「狂い」のすすめ/ひろさちや著

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「狂い」のすすめ  ひろさちや著
帯広告:人生に意味なんてありません。生き甲斐なんてペテンです
集英社親書  2007年1月初版

 

 冒頭に室町時代の「何せうぞ。くすんで 一期の、ただ狂人」という歌が紹介される。意味は「なにをあくせく真面目くさっているんだ。人間なんて一生の夢、ひたすら狂え」と説いている。

 その当時、飢饉か何か厳しい状態があったのであろう。「一期の夢」という点に限れば、権力者といえども、百姓の自分と同じレベル、「真面目に生きねばならないと思うから負担に感ずる。くそまじめに考えるのをやめ、「自己拘束、自己拘泥から逃れれば楽になるとの説諭である。

 いっそ、狂人になってしまえば、卑屈にならずにすむし、周囲も狂人を恐れ、よけいな小言や助言からも自由でいられる。

 作者は「京都議定書」にアメリカがサインをせず、アメリカ政府が二酸化炭素を大量に出すアメリカ国内の産業に配慮したことを書いているが、今後、アメリカよりやっかいなのは明らかに中国であり、インド、ブラジル、ロシアであろう。彼らが垂れ流す産業廃棄物がいずれは近隣諸国に苦悩を与えることは火を見るより明らか。

 作者は日本の着物の利便性と他国にない特質とを説いているが、私見を述べれば、日本人は基本的に機能を大切に考える性質を持っている。その民族が長い期間、着物という、中は男なら褌(ふんどし)、女なら腰巻という、セックスするには便利ではあるが、大正時代、デパートが火災に遭ったとき、女性店員が着物のおかげで恥ずかしくて飛び降りることができずかなりの女性が死んでいる。

 機能重視の日本人が日常の生活に不便なものを変えようとしなかった事実(下駄を含め)は、私にとって大きな謎であり、疑問。

 「病人だから劣等だ」と言っているのは作者であって、曽野綾子なら「栄養失調と食料不足が続くと、人間という生物は抽象的な考え方が出来なくなる。1つのものを何人かで分けて食べるという観念すら喪失する」と言っていて、曽野綾子の方が内容的に科学的である。

 作者は「トルコに行ったとき、商店の主人と値切り交渉を延々と行なったが成功せず、時間を無為に過ごさせたことを詫びると、相手のトルコ人は日本人と楽しい時間をもてたから楽しかった」と応じ、感激したというが、発展途上国の商店主は概して暇なんです。暇つぶしにつきあってくれたから感謝されたんです。誤解しちゃいけません。さらに言えば、トルコ人は一般に日本人が好きなんです。

 「灰色の浪人生活」という言葉を出しているが、いまどき、こういう言葉はなお生きているんですか?せめて、浪人生活をしている学生10人くらいには直接訊いてみて、発言してくださるよう願います。

 サマセット・ホームの『人生の絆』では「ある王様に5百巻におよぶ書籍が献上されたが、もう少し短くまとめてくれるように依頼する。それでも、ようやくできあがったのが一冊の分厚い書籍で、とても読みきれる量ではない。そこで、さらに、余計な部分はこそげとってって、芯の部分だけをまとめてくるように依頼、結果、一行に収められた。曰く、「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生など意味はない。人間の生涯における労働などなんの役にも立たない。彼が生まれてこようが、生まれ来なかろうが、そんなことは一切影響ない。生も無意味、死もまた無意味」と要約されていたとある。

 作者はサマセットの書に感動、以後「人生に意味なんてない」というと、「じゃ、なぜ死なないんだ?」と反論されるから、以後「ついでに生きている」と応えることにしたという。悪くない考え方だと思う。

 作者が皇室のことに触れている。「皇室の天皇や皇太子の人生とホームレスの人生とが同価値であるような意味があってこそ、真の人生の意味といえる」と、仰る通りだと思う。

 イラクに派兵したり、発展途上国に金をばらまき、宮内庁に1千人を雇用する余裕のある政府がなぜ、同国人にまず手を差し伸べないのか不可解といえば不可解。

 議員のための宿泊施設にしたって、ものすごい無駄を平然とやっている。このような不遜を平然とやる日本の政治家にまともな常識、意識があるのだろうか。

 「何かの役に立つ」ことを軽視する言葉があるが、金銭目的でないボランティア活動が社会的に役立つことは現実にあることで、役に立てるという意識は当人の精神を活性化する。決して悪いことではない。

