蛍川・泥の河/宮本輝著

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蛍川・泥の河

「蛍川・泥の河」 宮本輝著 新潮文庫

 何年ぶりかで再読してみた。やはりというか、期待は裏切られなかった。

 舞台は昭和三十年代の大阪。

 汚濁にまみれた川、ロープでもやわれ泥の水面に浮く河舟。そこを住居とする母と子どもの姉弟。戦後しばらくは東京でも大阪でも汚い舟を棲家とした家庭があった。

 夜間、背に油を塗り、火をつけられた小さなカニが船べりを歩いて落ちていく光景が、本書をはじめて読んだときから脳裏に焼きついて離れなかったが、再び痺れるような感動を味わった。

 肌が白く、細面の母親が商売で男と交わっている最中に主人公の男の子と視線が合ってしまい、バツの悪さを覚えた少年には消え入りたい気持があったろうし、見られた側の母親には言葉もなかったであろう。

 男と女のことに関心をもちはじめたばかりの少年には、こうした経験がどういう形で将来表れるかには個人差があり、想像を超えるものがある。そして、母親が体をひさぐことでメシを食っている事実をだれよりもよく知り、その事実になによりも恥辱を覚えている姉弟の心情も言葉でそれと表現されてはいないが、明瞭に伝わってくる。

 最後、親子三人をのせたポンポン舟が場所を移動するために別の船に曳かれていく。主人公の男の子は、その後を、汚水のなかで泳ぐ巨大な鯉の姿を発見。ぽんぽん舟に乗っている友人にそのことを知らせるべく、移動していく舟を川べりを駆けながら必死に追って、舟に向かって叫ぶ。 なんど友の名を呼んでも舟から応答はない。

 「合わせる顔がない」というのか、「住んでる世界の違いじゃ」というのか、この沈黙はなにも語ってこないが、心に残る場面。

 「傑作中の傑作」を褒めるには言葉に窮したかも知れない。

 いずれにせよ、作品からは、次の「蛍川」からも含め、嗅覚と視覚とに他の作者からは受けない強烈な刺激があって、それが残滓のように脳裏に去来する。

 「蛍川」はかつて読んだときは最終場面、「おびただしい光の粒が一斉にまとわりついて、それがスカートの裾や胸元から、なかに押し寄せてくるのだった。白い肌が光ながらぼっと浮かびあがった。竜夫は息をひそめてそんな英子をみていた」が記憶に残ったが、今度読んでみて私の心をとらえたのは、少年二人の次のやりとりだった。

「押入れのなかは真っ暗で、なにか恐ろしいなってきたがや。百合っぺも黙って布団の上にうつぶせになっとった」

「いつころのことよ?」

「小学校二年生のときや」

「げっ、おまえ、それはませすぎじゃ」

「おれ、百合っぺのパンツをぬがして、尻の穴にさわりとうなったがな」

「‐‐‐さわったがや?」

「‐‐‐うん、長いことさわとった。押入れのなかは真っ暗で、かび臭かったがやけど、ふすまのあいだからちょっとだけ光が入ってきととった。おれ、自分の指をその尻の穴に入れてみとうなったがや」

「いれたがや?」

「入らんかった。百合っぺが痛がるがや。なして、そんなことしてみとうなったがや? それも、フェロモンかのお?」

 この少年どうしの会話は当時の平均的な少年にくらべてませていたのか、おくてだったのか、私には判断はできない。ただ、無垢で、真摯で、清々しいものを感ずる。


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