暁の旅人/吉村昭著

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暁の旅人
「暁の旅人」  吉村昭(1927年ー2006年)著
講談社より2005年4月に単行本として出版
同社より2008年8月文庫化初版  ¥590

 本書は作者が逝去する直前に書かれた作品。 

 江戸末期、長崎に出向き、オランダ医学を学ぶ人間が増えたが、この傾向はそれまで漢方で幕府の奥医師を務めていた漢方医らに危機感を抱かせ、結果としてオランダ医学排斥の動きに出、幕府もこれを容れ、1849年には「オランダ医術禁令」の布告を出すに至った。

 ただ、だれの目にも効果が明らかな外科と眼科に対しては「苦しからず」と黙認されることになったが、本書の主人公、松本良順は実の父親がオランダ医学を学んだ外科医で、婿に入った松本家も医家であり、ために主人公は当面苦労する。

 幕末に至って、日本で天然痘が流行し、その折り長崎に出向いていた主人公はオランダ人、ポンペという船医から最先端の西欧医術を学び、種痘を知り、種痘苗を貰い受け、子供らにそれを施し、成功する。コレラが発生したときは、コレラ菌の解明には至っていなかったが、キニーネと阿片を服用することが効果を生むことを知る。

 松本良順はさらに刀創による怪我や鉄砲によって弾丸を受けた場合の手術、摘出法、消毒法、包帯の巻き方などを学びつつ、人体の解剖による知見を得、当時西欧で使われていた医療用器具を入手、実質上、日本で最高の西欧医学者となる。

 将軍、家定が重篤に陥ったとき、家定に対した漢方医の手当てに効果がなく、やむなくオランダ医家を招き、家定没後には、奥医師はオランダ医学者が選ばれ、自動的に禁令が解除された。

 ポンペの建言により、長崎に病院施設が完成、養生所と医学所のほか、各室に15のベッドが備えられ、コレラ患者を収容する隔離室と手術室を設け、薬品、医療用機器、医学書をそろえ、医学生が寄宿できるような施設もつくった。ポンペは良順を頭取とし、良順は日本各地からやってくる医学生の指導にあたりつつ、講義も行い、患者の診断、治療にも当たった。

 江戸に戻った良順は江戸市内の子供らにも種痘を行い、多くの人命を救い、西欧医学の効果を見せ付けた。

 暫くすると、世の中は騒然とし、徳川の最後の将軍、慶喜が長州を討つ目的で大阪に赴いたものの、大政奉還という結果となり、戊辰戦争から鳥羽伏見の戦い以降、負傷者が続々と江戸に後送されてくるようになったが、良順はそれに備えて幕府に申し出、医学所を創設、江戸各地の医家志望者を呼び、西欧医学による負傷者の治療のあり方を実地に見せつつ、教えた。

 良順は自分が長崎で費やした歳月、生活費などすべての面倒をみてくれた幕府への恩義が忘れがたく、官軍が江戸に迫った時点では会津藩に逃れ、そこでも負傷者の治療に従事、東北諸藩の藩医も負傷者の治療法を学びに会津に良順を尋ね、その数は60名に及んだ。良順は、すでに、日本屈指の西洋医学の専門家としての名声を博していた。

 会津が敗北したあとは、秋田県の庄内藩に向かったが、仙台に軍艦を停泊させていた榎本武陽に呼ばれ、北海道に新政府をつくるので一緒に来てくれと懇望されて困惑しているとき、たまたま北海道に同道する元新撰組の副隊長、土方歳三から「北海道には行かず、横浜に帰ったほうがいい。あなたには薩長とか幕府とかいう狭い範囲で動くのではなく、世界を広くみて活動して欲しい。官軍もあなたに危害を加えることはないはずだ」との言葉を得、その忠告に従った。

 横浜に帰還後、藩邸の座敷牢に入牢されるも、どこの藩邸でも丁重に扱われ、数か月後には釈放される。

 その後、明治に入り、早稲田に洋風の病院の建設予定地を決め、寄付を仰ぎ、山県有朋からは軍医として月額100円を支給される。暫くして、軍医療を廃止、良順は初代、陸軍医総監に任ぜられる。その後、獣医の必要性を説き、フランスから専門家を招いた。

 さらに、耳鼻咽喉科をきちんとした方法で順天堂大学に設立、76歳で逝去した。

 解説者が「歴史小説は、時代小説、歴史小説の二つに大別され、一般に、史実の隙間にフィクションを挿入するのが時代小説であり、史料に基づいて歴史を語るのが歴史小説とされるが、もう一つ、歴史小説より史実を正確に表現する「史伝」というジャンルがある。史伝はフィクションを排しつつ、歴史そのものを再現することを旨とする。その意味で、過去の作家で史実に基づいて書く努力を惜しまなかった人に、「近世日本国史100巻」を書いた徳富蘇峰(東条英機とともに開戦の勅を書いた人物でもある)、「堺港攘夷始末」を書いた大岡昇平、「武将列伝」や「列藩騒動録」を書いた海音寺潮五郎、そして、数々の歴史小説を書いた吉村昭である」とし、さらに、「作風として対極にあるのが、虚飾や誇張の多い司馬遼太郎」と喝破している。

 歴史を史実通りに書くことは言うほど簡単ではない。史料があり、文献があり、現地踏査を行っても、埋めきれない部分が残るものである。ある程度の想像が繋ぎ部分を埋めることがあっても、やむを得ないと私は思っているが、吉村昭の作品は余計な部分をこそげ落とし、史実だけで繋げようとする意思が読み手に伝わってくるという点では稀有の作家だと評価している。だから、この作家の作品はどれを採っても、のめり込まずにはいられず、あっという間に読了もできる。ある意味では地味な展開だが、それこそが真実を衝いているという証拠のように私は思っている。


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