江戸の数学教科書/桜井進著

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江戸の数学教科書
「江戸の数学教科書」
桜井進 (サイエンス・ナビゲーター主宰/サイエンスエンタテイメント活動を展開) 著
帯広告:日本人が愛した算数の心とは?/世界一の水準を誇った江戸の数学ワールドへ!
2009年3月28日 集英社Int’lより書き下ろして単行本初版 ¥1200+税

 
 江戸期に発達した、関孝和を中心とした和算の全貌に加え、関孝和の行列式が西欧の数学者より若干早かったというだけのことだろ?」と思っていた知識がとんでもない誤解であることに気ずかされ、むしろ西欧の数学世界から切り離された遠隔の島国にあって、独自に和算を発達させてきた独創力に驚異と敬意を感じずにはいられなかった。

 また、著者の文章は決して巧みではないが、誠実で、清々としていて、読了感も爽やか。

 本書のさいごには、「数学が嫌いだ」という人は、おそらく数学を無視できずに、数学が気になって仕方がない人であり、環境さえ整っていたら、間違いなく数学好きになっていただろうという言葉があり、確かに高校時代、数学ではお手上げだった私自身が今になって数学や物理学の本を何冊も読み耽る姿勢を顧みると、作者の言葉が正鵠を得ているような気がした。

 以下は、本書を通じ学ばせていただいたポイントのうち、これはという点に絞って紹介する:

1.江戸時代、受験戦争があるわけでもなかったのに、生活に役立つわけでもないのに、数学(当時は算数、算術といった)が大流行した。

(パソコンや携帯によるゲームのなかった時代から、日本人はゲーム感覚で数学を学んだのではという気がする)。

2.「算額」が今日でも全国の神社仏閣に残っているが(1千近く)、それは難しい数学の問題が解けた幸運を神仏に感謝する目的の絵馬として奉納したものが多いが、算額には、また、「解けるものなら解いてみろ」といった挑戦的な問題を掲げるものもあり、コミュニティーのなかで数学が共有されていたことが判る。

3.平安時代、九九が始まり、九九の表が源為憲(みなもとためのり)の「口遊」(くちずさみ)という書に記されている。さらに、万葉集の和歌には九九を使った言葉が幾つも見られる。

4.室町時代末期には商業活動の活発化に伴い、ソロバンが使われるようになったが、ソロバンは中国からの伝来。中国では1299年に朱世傑(しゅせいけつ)の著した「算学啓蒙」という書籍により「天元術」という新しい数学が確立、これは代数に相当。この本が日本に伝わったのは16世紀末期頃で、和算の隆盛に寄与した。

5.京都で算学塾を開いた毛利重能は江戸時代を通じて脈々と続いた和算家の系譜におけるルーツで、数百人の門弟がいた。なかで、吉田光由は中国の明時代に入ってきた「算法統宗」を学び、江戸時代のベストセラー、「塵劫記」(じんこうき)を出版。江戸末期には一家に一書というほどの売れ行きを示し、当時の文学界の大御所である井原西鶴や十辺舎一九の作品をはるかに凌駕する部数を売り、海賊版が出回るほどだった。

 毛利は海賊版に対抗するため、出版元と相談し、四色刷りのカラー版を世に送り、これが日本で最初の多色刷りとなる。浮世絵を可能にする前提となる快挙でもあった。

(四色あれば、どんな地図も塗り分けることが可能という数学の公理とも一致している)。

 「塵劫記」が普及し、寺子屋の教科書ともなり、江戸中期には多くの日本人がソロバンを使い、九九や割り算を覚えた。

 後期では娯楽的色彩が強くなり、「ねずみ算」「継子立て」「盗人算」「入子算」「俵杉山」「百五滅算」などのほかに「開中」や「開立」と称して平方根や立方根を教えるようになる。

 1641年になると、吉田は初版から十数年後になるが、増刷の機会に難問を付録のようにつけ、数学の力のない人間が田舎で和算の塾を開いているのを排除する目的で、全国の数学ファンにこの問題を塾の教師に解いてみせるよう迫れとけしかけた。この付録問題はさらに一般人でも解いてみせる者も出てき、解けた人はこんどは自分がさらに別の問題をつくって「解いてみろ」と問題を提起する。出題と回答とが繋がっていく、いわゆる「遺題継承」が起こり、このおかげで、江戸時代の数学は飛躍的にレベルアップした。

 塵劫記を越えてから、本当の意味の和算が始まったといえ、この時点で、日本は中国の「算法統宗」のレベルを超えたといっていい。

6.和算をさらに発展させた背景に、中国から伝来した「算学啓蒙」の教える「天元術」があり、未知数を求める代数学で、今日でいう「一元高次方程式」。

 1695年に奉納された山形の遠賀神社の算額には、八次方程式の問題と解が書かれている。

 西欧では方程式を解くのに、未知数を「x」や「y」を使って解いたが、中国の手法ではここから先に進めなかった。

 関孝和は1674年に「発微算法」という著作のなかで「遺題継承」に掲げた和算家の沢口一之の15問の遺題にすべて応えた。「x」や「y」の代わりに、甲、乙を使うことに自ら思いつき、これにより日本の和算は高等数学として発展する。

