生物と無生物のあいだ/福岡伸一著

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生物と無生物のあいだ

「生物と無生物のあいだ」
福岡伸一(1959年東京生)著
講談社現代新書 2007年5月初版
副題:読み始めたら止まらない、極上の科学ミステリー「生命とは何か?」

 
 本書は「新書大賞」「サントリー学芸賞」を取得した科学書であり、しかも、ミステリー的なスキルを大量に駆使しつつ、特に前半の150ページまでは、話題をあちこちに飛躍させ、大学や学内での上下関係、研究テーマの選択、人間関係などが、日本の大学間でも相違があるが、日本とアメリカとの相違についても触れ、本来のテーマに沿って書かれたものよりも、そういう方面への低俗な興味に惹かれて読み進んでしまう。だから、ときに専門用語が多くても、つい途中で本を閉じることができずに、ぐんぐん引っ張られてしまう魅力に満ちている。

 よしもとばななを初め、多くの科学書の好きな作家が本書にのめったことを正直に告白してもいる。

 著者はアメリカのロックフェラー大学にポスドク(ポストドクターの略か)で留学、後日はハーバード大学に移って研究を継続、後に帰国して京都大学助教授から、青山大学院教授という経歴。

 思いがけない分野にまで踏みこんで書いたのは、内容に色彩をつける意図によるものだろうが、タイトルとは本来なら無縁の、日本では有名な、お札の顔にまでなった野口英世までが登場し、作者自身がアメリカのニューヨーク、マンハッタンの北部に在るロックフェラー大学にポスドクとして留学したとき、同じ大学に野口英世のブロンズの胸像があり、埃をかぶっていたが、日本からの観光客がカメラ片手に、学校を訪問、野口英世の胸像を撮影させて欲しいと懇望したという。

 当時、野口英世は日本の同じ分野で研究する権威からは冷淡な扱いを受けていたらしく、たまたま訪日したロックフェラー大学のボスに依頼、アメリカに行きたいという胸の内を明かし、ほとんど日を置かずに、野口はロックフェラー大学にやってきてボスを驚かすが、梅毒をはじめ、狂犬病や黄熱病の研究を論文に書いて発表、ボスを喜ばせはしたものの、野口は1928年にアフリカで黄熱病に感染して死亡している。

 当時、使われていたのは、光学顕微鏡であって、電子顕微鏡が世に現われたのは1930年代に入ってからで、光学顕微鏡ではウィルスを写すことはできず、野口のチェックは不十分に終わっていたため、彼が残した論文は大学の片隅に不用品並みに扱われているばかりか、野口を評価したのはボスだけで、学会が瞠目するような業績は残していない。むしろ、同大学滞在中はヘビードリンカーで、女癖が悪く、結婚詐欺まで行ったらしい。(このあたりの一部については私も知っていたが)

 野口が調べていた黄熱病はウィルスが感染するもので、ウィルスが小さすぎるため、彼が使っていた顕微鏡では到底とらえることはできなかった。日本人の野口観は盲目的な崇敬心に相似し、野口のアメリカでの実際の生活内容については無知というしかない。

 「DNA」という言葉が初めて発表されたのは1953年。科学専門誌「ネイチャー」にDNAが互いに逆方向に結びついた2本のリボンから成っているモデルが、イギリスのジェームスとクリックの共同で提唱され、「対構造」になっていることが明示されていて、二人はノーベル賞に輝くことになる。

 ところが、この二人の業績には疑義があるという。

 イギリス人の女性研究者で、当時欧州大陸サイドでX線によるDNAの研究を行っていた人がいたが、彼女が提示した論文がクリックの手に渡って、しかも、彼女は38,9歳の若さでX線に無防備に当たり過ぎたためか、癌で亡くなり、二人がノーベル賞を獲得したことさえ知らなかったという。

 読者をことさら惹きつけるのは、学会のありようで、誰かが論文をネイチャーなりサイエンスに提示したとき、それを掲載するかしないかは、出版元の権威にもかかわることから、論文が包括する分野の専門家、いわば同業者から、名前は公表せずに、選抜し、その可否を一人ひとり別に吟味してもらうというシステムが問題で、これを「ピア・レビュー」というらしいが、そこに剽窃(ひょうせつ)の機会が恒常的に存在することを著者は明かしている。

 話を「ウィルス」に戻すが、ウィルスは電子顕微鏡でなければ見えないほど極小の生物、栄養を摂取せず、呼吸せず、二酸化炭素を出すことも、老廃物を排泄することもなく、いわゆる代謝を行っていない。その意味で、限りなく物質に近い。ところが、ウィルスはみずから増殖する。他の細胞に寄生して、自己複製する機能をもっている。

 読了後に記憶に残った部分をさらに示せば:

 1.タンパク質による相補性は身体のあらゆる場所に張りめぐらされることになる。生命を構成するタンパク質はつくられるやいなや壊される。それは生命の秩序を維持するための唯一の方法であった。壊されながらも、もとの平衡を維持できるのは、タンパク質の形が体現している相補性にある。

 システム内部に不可避的に蓄積するエントロピーに抗するには先回りしてこれを壊し、排出するしかない。傷ついたタンパク質、変性したタンパク質は取り除かれ、これらが蓄積するのを防御する。合成途中でミスがあれば、修正機能も果たす。こうして、新しい部品にすばやく入れ替えることを保証する。ところが蓄積が一定の値を超えて進行すると、除去のキャパシティを上回り、やがて、異常タンパク質の塊が脳細胞を圧迫するようになる。これが、アルツハイマー病、狂牛病、ヤコブ病に代表される「プリオン病」である。

 2.アクチン、ミオシオン、インシュリンセプターもすべて、2万数千種類のピースのひとつひとつである。それぞれが何億枚、それ以上存在している。私たちの内包しているジグソーパヅルはたった一組ではなく、むしろ天文学的数字。そのなかでピースたちは恐ろしいスピードで互いの相補性を求め合い、一瞬のかかわりの後、たちまち失われしまう。このような相補性ネットは生物学的数学よって幾重にも輻輳している。

 本書に科学的に面白い話はまだ幾つもあるが、これ以上を紹介することは控える。ただ、作者は最後のほうで、「結局、私たちが明らかに出来たのは生命を機械的に扱うことの不可能性だった」と締めくくっている。

 また、エピローグからは作者も昆虫のファーブル的な少年らしい興味から出発したことが偲ばれ、親近感をもたせられたし、作者の「私たちは自然の流れのまえに膝まづく以外に、そして、生命のありようをただ記述する以外に、なすべき術はなく、そのことは、実のところ、少年時代の日々からすでにずっと自明のことだった」と、印象的な結論を正直に、真摯に披瀝している。


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