無責任
 文芸新書 2008年2月 初版 ¥740

 

 本書は太平洋戦争にかかわった代表的な将軍ら22人を、名将13名、愚将9名に分けて、対談風に論じた内容。(   )内は私見。

 (無条件降伏という形で、ポツダム宣言を受諾し、戦後が始まった今になって、戦時にかかわった将を賢愚に分類されるのを読んだところで、どうにかなるというものではないが、読後は、いやでも、当時のことに思いが飛び、次第に腹が立ってくる)。

 昭和8年頃から、日本は国の伝統や風俗と無縁の方向に変調の兆しをみせ、昭和15年に至って急速に変調の度合いを増す。日本の過去の歴史にはなかった「玉砕」とか「特攻」とか「赤子」とかいう言葉が突然変異のように歴史に登場し、魔性の歴史へと突っ走ることになった。

 (第一次大戦頃まで、軍隊は国民の生命と財産を守るために存在したが、太平洋戦時には、軍隊は天皇のために存在し、兵は天皇に奉公するのが当然の義務という、軍隊の本質とは隔絶した方向に流れ、武器は天皇からの頂きもの、兵士は天皇の赤子という、伝統的な武士道の精神から離れた精神状態に軍隊が変節した背景には、陸軍を掌握していた薩長出身のイナカッペによる誘導がまずある)。

 保坂の挙げる名将の条件は:

 1)理知的であること、2)部下に慕われ、尊敬されること、3)原則論を振りかざさないこと、4)士官学校で教師にへつらわないこと。

 半藤一利の挙げた条件は:

 1)決断を下すことができること、2)任務の目的を部下に明確に伝えられること、3)情報を自らの目や耳で把握すること、4)過去の成功体験にとらわれないこと、5)焦点の場に常に身を置くこと、6)部下に対し最大限の任務遂行努力をするよう指示できること。

 「名将」と二人が判断する中から、若干名を以下にピックアップする:

1.栗林忠道(本ブログで硫黄島で破格の闘いかたをした人物として、梯久美子作「散るぞ悲しき」を2006年6月10日に書評している

 太平洋戦争で指揮した司令官のほとんどに実践経験のないなか、栗林には経験があり、米国に5年間、駐在武官として滞在した経験もある。日本陸軍の通常の手段を採らず、独自の合理的な闘いに終始し、部下をまとめた硫黄島での指揮は見事。ただ、硫黄島への赴任は左遷だったとも言われるが、そのことは東条英機が硫黄島を軽く見ていたのに対し、米軍はグアム、サイパン諸島から硫黄島の真上を通過することが可能になれば、日本本土を直接爆撃できることを熟知していたことを暗示している。

 (太平洋戦争が始まって、マッカサーが「I shall return」と言って、フィリピンから逃げたときから、攻勢に転じて以来、日米両軍の戦死率は平均して、アメリカ1に対し日本10という信じられない犠牲者を日本側は出していたが、唯一の例外がパラオのペリリュー島と、硫黄島で、お互いにほとんど同数の1万以上が戦死している)。

2.石原莞爾

 この人物の構想には壮大なスケールがあり、陸軍史上ナンバーワンの天才だったが、その異質性が陸軍にも、ことに人事権を持っていた東条英機にも嫌われ、関東軍副参謀長として左遷、昭和16年には予備役にまわされ、軍部から追い出されてしまう。東条が英米を相手に開戦に踏み切ったニュースに、石原は「すべては終わりだ」と言い、東条の愚昧な舵取りに嘆息したという。

 (国家の危機がかかっているという、これ以上に重大で深刻な時期はないにも拘わらず、冷静に人材をピックアップする余裕がないトップは、ほとんどクズに近い。東条英機は即座に暗殺されるべきだった)。

3.永田鉄山

 日本の生んだ逸材、ずば抜けて優秀だったために、存在自体が目立ち、反目を煽る結果を招き、2.26事件よりも前に暗殺されてしまう。永田が生存し、軍隊の指揮をとっていたら、2.26事件そのものが起きていなかったと言われる。石原が軍部から追い出され、永田が暗殺されたことで、東条の誰にも遠慮する必要のない出番となり、結果的にとんでもない方向に日本も、日本国民も導かれることとなった。

4.米内光政(よないみつまさ)

 昭和14年に締結された三国同盟(独伊日)に反対したのは、米内光政海相、山本五十六次官、井上軍務局長の三人だが、当時のドイツ軍部は中国の軍隊教育に協力しており、武器も供与し、中国との同盟に傾いていたのをひっくり返すという余計なことをしたのがドイツに駐在武官として赴任していた大島だった。大島がノルマンディの直前に、ドイツ軍の配置や戦車の配列などを暗号で日本に伝達していた内容はすべて英米によって解読されていたという。