 1685年、関の門弟の一人、建部賢弘が「発微算法演段解」という解説書を書き、師匠の業績のほとんどは門弟たちによって後世に伝えられた。

7.関孝和の代表作に「括要算法」があるが、これは関が没した4年後の1712年の発表。関がこれを発見し、書いたのは生前の1680年だった。1713年、スイスのヤコブ・ベルヌイが「推論術」という本のなかで採り上げた法則で、関の「数列の和の公式」と同じものだったが、数学の世界では今日でも、「ベルヌーイの公式」と呼ばれているが、明らかに関のほうが早く発見している。

8.日本では「家元制度」ができ、奥義を伝授し、マスターした者には免許皆伝が与えられるシステムがあった。(俳句、和歌、華道、茶道、囲碁、将棋、剣道、柔術と同じく、なにかというと「家元制度」をつくった)。関流は和算学の頂点をきわめた一派だが、ほかに最上流、中西流、宅間流、中根流、千葉流など、多くの流派があり、互いに切磋琢磨し、新たな発見を競った。

9.関の業績は以上にとどまらない。代数方程式、ニュートンの近似解法、極大極小理論、終結式行列式、近似分数、円周率の計算など、独学というハンデのなかで発見し、つくりあげた。

10.円という図形ほど人間の知的好奇心を刺激する図形はない。円周率を懸命に計算している人がいて、現在では一兆桁を超えているが、これまでのところ出てくる数字は10個の数字がランダムに、確率的には均等に現れているが、無限に続く小数のなかで、これまでと同じようにランダムに数字が出てくるかどうかについては今のところ誰にも予断はできない。ひょっとしたら、規則性も癖もない「究極のランダム」である可能性もある。

 一方で、円はいわば乱れのない図形であるが、そのなかに究極の乱数が含まれている可能性もあり、であるからこそ、1兆桁を越えてなお計算をやめない人が存在する。それにはそれなりの価値があるからだ。

11.円周率が割り切れないとは江戸時代の和算家も知っていた。村松茂清という和算家が1663年に出版した「算俎」(さんそ)という本に円周率についての記述がある。彼は「円に接する正2n角形」を使って円周率を計算した。それは3万2768角形で、2の15乗。これによって、小数点以下「7桁」まで正確な数値を出すことに成功した。

12.関孝和は1683年に、2の17乗角形を用い、辺の数では村松より10万倍近く増やし、小数点以下は「10桁」まで正しい数値を出した。関の計算法は村松より効率が良い方法で、その方法が西欧で1926年にエイトケンという数学者によって発見されたため、今日でも西欧ではこの手法を「エイトケン加速」と呼称している。

13.関が微分積分を発見していなかった理由は和算に「無限」と「ゼロ」がなかったからだ。表記法として「令」や「下」などゼロに相当する文字を使ってはいたが、単なる位どりが目的で、ゼロのもつ真っ当な概念に発展することはなかった。さらに、決定的なことは、抽象的な代数が発達しなかったこと。にも拘わらず、微分積分を前提とする理論は生まれていたという不思議。(とはいえ、ゼロを発見したのは欧州ではない)。

 それは、関の高弟、建部賢弘(たてべけんこう)の「無限級数展開の公式」による。

 建部は、円周率では、関の方法とは異なる「累編増約術」を使い、たったの正1024角形(2の10乗)で、「41桁」まで計算した。現在、その方法は、1910年頃にリチャードンが発見したため、「リチャードン加速」と呼ばれているが、建部は200年近く前に発見している。

14.無限級数の問題で、ベルヌーイはそれが無限大であること(「発散」するという)を発見した次の段階で、「自然数の平方の逆数の和」で発散するか収束するか(無限大にならないことを意味する)という問題を提起したが、意外な難問で、解を発見できぬまま1705年に死去。

 これを解決したのはオイラーの「無限級数公式」で、彼は「エレガントな表示を得ることができたのは円周に依存したからであり、この級数の和を6倍にしたものが直径1の円の円周率の平方に等しいことを発見した」と、ここでも円が回答を得るためのキーだったことが判る。「円」とは不思議を通りこして「不気味」でさえある。

(円が不気味なら、宇宙に存在する球体すべても不気味)。

 建部は上記の円周率計算時(1722年)に「無限級数展開の公式」を発見しており、オイラーの発見は1735年、微分積分のない日本で、この公式が発見されたことは驚嘆に値する。

 建部は暦法術、測量術を買われ、徳川将軍三代に継続して仕えた。

15.建部が41桁で円周率を計算した当時の西欧では、ドイツのコイレンという学者がそれより半世紀前に35桁まで計算し、1671年にグレオリ、1674年にライプニッツが別々に、それぞれ72桁までの計算に達している。江戸時代を通じた日本人による新記録は松永の52桁で、西欧には負けていた。とはいえ、江戸時代の日本ほど庶民が日常レベルで数学を勉強していた国はほかにない。

16.18世紀後半に生きた安島直円(あじまなおのぶ)は、三角形に内接する3つの円が互いに外接するとき、その接点と三角形の3頂点を結ぶ3直線は1点で交わることを発見した。イタリアのマルファッティがこの定理を論じたのは安島が没して25年後の1803年だったが、さすがにこの式には世界的に「Ajima Marfattiの定理」との名称がある。

17.明治時代に入ると、学校では洋算を教えるようになったが、教科書の作成その他に和算家が協力することで目的を早期に達し得た。

 以上だが、算用数字がもし日本にあったら、もっと進んだ数理が発見されていたかも知れないとは思うものの、漢用数字を使って数学の知識をここまで広げたことには、知らなかったとはいえ、畏敬の念を覚える。さらには、本書に出会った幸運を噛みしめている。


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