江戸の身体を開く/タイモン・スクリーチ著

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江戸の身体を開く

「江戸の身体を開く」 タイモン・スクリーチ(1961年生/イギリス人・江戸文化論専攻)著
原題:Open The Edo Body
帯広告:解剖(切り開くこと)の衝撃/人体解剖から見た江戸文化論
訳者:高山宏
1997年3月5日 集英社より単行本初版 ¥3700+税

 

 イギリス人でありながら、一般の日本人よりはるかに江戸を知っていることに驚愕。

 幕府から長崎の出島を与えられたオランダという窓を通して入ってきた西欧の文化、科学などが日本人によってどう評価され、処理され、変容したかを数々のエピソードや上梓された本、文献などから追った労作。

 内容から、目に留まった箇所を下に抜粋する。

1.日本人は対象の中身を切り開かず、全体性をもって物事を把握する民族。一方、オランダの芸術的表象の世界では、事物をそのまま出したのでは注意も関心も引くことはなく、内部をさらすことで知るに値する対象となる。これは西欧諸国のなかでもオランダに固有の現象で、そういうオランダが日本と直接に繋がった唯一の国だったという点が面白い。(皮肉でもあった)

2.平賀源内は日本では有名な人物だが、西欧一般には知られていないものの、オランダ人はよく知っていた。一方で、医学の祖とされるヒポクラテスの名は江戸期の日本人医家にも知られていた。

3.キリスト教文化では神は自身に似せて人間を造ったとされていたため、人間の身体は小宇宙という考えが生まれ、結果、解剖は研究に値するテーマとなった。

4.日本人にもよく知られている「ターヘル・アナトミア」は「図解解説解剖書」であり、ヨハン・アダム・クルムスが、1732年に書いたもの、これが杉田玄白が書いた「解体新書」の教本となった。アナトミアを見た日本人医家は外国人がそこまで知見のあることに感心したり、疑心を覚えたり、解剖用の鋭利な刃物に驚嘆したりした。日本の医家もオランダから外科道具を取り寄せ、買っていた。

 1823年に日本に来たシーボルトは事件後、日本を去るにあたり、外科の道具一式その他を記念に残していったが、受け取った側もシーボルトの形見のようにし、それを使うことはなかった。

 「医は仁術」という伝統的な感覚とあわせ薬草を主だった医薬とした漢方を主とした医に偏向してきた日本の医家にとって鋭利な刃物を使う西洋外科を医療の一技術として考えることなく、その効力を見せる機会に恵まれぬまま、江戸社会で怖いというイメージばかりが肥大した。18世紀の手術はまだ麻酔術を知らなかったという背景もある。

 (ただ、麻酔を使って乳癌の手術を行なったのは日本の華岡青洲が世界で初めてのことだった)。

5.身体が全体としてどういう働きをするのか、その根本原理とはどういうものか、日本人医家の関心事ではなかった。身体内部のことは漢方で薬を飲ませるだけにとどまり、内部を開いてみるなどという研究心とは無縁だった。外科的な発想はなかったが、薬に関する知見は漢方のほうが西欧医術より進んでいた。

 (西洋医学では治療方法がないと言われる難病にも、漢方薬で治ったという事例が現代でも中国にはある)。

6.外科、内科のアンバランスに最初に覚醒し、人間身体を切り開いてみることに価値を見出したのは京都の橘南渓で、1783年に死体腑分けを差配し、画期的な「臓図」をつくった。

7.新井白石などは「漢方は薬で」、「蘭方医はナイフで」と、西洋医は薬を使わないと誤解していた。

8.津山藩医の宇田川玄随はオランダ内科書の訳に10年を費やし、「内科撰要」とのタイトルで全十八巻を没後の1810年に出している。

9.18世紀後半になって、幕府は初めて解剖を許したが、最初の例は夫を殺害した女で、打ち首にしたあと、その死体を医家に与えたというもの。以降、何体かの処刑された罪人の遺体が解剖に供されたが、いずれの遺体にも首がついていなかった。罪人の死体は解剖後も市中に曝された。

10.身体内部は相互に強く連携、充実していて、そう易々とバラバラに取り出せるものではなく、日本人の「腑分け」という言葉が適切でないことに覚醒した人物が「解剖」という言葉を創った。杉田玄白は自分がその言葉を考えたと言っているが、真偽のほどは不明。

11.山脇東洋の「贓志」は1759年に出たものだが、絵を描いた点としては日本国産最初の解剖図だが、丁寧さにも明確さにも欠けている。

12.折角、僅かながらも、死体を入手することができても、解剖にはこれに必要な器具が必要であり、18世紀日本にはそれが揃っていず、オランダから持ち込まれた解剖図と見分けが一致しないことに日本人医家は苛立った。

13.杉田玄白も腑分けには立ち会っているが、図解通りに見ることができず、解体新書はアナトミアをそのまま写し、文章には脚色が加えられ、玄白という人物のエゴが見え隠れする。さらに、アナトミアをそのまますべて写したのでは世間から大きな反発が必致だったため、玄白はかなりの部分を割愛せざるを得ず、ために本格的な医学書とはなり得ず、出版後に、公儀、御三家、朝廷に献じられた。
 現に、女性の子宮と胎児の絵図は解体新書からは省かれている。

 (まるで、日本の政治家や官僚を見ているよう)。

 解体新書の図解は木版メディアに写す難しい仕事だが、秋田藩の下級武士、若干25歳の小田野直武が担当した。

14.玄白はアナトミアの骨格図を見て、全身の骨格が見たいという欲望を抱き、刑場に出向いて骨を拾い、全身骨格をつくろうと決意するが、うまくいかず、放棄したが、その意欲はことの成否とは別に、感覚の斬新さとして評価できる。

15.丸山応挙に「白骨座禅図」があり、1787年に発表されたが、深い知を表すメタファーを考えた最初の日本人。

16.名所図解は18世紀末期に出ているが、「人体解剖図」と旅の案内地理とが並行感覚で捉えられていた点は西欧も日本も同じ。その感覚は双六にも及んでいる。

17.オランダ人にとっては切り開いて見ることが真理に至る唯一の方法であったが、日本人にとっては様々にあるアクセスの一手段に過ぎなかった。江戸人は長く「断面図」という視覚をもたなかった。19世紀の初頭になって、ようやく理解するようになった。尤も、こうした知的探求はX線の出現によって止(とど)めを刺された。

18.北斎も「生首図」を描いているが、解剖図とはほど遠いもので、「死のスペクタクル」といったイメージのもの。

19.心臓がポンプ装置であると革命的な発見を公表したのはイギリス人のウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)だった。

20.日本では13世紀に「九想詩」という絵があり、人間が死体となった後、どう変化していくかを9枚の絵で示されている。臨終の床の死者、死体の膨張、皮膚の変色、死体の崩壊、髪の毛の脱落、眼球の飛び出し、臓器の落下、骨が露にされ、野犬やカラスについばまれ、白骨と化し、ついには骨さえ無に帰す。これが日本的観察方法のベースになっている。だからこそ、芭蕉も旅に出るにあたり、「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んでいる。

 以上、イギリス人研究者の江戸に関する知識の深さに驚くとともに、渉猟した文献の多彩さにも驚愕、多くのページを使って図面を掲載し、読者の目に訴える手法にも感心した。


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