若き数学者のアメリカ/藤原正彦著

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わかきすうがくしゃのあめりか

「若き数学者のアメリカ」  藤原正彦著
1977年単行本
新潮文庫  1981年文庫化初版

 

 「国家の品格」「祖国とは国語」などを書き、このところすっかり有名人となった数学者、藤原正彦氏は新田次郎と藤原ていの間に生まれた次男である。

 昭和47年、29歳時、一年間の予定で、アメリカのミシガン州Ann Arbor(アナーバー)にあるミシガン大学に半年、さらにコロラド州ボールダーにあるコロラド大学で半年、いずれも専門とする数学の研究と教員を兼ねてという目的で滞在した。(Ann Arborは学園都市で、私も訪れたことがある)。

 本書は作者が初めてアメリカ大陸に滞在した折の感想や考えたことを集約した内容だが、若い時代の著作だけに、肩、肘を張った構えと、そこから醸成される冗長と切れ味の悪さをわずかに感ずるが、当時、アメリカの大都市、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスなどには日本企業から出向した社員が少なからず存在し、ほぼ似たような体験と感想とを共有したことが想像される。

 この著者に一貫するのは、その傾向にしても、面白さにしても、専門の数学よりも、アメリカ社会とアメリカ人に関することに多くのページを費やすという点で、本書はとくに疾風の如き速度で文章を綴った印象が強い。

 著者が目的地に到着する途次、あるいは往復の間に訪れた地域は、時期的なずれは多少あるものの、私自身もアメリカ人を日本への観光に誘致する業務で訪問したことが何度もあり、ハワイ、ラスヴェガス、フロリダ、ミシガンのアナーバー、コロラドのデンバー、グランドキャニオン、サンフランシスコなど本書に登場する地に対して、懐旧の情が抑えがたかった。

 初めて米大陸に身を置くと、「アメリカVS自分」という意識をもつ。一種の興奮状態を招来し、アメリカへの対抗意識を生みはするが、過剰な意識は無意味なほどの高飛車な態度をも生み、ときに劣等感に苛まれ、多民族国家に住む人々への応接に難渋感を覚え、疎外感から鬱状態に陥ることもあり得ることは、アメリカを初めて訪れて仕事をしたことのある日本人にはよく理解でき、作者はこのあたりの心境を正直に、真摯に、かつ赤裸々に綴っている。冬景色を背景に「日本人は自分一人だけ」という状態からは、孤独感がひしひしと伝わってくる。

 ビジネスなり研究なりを目的に米国滞在した人間が「一対一」の会話には苦労することはなくても、米国人同僚間の会話や、家族に招かれたとき食事を一緒したときなどの会話で、かれら同士の会話も、互いに交わされるユーモアも、自分だけが理解できず、加わることなどは全く不可能という事態に屈辱を味わうのも、経験者なら首をそろえて頷くところだ。

 以下は、著者が強調した点で、とくに記憶に残ったもの:

1.トランプゲームに興味をもったパスカルが確率論の端緒を開いた。数学者と賭博とは意外に関係が深い。(数学者の使う手法は常に確率論)。

2.アメリカには涙がない。日本は小さいが、古い歴史をもち、土にも水にも光にも涙の浸透と堆積がある。アメリカには文化も伝統も、重みもなければ、微妙な美しさ、繊細な情緒もない。大味で、無味乾燥。こういう土地にいたら、次第に心にしなやかさが失われる。

3.ユダヤ人を除いたら、現代の数学や物理学は考えられず、アメリカの一流大学における数学者のうちに占めるユダヤ系の割合は3分の1に達する。(ユダヤ人の迫害の歴史はアメリカという土地に移民先を得たことで一段落し、安定した地位の保全を築き、安寧、安穏を得た)。

4.大学初年度の学生らの一般知識は驚くほど低く乏しい。世界地理を知らず、米国の歴代大統領を知らず、数学の知識や実力の面では恐ろしく見劣りがし、嘆かわしい。とはいえ、知識において見劣りはするが、精神面においては成熟している感がある。

5.数学の細分化が同じ数学学会のなかに対立、抗争を生み、同じ数学にあってすら、互いに理解不能という事態に立ち至っている。

6.スラングを覚え、それを平気で口にしたが、時、場合、相手を選ばないと大変な事態を招く。(私もエレベーターのなかで、ふと不愉快なことを思い出し、つい「Shit!」と口にしたら、隣にいた中年婦人に睨まれた。 だれでも、外国語であれば、どんな汚い言葉も平気で口にできるものではあるが)

7.アメリカ人も、資格を得るため、立場をキープするため、より良いポジションに着くため、などの目的で、おべんちゃらを言い、追従し、へつらい、媚びるなどがある。(当時なら、「Brown Nose」という言葉があり、「茶色の鼻」とは、「相手の尻の穴でも舐める」という意味だったと記憶している)。

 著者が若い頃から恐ろしく生真面目であることは、本書を通じても理解できる。が、もしこのときの旅で、ニューヨークに半月でも滞在する機会があったら、印象はもっと違ったものになっただろう。(ニューヨークに住むアメリカ人はニューヨークこそがアメリカであると主張するが、ニューヨーク以外に居住する人はニューヨークはアメリカではないと主張する)。

 著者はアメリカの「養子縁組」について触れ、「日本の捨て子」や「子と継母のと関係」と比較しつつ賞賛しているが、アメリカ人ほど人の子を貰って育てることに意欲的な国民はいないだろう。ただ、「幼児虐待」や「小児性愛者」の少なくない社会で、そういう不埒と縁のない子育てが可能なのかという疑問は私個人の脳裡からは去らない。

 アメリカ人やカナダ人をお客とする業務に長年従事した経験から言えることだが、日本人はいったんお金を払って客になると、「客面(きゃくづら)」をするし、態度がデカくなる。それに比べ、北米大陸の人々はまず「1対1」という人格というベースを認めているから、金を払い客になったからといって、日本人のような客ヅラは決してしない。


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