神は妄想である/リチャード・ドーキンス著(その1)

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書評パート1

神は妄想である

1.宗教色の強い国で生まれれば、人は誰でも例外なく、その国の、あるいは両親の信ずる宗教に入信する。英国の子共を研究している社会学者は「両親の宗教的信念から離脱できる子供は12人に1人しかいない」と証言した。

2.無神論者であることは精神の健全な独立性、健全な精神の所在を示している。

3.無視論者を英語で「Atheist」というが、アメリカ人の信心深さを嘲笑したり揶揄したりするのは、米国在郷軍人の前でアメリカの国旗を燃やすのと同じほど危険。ゲイが公職に選ばれる可能性は僅かではあるがあり得るが、無神論者が公職に選ばれる可能性は全くない。

4.現実には、無神論者はかなりの数で存在するが、カミングアウトすることを躊躇(ためら)っている。ゲイの運動が長い時間をかけてカミングアウトに成功し、ゲイであることを躊躇(ちゅうちょ)せずに言えるようになったが、神の存在を信じないと口に出す人が増えれば、連鎖反応を起こす可能性はある。そのためには臨界点のようなものがあるだろう。ただ、アメリカにおける無神論者は口にはしないだけで、アメリカ自身が思っているよりはるかに膨大な数に昇るのではないか。

5.「ダーウィン主義は自らの運命が自分よりも高度な力によって支配されているという妄想から人類を解放する物語である」とは、フィリップ・ジョンソンの言葉。

6.「ある一人の人物が妄想にとりつかれた時、それは精神異常と呼ばれる。多くの人が妄想にとりつかれている時、それは宗教と呼ばれる」とは、ロバート・M.バージングの言葉。

7.アインシュタインの言葉。「私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私たちの不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、畏怖の念に打たれるだけで十分だ」。さらに、「もし、私のなかで宗教と呼べるものがあるとすれば、われわれの科学が解明できる限りにおいての世界の構造に対する限りない賛美である」

8.宗教を重んずる社会では、宗教に対し常軌を逸した過剰なまでの敬意が払われる。アメリカの最高裁判所ですら例外ではなく、宗教は相も変わらず最強の切り札。

9.イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルの息子のランドルフは聖書を読んだことが全くないまま、第二次大戦中に任地に配属され、そのとき同僚士官が「聖書を2週間で全部読みきれるかどうか」という賭けを仕掛けたが、ランドルフは読みはじめるや、脇腹を叩きながら、「神様、あんたはクソじゃないか」と笑った。

10.神という仮説は証拠よりも、むしろ個人的な啓示にもとづく地域的な伝統の上に築かれたものだから、様々なヴァージョンがあるとしても驚くには当たらない。宗教史家は未開部族のアニミズム(自然信仰)からギリシャ、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教と、そこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教に至る発展過程を認めている。(その後、キリスト教はカトリック、エホバ、プロテスタントなどに、イスラムは多くの会派に分かれはしたが。時折、エホバの会員が私の家に来、勧誘しにくる。私は「エホバがベースとする旧約聖書は児童向けの童話より程度の低い内容だが、あんたはあんなものを信ずるほど低脳なのか?」と言って追い返す)。

11.カトリックの神話学は悪趣味な俗悪さ、あっけらかんとした無頓着さ、厚顔無恥なでっちあげ。旧約聖書の神はあらゆるフィクションのなかで最も不愉快な登場人物。嫉妬深く、けちくさく、不当で、容赦のない支配魔、執念深く、血に飢え、民族浄化を行なった女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、ジェノサイド(大量虐殺)、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味の気まぐれな悪さをする、いじめっ子。

12.仏教や儒教は宗教というよりは、むしろ倫理体系ないし、人生哲学として扱うべきもの。

13.世俗主義によって建国されたアメリカがいまやキリスト教圏における最も宗教的な国家であるのに対し、立憲君主制で国教会をもつイギリスが最も宗教的でない国の一つであるというパラドックス。宗教間の暴力の戦慄すべき歴史がくりかえされたイギリスでは、宗教にうんざりしてしまったのではないか。

(十字軍の中東派遣、隣国のアイルランド(カトリック国)に対する12世紀から始まった虐待と紛争)

14.アメリカの建国の父たちは政教分離を主唱していた。トマス・ジェファーソンは「存在を証明できないもので頭を悩ませたり、苦しんだりすることをしなくとも、私は現にある事柄で満足し、それだけで心が一杯なのだ。キリスト教は、これまで人類に投げかけられた最も倒錯した体系である」と発言した。

「人民の、人民による、人民のための政治」と言い、黒人奴隷を救ったリンカーンですら、「白人と黒人との婚姻は認めがたい」と公言している。

15.ジェームス・マディソン曰く。「15世紀の長きにわたってキリスト教を法的に確立されたものにしようとの試みがなされてきたが、その結果、あらゆる場所で、聖職者の傲慢と怠惰を生み、信者の無知と隷属とが合体して、両者における迷信、偏見、迫害をもたらした」。