 (日本軍が最初に思いついた暗号は薩摩弁の活用だったらしいが、薩摩出身者の多くが米国に移民していることをうっかりしていたというのはお粗末過ぎる。日本軍の暗号による情報伝達に関する感覚が子供なみだったことは、あまりに情けない)。

 米内は総理大臣まで昇格し、引退したが、戦争末期、昭和19年にサイパンが陥落した直後に再び海相として政治の舞台に復帰したのは、彼のほかに難局に当たれる人材がいなかったためと言われる。その折り、海軍には戦艦大和をはじめ、ほとんど戦艦が残っていなかったため、陸海両軍の合併論があったが、米内はこれに抵抗、実現を阻んだ。ために孤立無援の立場に置かれるが、結果として、陸軍のいう「本土決戦」とか「一億玉砕」とかいう愚かな道に走る可能性を抑止し、ポツダム宣言の受諾に至る。

 太平洋戦争は江戸幕府を倒した薩長がはじめた戦争だったが、現実に将軍として活躍し、終戦に導いた人物はすべて薩長の出身者ではなかった。米内は盛岡藩出身、井上は仙台藩出身、鈴木貫太郎は関宿藩出身、山本五十六は長岡藩出身だった。

5.山口多門

 プリンストン大学卒の優秀な人材だが、現場を好み、ロンドンでの軍縮会議にも列席。日中戦争で、重慶を爆撃した経験で、機動部隊の重要性に覚醒。山口は、パールハーバー攻撃を策定するに関し、第一次攻撃に続いて第二次攻撃を必ず行うよう執拗に主張したが、軍部からは第一次だけで効果があれば、直ちに退艦せよという、中途半端な指示が出され、南雲指揮官はそれに従った。

 (「肉を切らせて骨を断つ」という武士道がここでも生きていない)。

 ミッドウェー海戦では索敵機がアメリカ艦隊の発見を告げてきたのに、南雲は飛行機が陸装であることを理由に即時発進を却下、そのうえ一時間半もモタモタしていたため、空母4隻のうち3隻を沈められる。

 (南雲などというアホが太平洋戦争の火蓋を切る役目を担ったことに、そもそもの不運がある)。

 ミッドウェーでは、山口多門が南雲の指示を無視、1隻残った空母「飛龍」で、米艦隊に突撃を図り、結果、自艦が沈没するまえに米国の空母「ヨークタウン」を撃破した。山口は空母とともに命を共にしたが、彼はミッドウェー海戦が日米決戦の分水嶺であるとの判断をしていたからだと言われる。

6.山下奉文(やましたともゆき)

 「マレーの虎」との異名をもつ将軍だが、この異名はオーストラリアのジャーナリストがこのタイトルで本を書いたために有名になったと言われる。東条に嫌われ、シンガポールのイギリス軍を陥落させた後、フィリピンに回され、米軍を長期にわたりさんざんに苦しめはしたが、結局、フィリピンで逮捕され、言い訳の一つも口にせず、従容として処刑に服した態度が、敵味方双方に人気を得た理由。(山下の軍刀はアメリカのウェストポイントの士官学校に展示されている。また、本ブログで、「山下奉文」とのタイトルで、2008年5月27日に書評している)。

 名将としては、他に、武藤章、伊藤整一、小沢治三郎、宮崎繁三郎、小野寺信、今村均、山本五十六が挙げられている。

 これ以上、説明することは避けるが、明らかなことは東条英機というバカが政治と軍の中心にいて、人事権を持ったことが、数少ない名将がことごとく左遷される憂き目に遭い、敗戦を早めたという以上に、それ以前の問題としてメディアを含め、日本全国民を戦争へ駆り立て、英米への開戦という愚昧な行為に出、結局は日本を焦土と化し、日本人を塗炭の苦しみに追い込んだ元凶と言えるだろう。

 ちなみに、東条英機という男は盛岡、南部藩の出身で、原敬(明治の宰相)と生地が同じ。当時の戦陣訓として名高い「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉は東条英機の言葉。この言葉は、歴代天皇の名を覚えるよう、戦陣訓の暗記とともに小学生にまで強制した。(この男、どこからみても能足りんのバカ、低脳)。

 歴史の転換点にこういう人物をトップに頂いた日本の不幸、不運と言っていい。


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