江戸の英吉利熱/タイモン・スクリーチ著

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英吉利


   「江戸の英吉利熱」  タイモン・スクリーチ著 

    村山和裕訳    講談社選書メチエ

    帯広告:鎖国下の知られざる日本視覚交流史

  江戸とロンドン、あるいは日本とイギリスの、二国間を移動した物資の内容から、これまで書かれることのなかった江戸人とイギリス人との、あくまでも想像(著者はフィクションという言葉を使っている)を通しての交流を描いたもので、そのアングルの奇抜さは敬意に値する。

 16世紀はポルトガルとスペインの時代、17世紀はオランダの時代、18世紀以降はイギリスとフランスの時代と、世界を股にかけて植民地拡大に走った大航海時代の覇者の変遷のはざまで、あくまでオランダ商館を通して世界と相対した日本がどこまで世界を知っていたかについても書かれている。

 ロードス島の巨人像、バベルの塔、ピラミッド、ロンドン橋、バビロンの空中庭園についても、すでに邦訳で紹介されていた。 イギリスの生んだ科学者、ニュートンについても、ボイルについても、ハレー彗星を発見したハリーについても、また太陽系を中心とする惑星の運行についても、ある程度の江戸の知識人にとっては常識だった。

 16世紀、ロンドンも江戸も20万足らずの人口の田舎町に過ぎなかったのが、18世紀にはそれぞれ90万、100万という世界有数の人口を抱える大都市へと変貌する。 互いの文化度も上昇したが、物資の豊富さに支えれらたとはいえ、両都市の住人には共通した「流行」に敏感な「病理」が随伴するとは、両国の知識人が等しく論評する。 人間は軽佻浮薄となり、江戸の場合なら、参勤交代で田舎から江戸にやってくる武士も、江戸に入って2、3年もすれば、本来の質実剛健な気風が消え、軽薄きわまりないとは湯浅源蔵の慨嘆。(幕末には武士が竹みつを鞘に収めていたという話もある)。

 (また、イギリスではルネサンスの影響で騎士道が従来の精神から逸脱した時代)。

 オランダが平戸に商館を開設したとき、隣り合ってイギリス商館があり、貿易を競ったものの、イギリスの主力商品だった毛織物が日本人には魅力的ではなく、10年後に閉館のやむなきに至り、以後は長崎の出島に居を移したオランダだけを通して物資の売買がなされたというが、この事実については初耳だった。

 

 イギリス人ながらオランダ商館の社員として來日したウィリアム・アダムスを忘れてはなるまい。彼は徳川家康に信頼を得、神奈川県の三浦半島に250石を幕府から支給され、その縁で三浦按針と名乗ったらしい。

 物資のなかで、江戸の富裕人から珍重されたのは時計、眼鏡、望遠鏡、鏡、絵、銅版画、ガラスであり、逆にイギリス人は磁器類や絹製品は中国から買い、日本製のものは「あぶな絵」「漆製品」「屏風」などに興味を示したという。 また、一方で、イギリス人は江戸人の流行感覚が迅速に変化することに頭を悩ませたらしい。 

 もっとも、イギリスは鉄道や大型船舶、艦船などに力を示すことになり、時計はスイスに、レンズはドイツに、ガラス工芸はフランスに、技術面で譲ることになる。

 (時計については、当時、日本はいわゆる「和時計」を使っており、農業国であったため、日の出を「明け六つ」、日の入りを「暮れ六つ」と呼び、あくまで太陽の出と入りを軸とした生活に終始し、洋時計は驚異的なものではあったものの、あくまで趣味の世界だった)。

 オランダはあるときはフランスに、あるときはスペインに領土侵害を受け、国王がイギリスに亡命するなど、小国としての苦労はあったが、それだけに日本との友好親善を保て、日本に脅威を与えることもなく関係が齟齬なく円滑に続いたことが推量される。

 そのオランダですら、イギリスの威嚇でインドから撤退し、フランスによってはべェトナムからも撤退を余儀なくされ、押し込まれる形でスマトラを、ジャワを、バリをと、東へ移動、最終的にインドネシアのほとんど全土を植民地とし、(現ジャカルタをバタビアと命名し)、ゴム、胡椒、コーヒー、シナモン、紫檀、黒檀、白檀など収奪に近いやり方で本国に送っていたのだから、18世紀のイギリスがめぼしいもののない日本など相手とせず、中国をはじめ、豪州、北米という大陸に資金、軍事力、労働力をかけたであろうことは容易に想像できる。

 ただ、船というものは女性不在空間で、そこにはしばしば卑猥な女の裸体が描かれたものが掛けられており、あるとき、二人の日本貴婦人を意図的にこの部屋に案内し、絵を見せたところ、二人は「猥褻画」のヴィーナスをマリア様と勘違いして、伏して、拝んだという話が出てくるが、二人の女性の目に卑猥な絵とは映らなかったのであろう。本書には二枚の、女性が乳房を剥き出した絵が紹介されているが、いずれにも卑猥な印象はない。著者が「ポルノといい、エロといっても、それは国民性、時代、社会背景によって、異なってくる」との言葉に納得した。

 (日本では男女混浴が社会的に普通のことだったこともあり、女性の裸体に驚愕するような素地はなかったのではないか)。

 ただ、イギリス人は日本に、いわゆる「春画」「枕絵」「あぶな絵」と称するものが大量に版画として売買されていたことを知っていたし、日本人がこういうものを好む国民であることも承知していた。

 (たぶん、そういう事実が誇大に伝聞され、「日本の男は異常に女が好きで、スケベだ」といった風聞に結果した可能背性は否めない)。 

  驚いたのは「数年後、ポルトガルがあらためて日本との交易を望んで、來日した折りのこと、日本側はまったく武装していない70人のポルトガル人をすべて殺害した」というくだりである。著者は「イギリスがプロテスタントであるのに比べ、ポルトガルはカトリックで、宗旨的にはより原理主義的でかつ攻撃的であったこと。そういう風潮がキリシタン宣教師追放のあと、島原の乱にまで発展し、それが幕府側に憎悪心をもたらしたのではないか」と、同情を寄せるどころか、むしろポルトガルに対して批判的な言を吐いている。想像できることは、当時オランダにとってポルトガルは憎悪の対象であったことだ。

 とはいえ、ポルトガル宣教師らは真摯に懸命に布教に努めただけだった。そこまで憎まれる理由はなんとしても納得がいかない。 70人のポルトガル人を斬首した歴史的事実を忘れないようにしたい。 


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