篤姫の生涯/宮尾登美子著

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篤姫の生涯

「篤姫の生涯」 宮尾登美子著
日本放送出版会 2007年11月 単行本初版

 

 久しぶりに宮尾登美子の作品を手にした。

 内容は徳川家13代目の将軍、家定のもとに輿入れした島津家、篤姫の物語を(著者による篤姫にかかわる小説は過去に文庫本で出版されているため)、ここではエッセイ風に、作者としての思いをまとめ、上梓したものだが、宮尾登美子の文章とは思えぬほど柔らかく、優しく、ほとんで口語体で書かれていることに驚きもし、がっかりもした。

 私としては彼女の破綻も乱れもみせない長い長いワンセンテンスの文章が好きで、かつて彼女の作品を読み漁った経験がある。単行本だから、再び、そうした文体に接することができるのかと期待して読んだためのショックだった。

 とはいえ、本書から学んだこともあるが、私としての意見、異論もある。

1.江戸時代260年間を通じ、天皇の皇女は72人いたが、結婚できたのは僅かに11人、あとの61人は門跡寺院を相続、むかしから皇族が結婚することは難しかったという。いただく側の男性が、たとえ、公家であろうと、逡巡したということだろう。

2.京の公家から正室をもらうしきたりは3代将軍、家光から始まったことで、幕府の権威づけと、貴族の娘を飾りにする目的があったからだという。また、公家側も、健康で、賢い娘を幕府にはやりたくはなく、また当時の公家は例外なく手元不如意だったから、降嫁することで莫大なまかない料がもらえることに魅力があった。たまには、市井の女性を公家の娘と虚偽して関東に送り出した例もあったという。現に、篤姫が嫁いだ家定の前妻は二人いたが、二人とも都からもらい受けた女性で、早世しただけでなく、二番目の女性などは輿の高さまで背丈がなく、明らかに成長に問題のある女子だった。また、14代目の家重に輿入れした和宮姫は足が不自由で、健康体ではなかったばかりではなく、替え玉だったとの説もある。

 (和宮については2005年11月16日に有沢佐和子作品を本ブログに記している)。

3.当時の良家の子女に病弱者が多く、子供を産むことに成功したとしても、流産だったり、障害児だったりしたケースがほとんどで、奥女中たちが顔、首、胸にまでつけた白粉が含有する鉛毒が原因だったとする説もある。

4.現実に、公家から輿入れした女性で子をなした女性は皆無だった。将軍職を現実に継いだ人間はほとんど

武家や市井の健康な女性が生んだ男子だった。それだけでなく、公家から輿入れした女性のほとんどは早世している。

5.「大奥3千人」と言われるが、大半は上級者のお付きの者であったが、それでも将軍の対象となる、つまり将軍のお手つきとなるのをひたすら待つ女はかなりの数でいたし、大奥にいる限り、男性は将軍はただ一人、他の男と性的交渉をもつなどの機会はまったくなかった、と同時に、手がつかぬ限り生涯不犯であることを強いられたから男を知らぬまま一生を終えた女も少なからずいた。

 また、将軍が一人ひとりを自ら吟味し、好みの女を選ぶのかというとそうではなく、将軍が大奥に入るときは、その旨が予め大奥の全女性に伝えられ、将軍が通過する廊下の両側には女たちが顔を伏せ、手をついてお迎えしたたため、状軍が彼女らの顔を一々見る機会もなく、大抵の場合は、全体を束ねる局らが推挙する女性が選ばれることになり、そこには大奥にいる女同士の暗闘があった。

 むかし、どこかの国のキングが何千人、何万人と女を抱え、自ら好きな女を見出し、寝所に同伴したケースと比較すると、だいぶ選択の幅が狭かったことにむしろ驚いた。なぜ、顔を伏せて迎えている女たちの顔を上げさせ、自らの目で選ばなかったのか、そのあたりは不可解というしかない。

6.大奥では毒殺の危険が恒常的にあり、毒殺に遭って死に至ったケースの噂も絶えなかった。

7.むかしから女性は寿命の関係もあり、結婚しても、30歳で「お褥(しとね)辞退」という風習があり、これを「おしとねすべり」とも称したとは、初めて知った。

8.篤姫の場合、薩摩でのびのびと育ち、賢い女性だったらしく、懐胎すれば、健康な子をなす可能性は十分にあったが、肝心の夫である家定が不能で、子をつくることはできなかった。

 (2006年8月19日に、本ブログに「徳川将軍家十五代のカルテ」を書評したが、徳川代々の墓のある増上寺、東京タワーの真下での発掘調査では、家定は9代目の家重と並び障害者だったと書かれている)。

9.公家以外の大名筋から正室を選ぶケースはきわめて稀だったが、例外的なケースが2件あり、2件ともに薩摩からの輿入れだった。これには理由がある。一つは、島津家が徳川御三家はもとより、公家連中とも親しく交際していたこと、もう一つは島津家が資産家であったことだ。

 (島津の資産のほとんどは琉球からの強制的な徴税であっただろう)。

 なお、家定自身は30代で早世し、慶喜が将軍職を継いだが、篤姫は慶喜の毀誉褒貶の多い人柄には好意を持たなかったという。また、ペリー来航後、タウンゼント・ハリスが下田に初代米国大使として到着し、一年後に江戸城で初の謁見をしたのは家定だった。ハリスはその滞在日記(2004年12月30日にブログに書評)に家定は身体的にハンディキャップがあるように感じた旨、その日記に記している。

 なお、慶喜は情勢判断に明るく、動きも素早かったが、頑張るとか、身を挺してとかいう姿勢には乏しく、彼を将軍に選んだ大老らも、むしろそういうキャラクターを意図して選び、大政奉還を急がせたきらいがある。

 著者はむかしから意志堅固で、忍耐強く、個性的に生きた女性を書き続けているが、本書の主人公、篤姫にも

同じことが言え、徳川の最期を見取った女性として描いている。とはいえ、世には、篤姫につき、尊皇攘夷の盛んな時代、徳川幕府が崩壊しつつあることも知れていたこと、篤姫は島津が遣わした密使であるとの説もあるし、現に本書にあるように、輿入れした当初の薩摩との連絡役は西郷隆盛であった。歴史には恒に裏があり、裏の裏にはまた裏があるということが少なくなかった事実から、作者の描いた「篤姫」が本当の姿だったという保証はない。


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2 Responses to “篤姫の生涯/宮尾登美子著”

  1. withyuko より:

     来年は、篤姫ブームになるかもしれませんね。
    hustlerさんのブログ記事は、篤姫以外のことが勉強になります。沖縄の人頭税のことや、豚肉やサツマイモを食べるようになったことや、皇室から将軍家に嫁いだ女性たちのことや、、、いろいろ興味深かったです。宮尾登美子さんの本は、篤姫のことだけなんですよね?書かれているのは。

  2. withyuko より:

     小説の方を上巻だけ読み終わりました。
    Hustlerさんのこの記事を読むと、小説の方もさらに興味深く読めました。
     宮尾登美子さんの作品をもっと読みたくなりました。

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