誰のために愛するか/曽野綾子著

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「誰のために愛するか」 曽野綾子(1931年生)著
副題:すべてを賭けて生きる才覚
1970年3月15日 青春出版社刊 単行本初版

 

 本書は親しい知己から貰ったもの、自分で選択しなかった作品の書評は久しぶり。

 表紙の裏に自筆で書かれた冒頭の言葉が、著者39歳時の赤裸々な心情として、心打つものがある。

 「人間が人間を選ぶなどということは本当は恐ろしくてできないのです。ただ、惹かれてしまうということ、或る人の心の影で雨やどりをしたいと思うことはあります。先に立って私の行けない彼方までずんずん歩いて行きそうな人が好きです」との素直な言葉は読者に感銘を与え、共感を得るだろう。

 「愛という言葉の意味は広大で、多くの人に手軽に使われながら、実はこれほど本質を掴みにくい言葉もない。愛というものは、それだけでひとつの完結した世界。とはいえ、愛は実用品ではない。何かで買うこともできない。求め方のルールもなければ、その結果がどうなるかという保証もない。それは、しかし、生命そのものであり、それだけに哀しくも燦然と輝いている」

 作者の夫、三浦朱門は「恋愛というものは一時間前までの赤の他人が一生を命がけで愛しあう二人になることもあるということで、むしろ、その種の意外さが恋愛の条件ではなかろうか」と言う。

 「私のようなタイプは」と作者は続ける、「恋は常に尊敬から始まらなければならない。体力や知力において、寛大さにおいて、複雑さにおいて、尊敬できない男は男として感じられない。男とは崇めるものであり、その保護のもとにありたい」と。男が軟弱になっている今日、この部分が現代の若い女性たちから結婚願望を奪ってしまった理由であろうか。

 「性を伴う愛は表裏がよく合っていて、強力で、しかも弾力性に満ち、つじつまが合い、悲しみと偉大さと滑稽さが適当に同居し、まさに人生そのものであるという点で、比類なく安定している」と言いつつ、「男女の触れ合いには性的なもののほかに、マッサージがあったり、愛撫があったり、かゆいところを掻いてもらったり、そうした相互の触れ合いも含まれる」と言い添えている。間違いなく、背中を流してもらったり、耳孔を掃除してもらったり、ハグしたり、キスしたり、髪に触れたりも含まれるはずだ。

 「滑稽なカップルは安定がいい。滑稽というのは弱点が剥き出しにされていることで、その弱点を愛してしまったら、ほかにどんな綺麗な女、あるいは二枚目の男が現れても、カップルの関係に亀裂や破綻は生まれない」との言葉には真実味がある。

 「忠誠心は多くの場合、盲目の部分を持つが、さかしらに眼があきすぎた人よりも、眼の見えない一途な姿勢のほうが幸せである。少なくとも、賢いか賢くないかは別にして、女性的な特質だから、女はその特権を充分に利用して幸福に浸り、味わうべきだ」と、忠誠心への偏向を明言している。

 「女性は本当のところ優しくもないし、デリケートでもない。残忍なことができるのは男より女である。しかし、女は愛する対象をいったん信じたとなると、とことんまで、理性の力など借りずに、信じるものを支持することができる」

 本書は「男女間の愛」のほかに、作者の私的結婚生活について、子供の育てかたについて、人生観についてなど、多くのページが割かれている。そうした文言のなかから心惹かれた部分を一つだけ抽出する:

 「人生は『なせばなる』などと思ったことはない。なそうとしてもならないことのあることは、太平洋戦争に日本人の多くが命を賭けたが、ならなかった事実が、そのことを証明している。地球は個々人のさまざまな思いとは全く別の力で動いている。人間の努力や善意や正義など、ときとして全くその存在も忘れられたような矛盾に満ちた複雑な論理で世界は滔々と動いていく、そのような神秘的ななりゆきに私は深く感動できる」

 39歳時の作品には、総じて、愛に関する心情が柔らかく表現されていて、往年の堅固さに身を包んだ文体の片鱗を存分に感じさせながら、柔軟な言葉の選択と心情の明確な吐露に終始している。

 人間は誰もが長所と短所を併せもっている。欠点や弱点は可能な限り補完しあい、長所は尊敬の対象にする。傷心のときは慰めあい、励ましあう関係こそが愛だと、私は思っている。

 若き日の曽野綾子作品に出遭えた幸運に感謝したい。


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