蒙古襲来(日本の歴史8)/黒田俊雄著

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蒙古襲来

「蒙古襲来 (日本の歴史8)」
黒田俊雄著  中公文庫刊

 

 大学教授による歴史書だから、教科書的な香りが全編に漂っているものの、真面目な文体が印象的。本書は蒙古襲来から鎌倉幕府の滅亡までを扱っている。1974年初版から30年以上も版を重ねているが、いま人気作家である井沢元彦氏の歴史書と比べても古さや硬さは感じない。

 ポイント(学んだことを含め)は以下:

1.チンギス・ハーンが一代のあいだにユーラシア40国を滅亡させ、数百万人を殺戮し、西は中近東、バグダットのアッバース 朝を殲滅、現モスクワ(当時は村)からハンガリーにまで侵入、13世紀、空前絶後の大帝国を出現させた。

2.ローマの法王が親善使節をモンゴルにまで送ったが、軽く扱われ、なんとその返書には「永遠の天の力による大モンゴルの、海のごとき皇帝の勅(みことのり)、人民の服従せる者どもにいたらば、慎めよ、恐れよ」と傲慢にして尊大な文書が朱 印に添えて書かれていた。 ローマでは以後、モンゴル人のことを「タタル人」とか「タタール人」とか称して、恐怖した。「タタール」とは「地獄の民」で、人肉食の民とも解されている。(タタール族もモンゴルに近い平原で生きた種族だが、チンギス・ハーンの生まれた種族とは別の種族のはず)。13世紀のローマ帝国は東ローマはすでに滅亡し(五世紀半ば)、このとき存在したのは西ローマ帝国、ビザンツ。

3.モンゴルは制覇に手間どっていた南宋とチベットを完全に掌握するためには日本を服従させることの利に気づいた。とはいえ、モンゴル人は海を知らず、船舶の建造技術も知らない。そこで、すでに侵略を完了していた高麗(朝鮮)に船を造らせる。高麗の山野は荒廃、人民は疲弊の極に陥っていたが、選択の余地もないまま資材を提供、労働力を供出、食料をまかない、モンゴルにとって当面の敵国であった日本よりはるかに重い負担に苦しんだ。

4.モンゴルからの使節が二度、三度にわたり日本を訪れたが、日本の為政者はこれを斬首したり、本国に強制送還したり、まともに応接しなかった。にも拘わらず、朝廷でも幕府でも、坊主、僧侶を呼んで、毎日、祈祷、祈願の日々をすごした。(時代錯覚/国際感覚の欠落/相手国のもつ武力に関する情報を得ようとする姿勢の欠如。まるで幼児の発想か、アホの発想。現在の「平和が好き」と言ってるだけの社民党党首の発言に酷似)。

5.当時の古文書にはモンゴルのことを「ムクリ」と書いてあるが、ムクリが日本を攻めてきた場合、当然通過するであろう隠岐対馬へ危険を報せる情報など送っていない。(為政者の蒙昧、怠慢、実態への調査不足。対処療法は日本古来の処方箋だったらしい)

6.二度の攻撃(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)では、壱岐も対馬も散々な目に合わされ、その後の北九州海岸での戦いの様相が当時の日本人武家が考えていたものとはまるで異なっていた。「やーやー、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」と日本武士が名乗る間もなく、いきなり矢が飛び、兵士が群がっていっぺんに突入してくる。想像すると滑稽だが、当時の日本武士は驚愕しただろう。

