東京ローズの悲劇/五島勉著

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「東京ローズの悲劇」 五島勉(1929年生)著
光潮社  1978年7月初版 単行本

 

 本書の主人公としての「東京ローズ」とは、アメリカ生まれの日系人、戸栗郁子、アメリカ名ハァイヴァーのことを指す。彼女が日米開戦前夜にケーンと名乗る男と恋仲になり、彼の言葉に従って、日米開戦は必致につき、戦時中は日本にいたほうが危険がないと吹き込まれ、横浜に住むヒルデというドイツ人女性とその夫(ロシア人)のところを訪ねるよう助言を受けるところから、このドキュメンタリーは始まる。

 日本軍の対米軍人放送組織を紹介されるが、そこには外国語に単能な人間(捕虜を含め)が集められており、上司であるヒルデが加筆したり修正したりした文章をNHKの短波ラジオを通じて読むという仕事をさせられる。

 彼女の第一回の放送は初めに哀愁漂うジャズを流し、その後、甘く切ないハスキーボイスでささやくようにネイティブアメリカンイングリッシュで米軍兵士に話しかける。

 例えば、こうである。「太平洋の米軍のみなさま、今日からこの時間は、あなたのトーキョー・ローズがお相手します。あなたの美しい恋人、なつかしい奥様方、そしてあなたの妹さんやお嬢さん、全米の女性たちは遠い故郷でこのヒットナンバーに耳を傾けながら、あなたのことを偲んで涙しているに違いありません。なかには、あなたが不在の寂しさに耐えかねて、あなたの知らない男の胸に、つい身を投げだしてしまう女性も多いかも知れません。嘘であって欲しいと思いますが、実際には米本土ではいま姦通や不倫が激増していることをワシントンの下院婦人委員会さえ認めています。ですから、あなたには一刻も早く恋人や奥様のために銃を捨てて故国にお帰りにならなければ・・・・。そうでないと、ホラ、あなたはガダルカナル海峡のST68号のみなさんのように、もう永久に恋人や奥様をとりもどせなくなってしまうのですよ。お相手はトーキョー・ローズでした。では、またね」と、感情を込めて別れの挨拶をする。

 放送されたガダルカナルのST68号とは、1千人の海兵隊を乗せて海峡を横断中の米駆逐艦に、日本潜水艦が発射した数本の魚雷による奇襲で1千人の精鋭が一瞬に波のもくずに消えた事実を示唆している。

 放送はだいたいが女性が担当し、替わりばんこに行ったが、常に夕暮れを選んで全太平洋の米兵の耳に、2年9か月間、連日にわたり悩ましく、かつ残酷にささやき続けた。

 この事実については、当時、日本国民は担当軍部を除き、知るところではなかったが、太平洋に展開していた米兵に知らぬ者はなかった。というだけでなく、ローズは一種の恋人的な感覚で受け容れられ、放送時間を心待ちにした米兵も少なくなかった。

 日本軍部としては米軍の士気に悪影響をおよぼすような内容で、放送を継続させたが、実はヒルダという女性は二重スパイだったらしく、加筆、修正しつつ、あるときは放送内容から、日本軍の実態、居場所などを知らせ、あるときは日本軍を叩き潰すような暗号を文章にこめたが、日本軍部はその事実については蚊帳の外だった。日本軍部がこの点からもいかに甘かったが判る。

 戦後、夫がロシア人であることから、ヒルダは補足されることなく、また、かなりの数の人間がかかわっていたにも拘わらず、戸栗郁子だけが逮捕され、しばらく東京の巣鴨プリズンに拘置された後、アメリカに連行、米国民の対日憎悪のはけ口として裁判が挙行される。結果、判決は10年の刑務所暮らしとなったが、7年で仮釈放され、後日になって、罪はなかったと名誉回復される。裁判が行われている時、初めに日本行きを勧めたケインという男を探したが、そんな人物は存在しないという結論だった。仕組まれた日本滞在であることが判る。

 このドキュメンタリーは謎が多く、不可思議な点があり、当時、この件にかかわった人間があちこちに散ってしまっていることから、作者にも解明できない部分が多く、その意味では、読後にすっきりしないものが残る。

 ただ、彼女が放送の最後に加筆も修正もなく、自分の言葉で真摯に米軍に対し、「日本は連合軍のポツダム宣言を受諾します。あなたがたが勝利しました。でも、ほんとうにそうでしょうか? あなたがたは本当にフェアな方法で勝ったと言い切れますか? あなたがたの上には、やがて、歴史の、神の厳しい審判が下されることでしょう」との言葉を発したのは、米軍が二個の原子爆弾を日本に落としたことに対しての人道上の抗議であった。

 本書が出版された時点で、彼女は63歳だったというから、もう生存していないかも知れないが、当時の米国では黄色人種は軽く扱われ、裁判においてすら、白人種に対するのとは雲泥の差の判決が出され、彼女としては単にスパイ活動にそれとは知らずに巻き込まれただけに、不運というより、哀切を感じさせられる。


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