(アメリカの聖職者が少年や少女を性的玩具にするニュースがしばしば流れるが、日本人が昔から言う「警察官と教師と僧侶に悪人が絶えたためしがない」のと同じ)。

16.アダムズの言葉、「もしこの世に宗教さえなければ、この世界はおよそ考えられる世界のなかで最善のものであったろう。私が理解する限り、キリスト教は一つの啓示であったし、いまもそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の啓示を併せたものに、多くの宗教家たちが無数の寓話、物語の伝説を混在させ、結果的に血なまぐさい宗教にしてしまった。宗教は人の悲しみにつけこむという点で、人類の歴史がもちつづけてきた最も破滅的な悲劇を生みだした」。

17.インドのネール元首相は、「インドおよびその他の土地で宗教と呼ばれるもの、あるいはともかく組織化された宗教のスペクタクル(偉容)はあまりに恐ろしく、私はしばしばそれを非難し、すっかり掃き清めたいと願った。ほとんど常に、それは妄執、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取、既得権の維持に味方するように思われた」。

18.ナポレオンが数学者のラプラスに対し、「神に言及することなしに、この本をどうして書き上げることができたのか」との問いに、ラプラスは、「私はそのような仮説を必要としなかったのです」と応じた。

19.「宇宙には多くの謎がある。科学を超えた部分こそが神の領分である」と、天文学者のマーティン・リースが発言したが、「もし、それが科学を超えるところにあるのなら、それは神の領分を越えたところにあることも確実である」。

20.科学者が答えられない深遠な宇宙論の疑問に関して、「それは神の領分だとする」神学者に対し、なぜ科学者たちは「それは神学者たちの越権行為だ」と反論しないのか。神学者たちの陳腐な決まり文句にはうんざりするが、物事の善悪についてすら、それを決定する権利を宗教はもっていない。宗教は私たちに何かを教えるフリーランスをもっているわけではない。

21.神学者が信徒を増やさんがために、奇蹟の物語を語るが、奇蹟の定義からして科学の原理を侵犯するものだ。

22.英国の神学者の最高位教授職にあったリチャード・スィンバーンは、「神の存在」という著書のなかで、「広島の原爆で焼死した人間が一人少なかったと仮定してみて欲しい。そのときには、それだけ、勇気と同情のための機会が少なくなっていたことだろう」

(ずいぶんふざけた話ではないか。どうせなら、広島に来て同じことを口にしてみろと言いたい)

23.アメリカの教育界ではダーウィンの進化論を嫌い、攻撃の矢面に立たされている現状下、教育者はもとより科学者たちは神について語ることに脅威を感じている。研究資金の大半が政府からくるからであり、選挙の帰趨を決めるのは識者だけでなく無知で偏見に満ちた選挙権所有者であり、政府は彼らの要求にも応じなければならないからだ。

(本ブログにも頻繁に登場する養老孟司教授の娘さんがアメリカ留学中に、「あなたはダーウィンを信ずるか」と訊かれ、「もちろん信じている」と答えたところ、「じゃ、あんたの先祖は猿なんだ」と笑われたと、何かの本に書かれていたことを思い出した)。

24.シカゴ大学の遺伝学者、ジェリー・コインは、「科学は合理主義の一形式に過ぎず、一方、宗教は最もありふれた迷信の形式である」と言った。

25.国際ヒトゲノム計画の管理責任者、アメリカ人のフランシス・コリンズは敬虔なキリスト教徒信者であり、彼はその希少性によって目立ち、学会の仲間から興味と困惑の混じった目で見られている。

26.科学関係のノーベル賞受賞者のなかには、文学賞受賞者と同じく、著しい度合いの不信心が見られる。米国の科学アカデミーの会員に選出されている科学者のうちで、人格神を信じているのは僅か7%で、この無神論者の圧倒的な優勢はアメリカ人全体の90%以上が信者である事実と正反対の数値を示している。

一方、イギリスのロイヤル・ソサエティにおけるアンケート調査では、1074名のフェローのうち、23%が回答をくれたが、3.3%が人格神を信ずると答えたに過ぎない。一般的に、物理科学者よりも生物科学者のほうに神を信じない人が多いという傾向がある。

27.アメリカ人を対象にした調査では、教育レベルの高い人、IQの高い人ほど、宗教心が希薄だという結果が出ている。

(人間的に未熟な人ほど宗教にかぶれやすいという説は当たっているのであろう)

