超バカの壁/養老孟司著

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超バカ

 「超バカの壁」 養老孟司著(1937年生)

  新潮新書  2006年1月初版

 一読、本書にいつもの作者らしいシャープな洞察が欠けていたり、議論が中途半端だったりするのを感じ、出版社の編集に無理やり語らせられ、聞き取りさせ、上梓に至ったという印象が抜けず、「あの鋭い諧謔と皮肉を交えて論理的な話をする養老さんはいったいどこに行ったんだ?」という訝しさは最後まで消えずに残った。

 遠慮なく書評させてもらうが、まず、「医師や政治家は世襲でいい」というのはお門違いの意見。医師は、近隣の人々の問題だし、幾らでも選択の幅があるから問題はないとしても、政治家は国の問題を解決する立場にある。世襲で過保護に育てられたおぼっちゃんやおじょうちゃんたちに庶民の感覚や社会への不満が理解できるわけがない。ああいうボンクラに政治を任せていると、きれいごとになってしまい、最終的には国民に塗炭の苦しみを味あわせることになりはしないか。むろん、人によりけりだとは思うが。

 政治家は国のために働くための職業であり、票田である地元のために働く職業ではない。このあたりのことを未だに誤解しているアホンダラがこの国には多すぎる。

 「行動や発言より脳は先に動いている」は常識であって、本書に構えて書く内容ではない。

 「頭はいいよりも丈夫なほうがいい」は日本語にそぐわない表現。「頭はいいよりも、神経の太いほうがいい」の方が一般人には理解しやすい。

 「日本人が個で生きていない社会であることは墓を見ればわかる。西欧人の墓は個人個人のデータが刻まれるが日本の墓は家代々のもので、個人と家とが同一となっている」は、さすがによく見ている。ただ、ボルネオ島のサンダカン港(マレーシア)に残されている日本女性(身をひさぐ遊郭に売られていた)、別名カラユキさんの墓が小高い丘に在るが、その墓には日本、天草島出身と地名に並べて本人の名前もあった。この狭い国で個人個人に墓をつくっていたら土地が足りないし、墓なんてものは人類の生んだ無用の長物。

 「元々、日本社会にあった(公私)は、公は天皇家のことであり、(私)は家のことだった。明治期、(私)という言葉が翻訳されるとき西欧の個人という意味合いの言葉を加えてしまい、混乱の基ができた」とあり、それが元々の混乱の原因だったにせよ、現今、わたしたちが口にする「公私」のことは、明らかに、公のこととプライベートなこととを分離して捉えようとの意図が含まれていて、天皇家とも家とも関係がない。元々のことはこの際どうでもいい。言葉というものは時代とともに変容する。

 「テロと特攻とは同じレベルのこと」は同意。予防すれば問題は起こらないという説にも異論はないが、北朝鮮が暴発する脅威、危機があるかないかは別にしても、あり得るという前提に立った予防策がしっかり採られるているとは思えない。起こってしまってから、対処療法でお茶を濁す日本の外交では埒が明かない。被害と迷惑に泣くのは国民だけ。

 「日々平穏」を理想的社会のようにいうが、平和がボケを促し、危機意識を喪失せしめる逆効果をもつこともあり得る。

 「長崎、広島への原爆で無条件降伏に至った」といった説明だけでは、都市への絨毯爆撃で死んだ多くの人、米軍の沖縄上陸作戦によって死んでいった市民の怒りを誘発する。日本に原爆を二つ落としたのはアメリカにとって動物実験の範疇に属すること、このことに対する恨みを日本人は決して忘れてはいけない。原爆を落とされて敗戦に追いこまれた日本が戦後原爆を落としたアメリカとのパートナーシップを金科玉条の如くにして生きてきた姿は外国人には理解しがたい。

 「9.11テロは抑制の外れた状態、倫理観のない人間的行為で、5,000人が死んだ」というのは確かな情報だが、アメリカ人、チョムスキー著の「生存か、覇権か」にある通リ、アメリカは以前から中南米、アフリカの一部地域で、多くの無垢の市民を殺している。「あれだけの悪行に報いるにたった5千人」という議論もある。抑制の外れた倫理観のない人間はアメリカ人の方ではないかという説だ。

 「イエスは汝姦淫するなかれといい、淫らな思いで他人の妻を見るな」といったのは確からしいが、そういう抑制が社会全体に及んだのが西欧諸国で、そうした抑制が長期間社会の規範になると、あるとき、唐突に爆発する。抑制への反発であって、アメリカでは1970年以降、ポルノ館、大人の玩具店、ストリップ劇場あるいはストリップ劇場、トップレスバー、売春宿が乱立した。性のことが比較的自由だった江戸期の風俗を末期に至って幕府が倒壊してからは新政府が抑止したから、明治期以降、戦後にいたるまで日本人は性に関してオクテになり、無知が長く継続した。おおらかさが継続しているインドやポリネシア諸島では、抑制がないから反発も爆発もない。

 「衣食足りて礼節を知る」は「衣食が足りないと、ものを考える脳に肝心の脂肪がまわらず、まっとうな思考が欠落するから、あたりまえの議論ができない」というのが正しい説明ではないか。

