武器よさらば/アーネスト・ヘミングウェイ著

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「武器よさらば」 原題:Farewell to Arms
アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)著
高見浩訳  新潮文庫 2006年6月初版

 

 名作との評価は定着しており、ヘミングウェイの名は、著作を読んだことのない人でも知っている。

 残念ながら、この著者の作品を手にするのは「老人と海」以来のことである。(いずれ、「老人と海」も再読してみるつもりだが)。

 著者は1899年にシカゴの近郊で生まれ、1961年に猟銃で自裁しているが、本書は第一次世界大戦を背景に、本人が傷病兵のケアを専門とする仕事をするためイタリア十字軍に奉仕した事実に、怪我を負ったときに入院した病棟で出遭った年上の女性と恋に落ちた事実を加え、全体的には虚実をたくみに織り交ぜ、展開させ、創造した小説である。

 解説者によれば「Arms」には「武器」という意味のほかに「手、腕」という意味もあり、それが「恋人との別離」(現実には年上の恋人から拒絶の手紙を帰国後にもらって破綻する)をもあわせ意味しているのではないかという。

 とすれば、「farewell」(別離)は「funeral」(葬送)にも繋がるのではないかというのは私の個人的な憶測。

 その憶測は、物語の主人公が厭戦の果てに、戦線を離脱、軍服も私服に着替え、恋人のいる土地に逃げるように足を運び、二人でスイスへ逃亡、その地で妊娠していた恋人が出産したが、赤子は死産、恋人も出血多量で死ぬという悲惨な結末を迎えるストーリー展開に根がある。

 「戦争の愚を語る」ことを目的とした小説といえばそれなりの意義は感ずるが、見方を変えれば、「戦線離脱」をした男の卑怯な行為であり、その事実への悔恨と、恋心を拒絶された怨念が根底にあって、女と戦の双方が作者にとっては単純に割り切れず、ある種錯綜した気分を残し、それゆえに創造されたものだという印象が拭いがたい。だから[Farewell]よりも[Funeral]が似つかわしいと思った。

  一見、剛直に見えるヘミングウェイという男の意外な側面、たとえば、執念深さ、癒されるざる傷心の深さなどを窺わせ、同世代の日本人軍人のもつサムライ魂とは相容れない。

 (たとえば、次にブログへの書き込みを予定している「マルタの碑(いしぶみ)」も同じ第一次大戦時の日本海軍の話で、これにも恋物語は出てくるが、こちらは色彩の一部でしかない)。

 ヘミングウェイもアメリカ人だなと思うのは、(20世紀初頭という時代を念頭におけば)、帰国後、信頼していた彼女から拒絶の手紙をもらったあとは、あっさり別の女と結婚し、子供をなし、離婚して、再婚、また子をなす。そういう姿からはごくありふれた一般的なアメリカンしか想像できない。

 さいごに、62歳で、猟銃で自裁して果てるなど、外見をあざむく女々しさに、「ちょっと待ってよ、髭のおじさん」といいたくなってしまう。

 訳者の「あとがき」で紹介されているが、「武器よさらば」は戦後二度も映画化されたが、かの有名な「西部戦線異常なし」という同じ大戦を扱った映画には遠く及ばなかったという事実も、上記したようなことの、男らしさに欠ける、やや曖昧な、自己撞着ともいえる作者の心の襞に起因しているからではないか。

 また、本書を執筆するにあたり、重要な場面となる「イタリア軍の撤退」「住民の大量避難」の現場となった土地をじかに踏査することすらしなかったというのも、手抜きに感じられ、「ロシアとトルコの戦いをはじめ多くの戦争の場にジャーナリストとして立会い、目撃してきたから現場を踏まなくても想像できる」というのは詭弁であり、エクスキューズとしか思えない。

 唯一、本書のクライマックスの場面、イタリア側から湖を渡ってスイスへと35キロにおよぶ距離を手漕ぎボートで逃避、移動するシーンは圧巻。

 とはいえ、私には本書が名作だとは思えない。戦時中という背景にも拘わらず、全体的に、テンポが緩慢で、ゆったりしすぎていて、背景と物語とに落差が強く、違和感がある。この名作といわれる著作に対し、「一人よがりの作品」といったら、言いすぎだろうか。


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