秀吉を襲った大地震/寒川旭著

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秀吉を襲った大地震

秀吉を襲った大地震
寒川旭(1947年生/理学博士)著
副題:地震考古学で戦国史を読む
2010年1月15日 平凡社より新書版初版
¥860+税

 
 本書のタイトルからは戦国時代に関西を舞台に起こった大地震だけをまとめた内容のように思われるが、決してそうではなく、その時代の前も、関東大震災も、戦後の「昭和南海地震」も扱っており、さらに、副題にある通り、考古学的発掘による成果から過去に起こった「液状化現象」にも触れ、いわば「地震の歴史書」といった内容。

 そのうえ、一般的に「阪神・淡路大震災が起こったとき、関西でなんで?」といった怪訝な思いに駆られた人は少なからずいただろうが、本書の記録からはそのようなことを感じたことが恥ずかしく思えるほど、過去の記録にはなんどもこの地にも地震は起こっていることを教えてくれる。「想定外」などという言葉を使わせないというメリットは、こと自然災害に関する限り、過去の遺産のなかにあると痛感した。

 しかも、東北太平洋岸が被災する以前に上梓(じょうし)されたこともあり、3・11に悪乗りしたわけでないことも明瞭。

 例えばということで、読者として眼が止まった箇所を以下に記す:

*織田信長は大きな地震には遭っていないが、秀吉は天正地震、伏見地震、いずれも被災している。

*戦国時代が始まって間もなく、関東から九州にかけての太平洋沿岸地域が巨大地震に襲われた。

 1498年、海底プレート境界から発生した明応年間の「明応東海地震」とほぼ同時に起きた「南海地震」。その後、1586年に中部地方と近畿東部を襲った「天正地震」と「伏見地震」が連続して起きるという恐るべき瞬間が待っていた。

*天正地震はマグニチュード8近い超大型内陸地震で山は崩れ、家は倒れ、多くの人が命を失った。当時日本で宣教活動をしていたイエズス会のポルトガル人・ルイス・フロイスは「それはかつて人々が見聞したことはなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。日本諸国はしばしば地震を経験し、珍しいことではないが、本年の地震は桁外れに大きく、人々に異常な恐怖と驚愕とを与えた」と書いている。

*この地震時、関白はかつて明智の所有する近江の湖のほとりに在った坂本の城にいたが、手がけていた一切を放棄、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。

(本書にはこの地震が歴史上の人物がどのように処し、史跡にどのような影響が出たかなどを詳細に記している。それぞれが生々しい記録であり、それぞれが胸に迫る。たとえば、「飛騨の白川郷では地震発生とともに山が一つ欠け落ちて、300余の家を数百人の住民もろとも埋めてしまった」とある)

*「液状化現象」の記録は「阪神・淡路大震災」の直後に発掘調査を行なった研究者グループの手により過去の地震の残した傷跡が多く発見され、分析されている。

*「伏見地震」は1596年9月5日の真夜中の零時ごろに起こったが、秀吉が明の使節を迎えるために多額の費用をかけて建築した伏見城の天守閣が崩落し、太閤は中の丸にいて無事だったが、城内にいた上臈73人、仲居・下女500人が死亡、一の門、ニの門も崩れ、番人は死亡。家康の屋敷も二階部分が潰れ、諸大名の家々も倒壊、城下町はもちろん、京都盆地にあった多くの寺院にも被害が広がり、千人以上が命を落とした。

 太閤を見舞いに訪れた一番客は細川忠興、二番客は加藤清正だったという。当時、朝鮮戦役でのことで石田三成に讒訴(ざんそ)されていた加藤清正は謹慎中だったが、この見舞いで解かれたという。(秀吉を襲った大地震というのは「天正地震」と「伏見地震」のニつで、以下の地震は秀吉とは関係がない。

*1604年12月16日、夜の地震の後、大津波が発生。四国の南向きの土地は悉く被害をこうむり、倒壊地域では浜名湖の南に宿泊していた者多くが死亡。房総半島にも津波が押し寄せたという記録。

 この地震は南海トラフから同時に発生した東海地震と南海地震(M7・9程度/名称は慶長地震)、海底の地面が大きな揺れをつくらずに変位して津波が押し寄せるという「津波地震」だった。

*1596年9月1日(伏見地震の3日あまり前)の8時頃、別府湾を大地震が直撃。ルイス・フロイスの報告には「海は1里も1里半以上も陸地に這入り込んだ」とある。

*1611年9月27日:会津地震

*1700年代に「宝永地震」があり、「富士山の大爆発」があって1世紀半を経た1853年、ぺりーが浦賀に、ロシアのプチャーチンが長崎を訪れて開国を迫った。翌1854年12月23日午前9時過ぎ、大地が激しく揺れ、大津波が来襲したとき、プチャーチン一行は伊豆半島の下田にいた。プチャーチンは津波が下田の港から陸地に押し寄せ、停泊していた漁船や家屋を洗い流す光景を目撃した。その間、彼の艦隊の一隻であるディアナ号も大破し、修理のために戸田港に向かう途中、沖合いで沈没した。

*1854年12月24日、午後4時頃、南海トラフの西半分から「安政南海地震」が発生。南紀の串本には10メートルを越す津波が押し寄せ、尾鷲では350人前後が犠牲になった。室戸半島は南が高くなるように隆起し、南端、室戸港は約1.2メートル上昇したため、大きな船の出入りができなくなった。一方、高知、須崎、宿毛を結ぶ東西に帯状の地域は沈下。

 このときの津波は地震から約2時間で大阪湾、天保山付近に達し、停泊していた千石船を道連れに、河川や水路を遡(さかのぼ)って、道頓堀の大黒橋まですべての橋を壊しながら押し寄せたため、停泊していた多くの小船が折り重なって沈んだ。

*1855年11月11日、午後10時頃、「安政江戸地震」、約1万人が圧死。

*1923年9月1日、相模トラフのプレート境界から「大正関東地震」(M7.9)発生。火災が旋風(つむじかぜ)に煽られ、空き地や人々が避難しているところにまで襲いかかった。犠牲者は総数10万4千人。過去にあった「元禄関東地震(M8.2)より地震の規模は小さかったが、大きな火災を伴ったことが死者の数を増やした。

*1944年12月7日、南海トラフから大地震(M7.9)が発生。紀伊半島南端から始まった岩盤の破壊が東に進んで駿河湾まで達した。太平洋岸には10メートルを越える津波。三重県尾鷲町では死者数も多く、流失家屋もひどいものだったが、戦時中であったこともあり、救援物資はほとんどなかった。

*1946年12月21日、午前9時、「昭和南海地震」(M8.9)が発生。紀伊半島南端で始まった岩盤破壊が四国沖に向かって西に進んだが、地震の規模は通常の南海地震より小さかった。

(この地震は現・静岡県清水市にもかなりの強さで影響したのではないかと思う。東海道本線の興津駅が半倒壊、周辺の家屋は半倒壊以上だったと記憶する。海を見に行ったが、津波が3メートルほど、堤防ぎりぎりまできていた)。

 最後に、作者がしめくくっている:
 「日本列島は地震で生まれた。この国で暮らし続ける限り、大地の激しい揺れから逃れることはできない。過去の地震から知識と教訓を得ることが被害をミ二マイズし、わが身や家族を守るために必要にして必須の条件」であると。


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