7.幸運なことに、日本はモンゴルの強大さにも気づかず、危機感もなく、僧侶、坊主による祈祷、祈願を連日行ってはいたが、軍備を増強するなどの手段には出ていない。 文永の役、弘安の役、いずれもたまたま嵐が吹き、モンゴル軍は旗を巻いて逃げ帰るが、以後、日本には「神風」が人々の口の端にのぼるようになり、信仰にまで高まって太平洋戦争時まで引きずることになる。そこには科学的な分析や錯誤の手直しなどに全く努力が払われていない。あるのは日本的非合理主義と「心情でものを見ることのが好きな、科学性を無視した甘さ」だけ。 (絶大なる幸運は非現実的な信仰を生む。さらに言えば、モンゴル族は平原の遊牧民、海洋には弱く、船上で酔ってしまった兵士が少なからずいたに違いないし、操船も朝鮮半島の人間に任せたであろう)。

8.モンゴル軍の騎馬隊は熱帯の湿地や、山岳地帯、島国を攻めることには悉く失敗している。例は日本、ジャワ、スマトラ、インド。かのマケドニアの王、アレクサンダーもインドには深入りせずに引き返した。

(逆説的だが、他国と国境を接することのリスク、国境を接する他国の数が多ければ多いほどリスクが増大する事実を日本人は知らぬまま歴史を歩んできた。かつて、スターリンがロシアに接する国という国を属国とし、ドイツが周辺国を侵略し、スペインがオランダを奪取してイギリスと戦い、中近東では現在も互いに敵視しあい、ミサイルを発射したり戦車を送り込んだりしている。 日本人が長い歴史のほとんどで平和と安寧を享受できたことは海により隔てられた島国であったからに過ぎない。その事実を学校の教科書は教えていない)。

9.朝廷はこの時代、後醍醐天皇が朱子学を奉じて、天下の実権を「けがれ」の代名詞である武家などにまかせることはせず、みずからの手に握ろうとした。が、自分用の軍隊が身近にいないという決定的な不利があった。 後醍醐は自己顕示欲のかたまりのような天皇。

10・当時、寺院は僧兵を採用、みずからを守る手段に出ている。商業に携わる人たちも例外ではない。幕府が認めた領主や豪族を「御家人」といったが、当時正式にはこれが武家であり、寺院が採用した僧兵はあくまでみずからをガードするためで、質が悪かった。詐欺はする、盗みはする、たかりはする、脅かしはする、作物の刈り盗みはする、食べ物を強訴するといった体たらくで、今日、我々が想像する僧侶とはまるで違うことを銘記しておかないと誤解を招く。
(もっとも、現代でも僧の衣を着用しながら外車を駆ってお経をあげに出かける僧侶はいるけれども)。

 さらには、荘園に従者となってガードするやからも、やはり武器をもって闘う男たちであり、こうした用心棒的な男たちが街に徘徊、次第に実力をつけてくる。幕府はこれらを総じて「悪党」と称し、ときに軍隊を送って制圧に出たが、いたちごっこだった。

11・当時の天皇の地位は「ひな祭りの内裏様」に過ぎず、形式上の国王。周囲は天皇のことを「主上」「内裏」「御門」などと称していた。言葉自体が天皇のシンボル的な、セレモニーの主催者というイメージを固定しているが、そうしたイメージを堅持している限り、朝廷は敵視されることもなく立場は安泰。

12.鎌倉の崩壊は幕府が時代の流れに抗し得なかったこともあるが、西日本の経済的な発達を認識できなかった。鎌倉武士、というより東国の武士は自給自足体制をよしとする人たちであり、一方、関西には座が立ち、市場が存在し、貨幣が流通する、そういう文化が早くも存在していた。

(時代の趨勢というものは渦中にあってはわからないものだが、この当時、日本は流通経済に向かって走っていたに違いなく、この事実を土地にこだわる鎌倉武士は見誤ったのであろう)。

13.当時、日本人は例外なく死と隣り合わせにいた。殺戮、飢餓、疾病などが慢性的にくりかえされた社会では、無常観が人々のなかに蔓延する。後世に名を残すような僧侶や、全国を経巡る一遍上人のような人も、そうした世相から輩出する。誰の耳にも「諸行無常の鐘」が鳴り響いていたのが聞こえていたのであろう。


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