歌麿/エドモンド・ゴンクール著

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歌麿

歌麿
エドモンド・ゴンクール(フランス人/1822-1896)著
訳者:隠岐由紀子  平凡社 単行本(カバー付き)
2005年12月初版

 日本人が書いた「歌麿」にはなんどか触れたけれども、外国人が書いた著作にお目にかかったのは初めてで、驚き、早速入手して読んでみた。

 作者は日本の開国後に西欧に持ち込まれた浮世絵、ことに歌麿の作品にいたく惹かれ、驚愕と賛嘆の面持で見惚れたという。

 さらに、しばらくして、パリを舞台に万国博覧会が開催され、日本も参加、日本の芸術品を持った、東大出のフランス語のできる林忠正という男性が随行し、その折りにエドモンド・ゴンクールとの出遭いがあったことが、本書の執筆と出版に結果した。

 林は万博後、パリに日本美術品を扱う店をオープンさせ、以来30年間、滞在しながら、日本やニューヨークなどへ足を運び、新たな仕入れに動くようになると、作者は林との親交を深めた。そして、浮世絵そのものだけでなく、浮世絵師、浮世絵の出来上がるまでの過程、浮世絵に描かれる対象、贋作の見分け手法、絵の背景、意味、生活用の道具などの説明を積極的に聞き、学んだ。


 むろん、パリで万博が行なわれた直後に、浮世絵が即座に西欧で評価されたわけではなく、西欧画壇に影響を与えるまでには若干のタイムラグがあった。


 作者は北斎などにも強い関心をもったが、林との出遭い以来、母親が残した遺産を浮世絵のコレクションに惜し気もなく費やした。


 一人の美人太夫がしゃがんでいる図を見ながら、「これほどの消え入るような調和をみせる版画を私は他のいかなる国でも見たことはない」と賞賛し、吉原の美人太夫の描き方について、自ら学んだことを次のように解説している。「第一に髪の結い方、髪油に丁子屋の元結、髪型はそれぞれの好み。眉は遠山の霧のように描かれ、目は秋波を情に寄せ、鼻筋高く、口元小さく、歯の白さは富士山の雪をあざむき、肌の絶えなるは春野の柳に似たり。黒ビロードに金糸にて飛龍の縫いのある打ち掛けに金襴の帯にて一分の隙もない出で立ちなり」との明快な説明がある。言葉の選択、表現の加減のよさは翻訳を担った人の能力であろう。


 とはいえ、作者は実際の日本女性一般の顔については、「縦に短く、丸顔、体は小柄で、ぽっちゃり型が多く、安手の面のように少々凹凸に欠け、ボール紙に押しつけてつくった線のように平板である」との正しい認識を示しつつも、「歌麿は意図的に顔を細面に、体を痩身にし、目は切れ長に細く入れ、口は二枚の花片のように描き、美人女性を理想化することに成功しているが、絵のなかの、女性自身の豊かな官能的仕草、幼児や海女を含め、生活感をそのままに写し、構図には奇抜なものを含め、多くの工夫がなされている」と激賞。また、歌麿が美人に限らず、鳥、魚、昆虫にも描く対象を広げ、春画も書いていたことも付記。


 「歌麿版画のなんという麗しさ、印刷芸術の眩惑するような魅力」と訴えつつ、「大衆のための機械的で卑属な産業でありながら、なお芸術性を失っていない」と感嘆。「もし、私がもう少し若ければ、日本に行ってみたい」と何度も漏らしたという。当時、エドモンドは60代の後半だったから、船旅しか交通手段のなかった当時としては遠隔の地への旅には厳しいものがあった。


 本書には歌麿の作品と思われるほとんどが網羅され、それぞれ懇切な説明が加えられているが、日本を訪れたわけでもなく、まして日本語を解したわけでもない作者がこのような著作を出版できたことは偏に林忠正という人物の協力に負うている。二人が会う機会は段々に増え、林はことあるごとに、エドモンドの質問や疑問に答え、また、新たに入手した日本語の文献、資料類を翻訳してやり、日本その他から新たに発見した歌麿や北斎の絵を作者が望むように調達してきた。


 本書はパリで1891年(作者69歳時)に出版、上梓されるや、世間から絶賛され、西欧各国に翻訳もされて、もてはやされ、人口に膾炙、現在でも世界中で読まれる古典となっている。おかげで、日本の工芸美術品、木彫、版画はもとより、象牙細工、青銅鋳造、刺繍、陶器、鉄細工、漆などが世界に喧伝され、日本の工芸品が知られるようになった。


 本書が日本で最初に雑誌に掲載されたのは1965年で、翻訳には永井荷風ら数人の翻訳によっている。


 絵の持つ微妙な濃淡、線の持つ優美さ、人物の配置への慎重な配慮などについての説明には、浮世絵の世界に埋没し、のめりこんでいる作者の心情が伝わってきて、本書帯広告の「著者は日本美術の熱烈な愛好者だった」という言葉に嘘も虚飾もないことを納得させられる。


 また、歌麿が春画を描いていたことも包み隠さずに説明しているが、当時の西欧では、そうした卑猥な画は軽薄な絵と唾棄される傾向にあったため、歌麿の裸の美人を描いた図に触発されてマネが「裸婦」を描き、発表したとき、画壇からは轟々たる非難を浴びたものの、日が経つにつれ、次第に見直され、現在では傑作の一つとして展示されるに至っている。


 訳者によれば、作者の死後、膨大なコレクションが遺言によりオークションに出され、収入の総額はゴンクール賞の設立と、ゴンクール・アカデミー会員助成のための資金となったという。


 浮世絵は歌麿、北斎に限らず、広重を含め、色々な作家の絵が開国後には大量に海外に流出したが、日本人にとっては、浮世絵は単に庶民の楽しみのための存在でしかないとの認識があったため、西欧人や中国人が持ち出すことに異を唱えなかった。


 浮世絵の影響を受けた西欧の画家は少なくない。ゴッホをはじめ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ドガなどは浮世絵から新しい発想、モチーフを得、作品を描き、多くが現存している。モネが生前に暮らしていた邸宅には300点にのぼる浮世絵が残され、展示されている。


 本書の作者は「歌麿」の次に「北斎」を書いた後、ついに日本を訪問することなく、逝去した。


 浮世絵が当時の西欧画壇に一種のショックを与えたことは事実で、それはあくまで絵自体の持つ独自性にあったのであり、浮世絵すべてが賞賛されたのではないと、私は思っている。また、万国博がもしイギリスのロンドンで開かれていたら、このような著作は世に出ることはなかったのではないか。芸術というものを理解し、浮世絵の持つ独特の個性を愛で、異質な美に驚異の目を向けるフランス人気質の横溢した花の都で開かれたこと、そして作者が林という得がたい人材に知遇を得たことが、この著作を生んだのであり、幸運だったのだと思う。


 「どんなに優れた芸術家が存在しても、その人物について、人物が創造した作品について、実物が残され、伝記の類が残っていないと、歴史の中に埋もれてしまう。その意味では、歌麿がゴンクールの目に触れ、彼を魅了したことがいかに幸運であったかが解る」とは、訳者の言葉だが、まったくその通りだと思う。


  


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