裸のサル/デズモンド・モリス著

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ヴィジュアル版 裸のサル

ヴィジュアル版 裸のサル
 デズモンド・モリス (イギリス人)著
 日高敏隆訳  河出書房新社刊
 単行本  定価¥3,903

 
 本書は人間「裸のサル」を他の動物と対比し、吟味することで、より深くわれわれ自身を知ろうとの目的で書かれたものであり、著者はイギリス人動物行動学者である。

 著作はイギリスはもとより北米でも話題作となり、ベストセラーとなったというが、モンゴロイドの国で売れるかどうかは判らない。

 内容は、他の動物、とくに類人猿との比較、検討、解説が多岐にわたり、そのうえイギリス人らしい几帳面さが、例によって癖の強い言葉の選択と、詳細のうえにも詳細にわたるまわりくどい文体で、疲労感が伴う。 むろん、このことは原書がもつ癖なのか、翻訳者による癖なのかは、原書には触れていないので判らない。

 資料、文献、遺跡といった証拠すらない古代人類については、想像するしかなく、さらには現代人の代表として北米に居住するコーカソイド(白人)を軸に据え、キリスト教的な倫理観にベースしていると思われる部分が随所に登場することなど、独断と偏見を感じ、キリスト教とは無縁の読み手としては抵抗を覚える。

 「本書には多くの異論も批判もあるだろう」との解説を、訳者本人が述べているが、そのことは著者自身がそうしたリスクを覚悟のうえで、このアドベンチャラスな労作に取り組もうという欲求が抑えがたかったのではないかという印象にもつながる。

 違和感をもつ部分を、例えばということで、引用すれば:

1.人間は育児に時間がかかるため、オス、メスが一つのツガイとして子供をケアする「一夫一婦制」を必然としたとあるが、古代 は複数の相手との性的交接のほうがむしろ自然で、生まれた子供がだれの子か判らぬためにグループでケアをしたという想像も成立する。著者の嗜好原点にはキリスト教的な倫理観への迎合が強く感じられる。

2.キスの習慣が古代から長い習慣として、挨拶にも性的接触時にも行われてきたというのも、コーカソイドに特有のことで、むか しの日本人をはじめアメリカ・インディアンや、モンゴル人やポリネシア人にもキスの習慣があったとは思えない。日本でキスを「接吻」という言葉で現したのは明治期に入ってからであろうし、江戸時代に長崎出島のオランダ舘に出向いた遊女は「あちらの方はことのほか『口吸い』がお好きなようで」と漏らしている。明らかに、彼女にとってキスは珍しい体験だったのだ。「口吸い」という言葉自体が珍妙である。

3.家畜化された動物のなかに犬の話がある。「犬ほど複雑かつ有用に品種改良され、人間に貢献した家畜はいないが、その代 わりに犬が自然にもつ進化は妨げられた」というが、多くの品種改良を犬に強いて進化の妨害をしたのはほかならぬイギリス人ではなかったのか。

4.「キリスト教こそが世界をまとめ、戦争をくいとめ、各地の文化を守る」というキリスト教的思考に読者を誘導するが、かつて植民地争奪をくりかえし、他国領土に侵略、罪のない現地の人々を大量に殺戮し、地域によっては(例:南米南端に住んでいた民族、豪州タスマニアの原住民など)絶滅させたのは、キリスト教徒だったことは歴史が証明している。

5.「人間は互いに短い距離にあれば、殺人にまで至らないケースが多い。遠距離攻撃は抑制が効かない」との言葉に対しても、 上記した近距離虐殺の件はどうなんだといいたくなる。欧州においては、戦争が歴史そのものだったはずだ。だからこそ、この地域の国に分ける地図は年代とともに変化している。ベルギーなどはつい最近国としてその名を地理に刻んだ国である。

6.「人間は全体の群れを支配し得る全能の象徴が欲しかった。この空白は『神』を発明することで埋められた。宗教の発生と成功は、人間の全能の優位者に服従し、ひれ伏したいという基本的な生物学的傾向の現れである」とか、「欲するのは勝つことであって、殺すことではない」とかいう言葉は、キリスト教の宣伝であって、まるで宣教師の言葉、本書の趣旨からの逸脱を感ずる。 私自身「全能の象徴が欲しい」と思ったことは一度もないし、そういうものを欲するのは幼児が乳を欲しがる気分に近いと私は思っている。神などというものは、どだい存在しないからだ。

7.また、イギリスの8万人の幼児(4歳から14歳までの少年少女)を相手に、動物に対する好悪のアンケートをとってそれを解説しているが、意味があろうとは思えない。世界の各地で同じアンケートをとれば、 回答はそれぞれに特徴的なものがあって、イギリス人の嗜好の延長線上にはないと思われる。

 以上のようなクレームをつけたくなりはするが、著者の本音は最後の最後に「裸のサル」という侮辱的なタイトルを付した理由を「人間自身の進化がめまぐるしく、頭脳細胞の著しい発達によって他の動物を凌駕、食物連鎖の頂点に立ったが、いま人類が直面している人口爆発や環境破壊の危機もわれわれの知恵でコントロールし、解決できるとの思い上がりや過剰な自信に対して警告を発したかったからだ」と述べている。

 「人類生存のチャンスをできるだけ長期にわたるようにするために」との言葉でしめくくりつつ。

 著者の多くの言葉、解説のなかから、私がなるほどと唸った部分は以下である。

 「人間があるとき天才的で、合理的な着想に出遭ったとき、社会全体が古い習慣や偏見にしがみついて、顔をそむけるのも、前の時代の蓄積した経験を急速に吸いとっていく若い時代を経てくる以上、どうにも負わねばならぬ十字架である。幸い、人間には尽きることのない好奇心と探究心があり、新しいもの、よきものを認め、取り込んでいく能力があり、そこに成功をもたらす潜在力となるバランスがつくられる。これらニつの衝動のあいだに適度なバランスを保つ文化は繁栄し、硬直化した文化は衰亡する。斬新さばかりを追えば、安定を失い、文化的な混乱と崩壊を招く」と。

 (とはいえ、「文明が提示してきた利器に依存した生活はさらなる利器を生み、社会はレベルアップした利器に対応できる生活に整えていくという循環をくりかえすが、いずれ利器にふりまわされ、利器に裏切られて、人類に死をもたらす」という考えもあるし、信憑性もある)。

 幼児的な形質が生体に維持され延長されるというプロセスを「ネオテニー」と呼ぶ。人間の出産後の子供には著しい特徴的傾向がある。それはすべてにわたって成長が遅いことである。たとえば、歯がなかなか生えない、自分でものが食べられない。 類人猿の子供のように生まれてすぐ親にしがみつく力もない。鹿の子供のように生み落とされてすぐ立ち上がる力もない。成長段階まで恐ろしく時間のかかる生物である。これは生物の生得的にもつ衝動に対しての闘いであり、衝動の抑止こそが教育になっている。遺伝的に支配されたものを変化させていく過程こそが人間をして霊長類のナンバーワンに押し上げた。この淘汰の過程には何百万年もの月日を必要とした。

 「人間ほど攻撃的な動物は他に例がない」というのが私個人のもつ考えで、同種でありながら、これまでどのくらい互いに殺し合いをやってきたか、いまこの瞬間さえ、どこかでだれかが殺し合いをやっている。これは人類のもつ衝動であり煩悩であり、仏教でいう『業』(ごう)であろう。

 それにしても、この出版社は海外でベストセラーになった分厚い本を翻訳出版し続けているが、販売価格も高くなるし、必ず日本でも売れるとはいえず、経営はどうなんですかと訊きたくなる。


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