薩摩の秘剣 野太刀自顕流/島津義秀著

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「薩摩の秘剣 野太刀自顕流」 島津義秀著
新潮新書 2005年2月初版  ¥680

 

 著者は真面目にして真摯に本著作に取り組んでいる。

 いわゆる「示現流」と「野太刀自顕流」との相違を説明、幕末に活躍した流派は、たとえば桜田門外の変、寺田屋事件、生麦事件など、ことごとく後者であることを示唆。

 さらに、太刀と天吹(てんぷくという名の笛)と薩摩琵琶が三位一体となって、教育にも生かされた歴史、ことに自顕流は関が原の負け戦から発し、以来、執拗に「実戦最強の剣」をめざし、幕末に至って、それが効果的に発揮され、幕府を倒し、新政府を樹立することに役立ち、往年の無念を晴らしたと語る。

(刀剣が暗殺に使われたのは事実だが、幕府を倒したのは鉄砲や大砲であって、刀剣ではない)。

 実は、著者は島津十三代の当主で、そのことが脳裏から離れず、本書の本筋から離れた部分へと疑問、義憤が向かってしまったことは、申し訳なくは思うものの、以下は本音である。

 第一に、16世紀に渡来した鉄砲が19世紀末にいたっても、ほとんど改良されていず、当時の内乱の相当部分が刀争によって行われたとしたら、それこそ時代遅れであり、錯誤でもあり、不合理を感ずる。

 第二に、ただの用心棒であり、人斬りでしかなかった中村半次郎(野太刀自顕流の使い手)が、新政府では桐野と名を変え要人の一人に迎えられたのはひとえに薩摩出身であったからに過ぎず、本人の能力ではなかった。新政府全体が薩摩藩と長州藩という、いなかっぺの人間で占められたことで、「武」を誇るあまり、軍閥が芽生え、日露戦争という無謀を犯し、ひいては310万人の日本人の命を奪う太平洋戦争まで引きずったのではないか。 当時、島津久光、西郷隆盛、大久保利通レベルの逸材は関東にはいくらでもいた。

 第三に、幕府をつんぼさじきに置いて、琉球征伐(最初の侵攻は秀吉時代だが)を行い、海外情報と同時に、過酷な税をとったのは薩摩藩ではなかったか。ために、琉球国王は宮古島に人頭税を、与那国島では妊婦に岩から岩に飛ばせる久部良割など、貧にあえぎ納税に苦しむ島人としては苛烈な手段に出ざるを得なかった。 この事実こそは、よそさまの国に土足で入り、侵略する、そういう歴史の、いわばさきがけとなったのではないのか。

 琉球が中国から移植して育てた芋を「薩摩芋」と称したのも、琉球の揚げ物を「薩摩揚げ」と称して、あたかも薩摩の特産のように見せかけたのも薩摩官僚の仕業だったのではないか。

 現在でこそ、南西諸島のうち、与論島までが鹿児島県に入っているが、もとはといえば、奄美大島以南が琉球王国の所属だったことを忘れてはならない。

 著者が宮司をやりながら、薩摩式の教育に力を入れ、薩摩文化を世界に発信していくことに異論も反論もないけれども、戦時中、沖縄県民が疎開先に決して鹿児島を選ばず、大方は宮崎、熊本、大分に分散疎開した事実をどう思っているのか、など、作者が島津十三代の当主であるがゆえに、本書の内容とはずれた憤りが抑えがたく胸中に噴出、そればかりが脳裏をよぎって、いやみな書評になってしまった。

 ただ、「地軸の底まで叩き斬れ」という野太刀自顕流の精神はよくわかった。

 さいごに、私は沖縄とは長いあいだかかわりを持ったが、東京出身で、沖縄に義理立てしなければならない立場にはないことを断っておく。とはいえ、沖縄には親しい知己が多く居住しているが、鹿児島にもバリ島で仕事を一緒した人が家族と住んでいる。


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