死の壁/養老孟司著

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sinokabe

「死の壁」 養老孟司著
新潮新書  2004年4月初版発行

 

 「バカの壁」に続く第二段。

 現代人が、ことに日本人が、人の死というものに接することが少なくなったことを訴えつつ、「人間の死亡率は百パーセントなんだ」と強調する。

 いわれてみれば、私も子どものころ人の死を多く見た。かつての警察官は交通事故死者や自殺者の遺体処理が迅速ではなかったし、ムシロ一枚をかけてかなり長い時間放置していた。私などはムシロを引き揚げて死体をじっくり観察までした。それで警察官に叱られた記憶もない。

 それでも、発展途上国に行けば、むかしの日本と大差ないし、殺人事件が起これば、殺された死体をもろに映像で流す。日本は逆に、被害者の顔写真はテレビ放映するが、加害者の顔は「人権」を配慮して滅多なことでは放映されない。これも日本流のやり方なのか。「人間は死と同時に、その人権を失う」という考えが日本人一般に受容されているのかどうかについても分明ではない。マスメディアが勝手にそう決めつけているとしか思えない。

 確かに、現代人は宇宙にロケットを飛ばしたり、ミサイルで攻撃目標に命中させたりはできるが、蟻一匹、蝿一匹、蚊一匹、生命体をつくれはしない。そうした生物の頂きに存在するのが人間であり、その生命システムはいかにも深遠にして複雑。宇宙が生み出したものは、あらゆる宗教がその不可思議さから発したように、人智を超えている。

 「ウンコをすることと死ぬこととは同じ延長線上にある」が、ウンコをなくすことができないように死体を消してしまうこともできない。「人間というものは、あらゆる生物がそうだが、生まれたときから死に向かって不可逆に、一定の目的もなく、進行する存在。宇宙もまたそうであるように。

 「日本では脳死も安楽死も問題となって揉めている」が、一方アメリカでは「人工中絶の可否」をめぐってのほうが大問題で、いまなお結論が出ていない。

 「宗教の違いかも知れない」と著者はいうが、それは宗教というものへの人々の固執度を意味する。日本には戦前まで土葬も火葬も風葬もあった。それが大戦後にマッカーサーに「こんな狭い国で土葬することはない。ぜんぶ火葬にしたらどうか」といわれ、提案した当人が驚くスピードで日本政府は「火葬を法律で決めしてしまった」。葬儀のことはどの民族にとっても長いあいだの習慣と伝統から築かれたもの、こんなに簡単に「はい、そうします」という民族はいない。ちなみに、ヒンドゥー教では火葬のあと、骨は水に流しておしまい。 世界で最も合理的な埋葬だと思う。

 では、アメリカに火葬施設はあるか? 他民族国家であるがゆえに、葬儀にも民族による伝統があり、したがって選択の余地があり、火葬場はたとえばニュージャージー州にもあるし、ほかの場所にもある。

 著者によれば、むかし日本では奇形児が生まれれば、産婆さんが座布団の下に敷いて窒息死させるか、あるいは産湯につけて溺死させていた。むろん、周囲、家族の暗黙の了解があった。また、身障のひどいケースで幸いにも殺されなかった場合、家の奥深くに設けられた座敷牢に終身入れられたか、貧乏人のケースならサーカスに売られ「見世物」にさせられたという歴史がある。「コケシは子消しからきた言葉」だという説もあるそうだ。

 「脳死は死ではないが、臓器移植は可能というのが臨調の結論だった」が、「脳死は死であるから」という文言に社会が抵抗するからだという。非論理的だが、これが日本社会を納得させ得るルールらしい。

 このことはこの国に特有の「母子心中」の理屈に似ている。「子は母の所有物」「子は母の一部」そういう社会的な認識があり、中絶が簡単に行われるのも「胎児をとるのは臓器の一部をとるのと同じ程度の問題」という考えが存在するからだという。 そこには「母と子はまったく別の個体であり人格である」という西欧的な認識が欠落している。

 「第二次大戦で多数の人命を失い、日本は生まれて初めてアメリカにぼこぼこにされたが、その後、経済的に大きな飛躍をみた。この双方のプラスマイナスの収支決算をだれもやってない」という言葉は確かにその通りだ。

 「人の命は地球より重い」

 こうした人命尊重論は大戦の反動から発生したが、しかし、この理念はあくまで建前であって、車社会になって年間に1万人もの人が死んでいるうえに、自殺者は3万人に達している。そのことが重篤な問題として議論されたこともないという作者の言には同感。

 駐車スペースもないのに、車をなくせという人はあまりいない。日本経済を支えてきた自動車産業が車を売りまくってる一方で、駐車禁止のレベルが一段と厳しくなり、車による移動が年々むずかしくなっている現状への打開策はまったく示されていない。

 「人命が地球より重い」とは、実はだれも思っていないからではないか。これは人口の多少によって、国民の意見も感想もかなり異なる性質のものである。なにせ、13億もの人口を抱える中国や10億に近いインドには「人権」という言葉すらピンとこないらしい。たぶん、この現実はアメリカ人には永遠に理解できないだろう。

 「エリートがエリートとしてのしっかりした教育を受けることがなくなった。各組織、団体、企業、それらのトップにトップとしての覚悟と、潔さと、それなりの教養が見受けられない。単なる平等主義から「可もなく不可もない人材」が成り上がったトップにトップらしい人物はいない。」そのうえ、トップはその立ち場を利用して、信じられないような悪徳を行なう。金銭への執着は教養とか教育とか立場とかには無関係なのか。 日銀の総裁がそうであるように。

 最後の言葉は日本の、あらゆる組織のトップに聞かせたい。現実問題として、まさかと思われる人が、どんでもないFUND組織に金を供出し、己の立場を認識するどころか、責任すら潔くとろうとしない。「まさか」のついでにいうが、まさかと思われる立場の人物や大企業が反社会的な行為をする都度、TVのまえで深々と頭を垂れ「国民のみなさまにご迷惑をかけ、たいへん申し訳なく思っております。二度とこのようなことを起こさぬよう、社員に徹底いたしたく存じております。申し訳ありませんでした」ということで、すべてが許されてしまうような錯覚がある。「TVがなかったら、おまえら、全国行脚して謝るのか?」といいたくなるのは私だけではないだろう。


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