現象学の理念/エドモンド・フッサール著

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現象

  「現象学の理念」  エドモンド・フッサール(ドイツ人)

  訳者: 長谷川宏(1940年島根県生まれ/1968年東京大学文学部哲学科博士課程修了)

  1997年6月 作品社より初版、単行本 ¥2,600

 本書は哲学書であり、おそらく哲学を専攻する学生、専門家以外には本書を手にすることはないだろう。

ことほどさように、内容は難しく、理解に難渋する。

 中身を若干披露すると、たとえば、「真の存在と認識との連関を明らかにし、かくて一般に、行為、意義、対象のあいだの相関関係を探求するのが『超越論的現象学(超越論的哲学)』の課題である」、あるいは、「現象学的還元とは、すべての超越的なものをゼロの見出しをつけて理解すること、すなわち、その実在、その妥当性をそのまま認めず、たかだか妥当性現象として定立することを意味する」、「心理学、自然科学全体を含むすべての学問は現象として処理されるべきで、妥当な心理体系としても、前提としても、利用可能な心理への手がかりとなる仮説としてさえ利用してはならない」などという内容は、読み進めば読み進めるほどに、頭が混乱し、収拾がつかなくなる。よく読みこめば、「1+1=2」の世界を説明しているに過ぎないのだが・;・・。

 要するに、この哲学者が言いたいのは、「事象というものは現象のなかで表象される。認識幻想と認識対象とのあいだの相関関係をどう理解するか。我々が認識している対象は、必ずしも、対象の真実に的中しているかどうかには恒常的に疑問がつきまとう。知覚するものが常に真とは限らず、的外れであるかも知れないし、我々の周囲の事象はすべて夢か幻かも知れない」ということらしい。

 

 「自然的認識はもともと自明のものとして存在するから、それが持つ範囲、内容、要素、関係、法則についてさらに詳しい探求を必要とするような現実に対する支配を絶えず拡大していくのが自然的認識の役目である」

 確かなことは、我々は自身の目で捉えたものを捉えたままに認識する以外に手段はない。とはいい条、たとえば人による目撃情報が時に的確であったり、時にいい加減であったり、人の肉眼による認識が必ずしも信頼に堪え得ないし、だいいち、人間の裸眼は七色しか識別できず、しかも自然でも人工でも、とにかく光のなかでしか視覚は働かない。赤外線を使って古い絵画を見ると、上塗りする前の下絵が見えるが、肉眼では捉えられないというのも事実である。さらには、他の動物が昆虫類や水中動物を含め、何をどのように見ているかも判らない。本書を読み、いったん書評を書いた後に、そんなことが脳裏に浮かんだ。

 正直に言うが、私は訳者の解説を読んだり、本書の途中の文言を拾い読みしたり、なんとか作者の論ずることを理解すべく努力したが、私がかつて親しんだ哲学書とはかなり趣を異にする内容だった。

 ただ、久しぶりに出遭った哲学は私を鼓舞し、ギリシャ哲学から、ドイツの哲学に至る権威らの人生や事象に対する真剣なまなざしを想起させてはくれた。

 思えば、ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まり、欧州のデカルト(方法序説、情念論などを書き、数学的な手法を採用した分析から複雑なものへの確実な認識に達すると主張した)、近代哲学の祖となった実存主義のサルトル、哲学的信仰のヤスパース、大衆哲学のヘーゲル、否定弁証法のカント、論理的思考の代数操作に還元したライプニッツ、新しい価値と世界観を主唱したニーチェ、精神の永続性と神即自然の没神論のスピノザ、唯物論のマルクスと、多くはドイツ人に集約されるが、連綿と哲学的思考に没頭した人々、さらには日本の高山樗牛、極限概念の左右田喜一郎にも影響が波及していることを確認することになった。


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