 作者は「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人の情なりけり」と詠んだ米沢藩主、上杉鷹山(ようざん)の歌を、まったくいやらしい歌だと一顧だにしないが、私もまったく同感である。日本人がなにかというと「頑張れ」「頑張ろう」というのも、私の嫌いな言葉の一つ。

 「武士道は嫌いだ」と言うが、そう書く以上、「武士道の全貌」について詳しく調べ、なぜ嫌いなのかを読者が納得のいくように説明する義務が作者にはある。一言で「武士道」というが、日本人が長く徳目として考え、血となり肉となった思考の背景には武士道、朱子学、儒教などが渾然一体となっており、そのうえ時代の変遷にともなって変容もしており、「武士道とは」という名のもとに、武士道の全貌を誤りなく著すことは思うほど簡単ではない。

 釈迦の言葉「過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに過ぎ去った。未来はまだ来ない。だから、現在のことがらをよく吟味し、揺らぐことなく、動ずることなく、実践せよ」。作者流の言葉に換えれば、「反省や後悔をするな。希望や理想をもつな」となる。この言葉はインドという、超極貧の社会であったからこそ生まれた言葉のような気がする。

 西欧流の病気に負けまいとする医療姿勢を批判するが、精神力が寿命を長くすることはあり得る。「病は気から」という言葉は日本古来からの言葉であり、医師が放り出した患者が奇跡的に完治してしまったという例もある。はじめから勝とうとしないで勝てるわけがない。仏教に、あるいは日本に特有の諦念を重んじていたら、他国との外交などはやる必要すらない。

 「日本の医学は歪んでいる」とは思えない。

 「人間、150歳まで生きると、だれもが癌になる」とどこかの医師が発言したそうだが、数値的根拠を、それがダメだなら科学的根拠を示してもらいたい。聞きかじりの話を気軽に書籍に書くのはやめたほうがいい。100歳まで生きようが、150歳まで生きようが、所詮は五十歩百歩。

 「心中物語」について触れているが、心中を美化するのは日本人だけだということを知って欲しい。この愚の骨頂を作家の太宰治がやったし、多くの母親が子を犠牲にした。近松の「心中物」と称してドラマを賞賛する心根は日本人に特有で、外国人に説明を求められても困るだけだ。

 「大家族主義が崩壊し、核家族化となった戦後の日本を嘆く声が多い」けれども、発展途上国ですら、核家族化の波は押し寄せている。できることなら、世界中の嫁が姑とは一緒に暮らしたくはないようだ。核家族化は女の問題である。なぜなら、大家族主義をまっとうするためには嫁の我慢と忍耐が必要だからだ。

 「ヨルダンでタクシーに乗ったら、旦那は助手席に乗ってくれ」と言われた。商社マンにあとで聞いたら、「仲間意識です。ドライバーは客の召使ではなく、友達なんだ」というアピールだと教えられた。インドネシアでドライバーの横に女が乗ると、その女はドライバーに気があると勘違いされる。なかには勃起したペニスをこれみよがしに出したドライバーもいたから、ところ変われば、思考も変わることは知っておいたほうがいい。

 作者の結論は「他人に余計な干渉はせず、孤独に生きることに慣れる」ことが第一。「墓は子供に百パーセントまかせてしまう」と割り切っている。墓そのものが壮大な無駄であり、寺の住職に外車を買ってやってるだけ。墓などは所詮いずれは無縁仏になる運命、そんなものはやめて自然葬、山や海に粉にして投棄するのが最善の手法。

 「人間は地上にあって、仏から与えられた配役を承り、役を演ずることに徹する」という話には反発したい。これだと、人間は永遠にピエロであり、仏は観客席にあって、人間のピエロぶりを眺めて愉しむ立場に在ることが歴然とする。正直言って、そんなふざけたところに生まれ、気の進まぬ配役を承りたくはない。

 作者が自身言ってるように、この作品には推敲がかなり不足していて、ために本人が自覚している通り、揚げ足をとりたくなるような記述が多すぎる。思慮、思量、思惟をもっときっちりまとめて、下調べに完璧を期してから書いたらいかがでしょうか。

 奇人が思いつきをパラパラと書いたものといった印象の著作だが、この種のニヒルで、人生そのものが無意味といった言説を目にしたり耳にしたりすること自体に不快感はない。


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