歎異抄の謎/五木寛之著

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歎異抄の謎

「歎異抄の謎」  五木寛之(1932年生)著
親鸞をめぐって「私訳歎異抄」原文・対話・関連書一覧
2009年12月25日 祥伝社より新書初版 ¥760+税

 

 帯広告に「親鸞は、本当は何を言いたかったのか?異色の提言」と書いてあり、この作家と表題とは昔から切っても切れぬ間柄にあるとの認識が私にはあり、宗教や信仰といったものには一切関心をもたない自分だが、この作家がこの年齢で一言残しておこうとの意志を感じ、「ならば」と入手におよんだ。

 親鸞の言葉として有名なのは「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」という言葉で、親鸞という人物の思想はこの言葉の奇妙さから発しているといっても過言ではないと思う。

 ただ、「歎異抄」という著作の原文を書いた人物は不明であり、本人が口にしたことを弟子の唯円(ゆいえん)がまとめたものであるとか、現存する歎異抄はすべて蓮如版だという説もある。

 「人間のあさましさ、こざかしさ、悪行は過去の行いや、過去に犯した罪の結果であり、阿弥陀様に向かってナムアミダブツと唱えるだけで浄土に行くことができる」と、歎異抄は言うけれども、人間には前世や来世があるがごとき前提があり、私には腑に落ちない。

 本書のなかから、私の心に響いた言葉だけを以下に抜書きする:

*そもそも何をさして善といい悪というのか。煩悩にまみれた凡夫である我々の暮らすこの世はすべて空虚であり、偽りに満ちた評価の定まらぬ世界である。

*人間は他の生命を奪うことでしか生きられない。生存そのものが弱肉強食という修羅の巷にある。人間同士が殺しあって奪い合う。生きるということはそのようなことであり、非合理の闇。

*我々は非凡な聖人ではない。無数の煩悩を抱きつつ他の生命(生命の営みすべて)を犠牲にしながら生きる存在である。

 ルース・ベネディクトが「罪の感覚は内発的なものであり、魂の問題であるが、日本人はこの感覚が欠如している」と言った。(そういう感覚をもつ白人が大航海時代、異教徒、異文化の世界に土足で入っていき、殺戮、略奪を繰り返したことを忘れるな)。

 もし、人類に宗教や信仰がなかったら、世界ははるかに平和であろうか?

 私は宗教や信仰が、そしてそれらの分派分裂が世界に戦争と殺戮とをもたらす根源だと思っている。異教徒や異なる文化を認めない精神(キリスト教とイスラム教に強い)こそが人間どうしの殺し合いを助長しているのだと。


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