28.神学的傾向をもつ人は、真実であることと真実であって欲しいことを混同し、区別ができない。

29.ダーウィン主義を深く理解することで、私たちはあり得そうもないものを神による設計だという代案を却下し、自然淘汰と進化過程でゆっくり複雑さを増大させていく斬進的な斜路(ランプ)を探すことを学ぶ。ダーウィンは設計という錯覚(イルージョン)をワナなのだということをはっきりと示してくれた。自然淘汰こそ、単純さから複雑さを生み出すことのできる唯一の過程である。

ダーウィン以前に、一体だれがトンボの翅やワシの眼のような、一見どう見ても設計されたとしか思えないものが、実はランダムではない、純粋に自然科学的な原因がもたらす、長い連鎖の最終産物であるなどという推測をすることができただろうか。

ダーウィン流の進化理論は、とりわけ自然淘汰は、生物学においてデザイナーの存在という錯覚を粉砕し、物理学や宇宙論においても、いかなる種類のデザイン仮説にも疑いの目を向けるよう人類を導いてくれた。

30.ダグラス・アダムズが急進的な無神論者に転向したとき、「どんなときでも、私は無知ゆえに畏怖するよりは理解ゆえに畏怖することを選択するようになった」と語った。

31・ 神学者は「偶然ではなくデザイナーが存在するからではないか」と主張するが、そういう人々には自然淘汰が累積的な過程であり、累積による最終産物がとんでもなくあり得ないものを創りだすこと、「累積の力」というものを理解していない。自然淘汰こそは単純さから複雑さを生み出すことのできる唯一の過程でもある。

(立花隆の「遷移の理論」に同じ)。

32・ダーウィンは言う。「もし無数の継続的で、軽微な変化によって形成されることがあり得ない複雑な器官の存在が実証されるならば、私の理論は完全に崩壊する。しかし、私はこれまでそうした例を一つとして見つけることができない」。この事実は、ダーウィン以後も、誰一人として死に物狂いで努力したにも拘わらず、発見できていない。

33.宗教の悪い影響の一つは、理解しないままで満足するのが美徳だと教えること。自分たちの理解できないことに「神」というラベルを貼ることでは何の得るところも、何の進歩も期待できない。

34.1000万種にもおよぶ生物に囲まれた惑星に住んでおり、それぞれの種はそれぞれ個別に、巧妙な設計の産物ででもあるかのように思わせる強力な幻想を振りまいている。どの種をとっても各々の生活様式によく適合している。地球上の複雑な生命の豊かな多様性を十分に説明することはいかなる生物学者によっても決してできることではない。

生命の進化とは、生命の起源とは全く異なった次元のものである。なぜなら、生命の起源はたった一回起こっただけの特別な出来事であるのに対し、進化と環境適応とは何百万回も起こり、現在も継続中で、人類を含むあらゆる種はその過程にあるからだ。

1000万年後、この地球上には、高い確率で現在とはすっかり異なる種が、そのときの環境に適応して生きているだろう。そう確かに予測できるのはダーウィンの発見した「自然淘汰」によってである。自然淘汰は断固として「運」の問題ではない。自然淘汰の有利性はそれが常に改良の方向に進む累積的な一方通行だからだ。

35.マーク・リドレーは、「メンデルの悪魔」という著書のなかで、「人間と同じ種類の細胞だけでなく、細菌には存在しないミトコンドリアのような、様々な手の込んだ構成要素をもつ「真核細胞」の出現こそ、生命起源以上に記念すべき、困難で、統計学的にあり得ないステップであった」と述べている。「意識」の起源も、これらと同じ程度に埋めがたい「あり得なさ」を備えた、もう一つの大きなギャップである。

この二つのギャップを踏んで、人類が誕生したことを考えれば、人類の生存する地球は著しく稀な惑星の一つでなければならない。

36.J・アンダーソン・トムソン(進化精神科医)は、「生命のない物体を作用因として擬人化する心理的な偏向がどの人間にもある」と述べている。

(2000年以上前の、科学の「科」の字も知らなかった古代人の妄想が擬人化した人格神を現代の人間が鵜呑みにしていること自体、七不思議以上に不思議な現象である)。

また、宗教家からの悪口には「あなたの世界観は19世紀的で、野蛮で粗野に過ぎる」とか「村の無神論者だ」という愚弄もある。「処女懐胎を信じますか」との質問が19世紀に多かったという事実があり、そのような質問をぶつけられたくないというのが本音らしい。

37.ダーウィンの自然淘汰は浪費を許さない。自然はしみったれた会計係であり、容赦なく、止むことなく、世界中のあらゆる変異にも、どんな些細な変異にも眼を光らせている。自然は非情な功利主義が勝利を収めるように創られている。これに対し、宗教は浪費(時間と金とエネルギー、美術や音楽や建築の才能を含め)を伴う非経済的な人類による所産である。

中世の大聖堂はその建造に100人x1世紀の労働力を消費することがあったが、人類にとって何らかの有益な目的に使用されることは決してなかった。宗教儀式ほど非生産的なものはない。


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