老人と海/アーネスト・ヘミングウェイ著

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「老人と海」 アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Hemingway/1899-1962)著
福田恒在 (ふくだつねあり/1912-1994)訳
新潮文庫  1964年6月文庫化初版

 
 20代に読んだ時は、世界的文豪による名著との理解があり、老いた漁師と子供との心温まる人間関係と、不漁が続いたあげく外洋に出て1600ポンド(約800kg)ものカジキを仕留め、舷側に魚を縛りつけての帰途、数々の鮫に幾度も襲われ、帰港したときは骨だけにされていたという物語に、それなりに感動した覚えがある。

 拠点とするのがキューバのハバナで、メキシコ湾が主な漁場、海亀を獲ると目が悪くなるという迷信があったり、海亀はカツオノエボシという毒クラゲをむしゃむしゃ食べてしまい、鮫の肝から出る油は目を良くするのみならず、風邪にも効くほかに、ハバナの漁師はマグロも、シイラも、トビウオも生で食べてしまう話にはあらためて驚いた。また、カジキの肉を手で千切り、口に入れ、「肉がしまっていて、味も良く、コクがあり、牛肉のようだ」という表現にも一驚を喫した。

 生魚を口にするのは、現時点ではほとんど世界の人々に受け容れられているが、本作品が書かれた当時、日本人だけのグルメだったと思っていたが、それが固定観念であったことに覚醒した。

 ただ、文豪の手になる名作を読みつつ、「これがか?」と、驚嘆したほど、はっきりいって、文章は拙いし、心情の陰影に触れた部分がなく、原書に接したことのない私には原書そのものに問題があるのか、翻訳に問題があるのかは判断を超えている。ただ、正直なところ、「これは童話である」というのが偽らざる私の第一印象。正直なところ、文学作品とは遠く、「トムソーヤの冒険」や「十五少年漂流記」などと大差のない作品にしか思われなかった。

 解説者であり訳者であった福田氏の「さいごの話」を私なりに砕いて話せば、主人公の負けん気の強い男としての高揚感、肉体的な頑丈さを誇示する内容は、西欧文学の人間が心理の奥底に入り込むような文学とは異なる風情が顕著で、それはアメリカという新大陸における広い空間を土台に、物量、資源の豊かさが楽天的な肉体的行動に偏った文学を創らせた一因ではないかという。

 また、1920年代、アメリカにあっては、いかなる社会的問題も解決可能だという自意識があったのに対し、西欧社会は恒に個人の意志は阻害されるものとして捉えられ、問題からの解放は不可能という諦念があったために心理的な掘り下げが必然的に深く、日本人はアメリカ文学よりも西欧文学に傾倒し、親近感を覚えた。

 当時、アメリカ文学は通俗的で、人間心理への深い洞察、思念などはなく、へミングウエイの長編はいずれも「精力の濫費」であり、「徒労のエンターテイメント」という弱点を免れ得なかったという。

 へミングウェイはイギリス新教徒の子孫であり、一種のストイズムに支えられ、闘争的であり、人生に勝ち抜き、生き残ったことに価値を置く、「英雄とカタルシス」をテーマとする文学者だったというが、そういう人物がなぜ猟銃で自決するに至ったか、その心理はいまだに不可解。

 ただ、「老人と海」や、以前書評した「武器よさらば」が当時、ベストセラーになったとしたら、それはLuck(つき)そのものであって、世界の文学者が注目したほどの内容ではなかったように思えるし、そのことはへミングウエイ氏自身がいちばん認識していたことだったのではないかと憶測する。

 同じ本を時を違えて再読することには、それなりの再発見もあり、再読に価値のあることを再認識することとなった。


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