 「免疫学者の多田富雄は「女は実体だが、男は現象であるといった」は言葉としては面白いけれども、現実社会で、たとえば、現在女たちが便利に使いこなしているあらゆる電化製品はすべて男が工夫、製作したものである。確かに、「人間は女がベースであり、男は女が変形したもので、出来損ないも圧倒的に男に多いのも統計が示してはいる。「出来損ない」とは「偏った人間」「極端な人格」の意で、男による殺人の数は女によるものの10倍で、原因はテストステロンの分泌にある」との説は正しいだろう。(この部分は養老さんの他の作品とダブっている)。

 「子宝、授かりものという言葉を取り戻そう。子供の本質は無垢にある。都会への集中はこれでいいのか?子供が自然のなかでのびのびと遊べるほうが日本の未来に希望がもてるのではないか」との議論に異論はない。また、「今の親は子供にとって何が最悪かを考える能力がない」にも同感。今の親には子を教育する理念が欠落しており、学校や教師にあらゆる責任をなすりつけることで代替しているとしか思えない。

 「子供たちの日記にも、作文にも、自然との接触を書いたものが見当たらなくなった。ザリガニやドジョウを捕獲する名人の子供も、トンボや蝉を取る子供名人もいまや日本から消えたしまった。学校の成績とは別に存在する個人的な能力を示す機会が失われた」には感ずるものがある。

 「人間のなかには性格は悪くないのに、他人の嗜虐性、サド性を誘発する性質を持っている人がいる。これがいわゆるいじめられるタイプ」

 「韓国も北朝鮮も中国も、かつての大日本帝国の富国強兵路線を踏襲し、あわせて日本が戦後に築いた経済大国への道にたどりつきたいという願望があり、日中戦争に懲りているのは日本人で、中国人は全く懲りていないのではないか」との説は斬新で、心に響く言葉だった。だからこそ、世界で二番目に大きな軍隊をつくりあげたのであろうし、今後も軍事費はふくらむであろう。

 「労賃の安い国に工場をつくって現地人を雇用するのは、毛沢東がかつてやった農村に対する搾取と大差がない。中国で商売をするのなら、はじめから上海や北京に行かずに田舎に踏み込め、そして、きちんと正当な報酬を支払え」は言い得ている。(あるいは、むしろ、中国を避け、インド、ヴェトナム、タイなどへの工場移転を考えたほうが、結局は賢明なのではないか)。

 「現中国共産党政府は清朝の歴代の皇帝が住んでいた紫禁城(しきんじょう)に巣くっている。北京政府は鶏冠ではあっても鶏体ではない。かれらは常に鶏の体の動きにぴりぴりしている」は当たっているだろう。この言葉は「鶏口となるも牛後となる勿(なか)れ」からきている。

 「自分は潔白であり、正しい立場にいるという意識に支えられてしか外交に立ち向かえない日本人が多い。はじめから、人間は罪を負っているものと自覚し、覚悟してしまえば、なんてことはない」このあたりの説はさすがに養老さんという印象だが、「人間とは罪を背負う生き物」というキリスト的宗教観、「人間とは煩悩と業(ごう)を背負う生き物」という仏教的人生観が欠落している日本人には受け容れにくく、だから外交ができないのでは。

 自然災害の話が阪神大震災をモチーフに語られている。「世界史上、記録にあるマグニチュード6以上の地震の10%は日本で、火山噴火の20%も日本で起こっている。その日本の陸地面積は世界の400分の1にすぎないのにである」

 (幕末に日本を訪れたスウェンソンの日本観察記は私も読んだが、日本人の復興の早さ、被害に遭った人々の意外な明るさに驚いている。それはそれでいいけれども、要は自己認識の問題ではないか。自然災害の多発する国という自覚さえあれば、政権が変わっても変わらなくても、全国的に災害に対処する法、テキストブック、精神的な対応、修繕、改修、被害者への対応と支援などもマニュアル化されているべきであって、いきあたりばったりでいいわけがない)。

 「日本語は文字が前提にならないと話にならない言語。同音異義語が山ほどもある言語。この活字文化は少なくとも日本からは消えようがない」外国人に日本語を教えるときの苦労はこの一点にあるといっても過言ではない。

 活字が脳を活性化するか否かは書かれている文章の内容次第であって、内容さえ絶品ならば、活性化はもとより、想像力を高め、行間に横たわる書かれざる部分への推理も働き、直観力を刺激し、一方では、新しい知識を獲得し、新しい世界を認識する。映像はその原作を凌ぐことは永遠にない。

 「NHKを客観、公正、中立の面で責める」のはお門違いではないか。低俗番組を連日放映しているのは民放である。民主主義がべースとする多数決が視聴率を決める。結果、拙劣、俗悪を絵に描いたような番組ばかりが民放世界で君臨し、結果的に世を毒し、子供らの頭も劣化させている。NHKに問題がないとはいわないが、民放のあまりの酷さを挙げないで、NHKを責めてみてもはじまらない。

 「カウンセリング」の話が出てくるが、日本でのカウンセリングの必要性、内容は、アメリカのそれとは雲泥の違いがあることをまず認識しておくべきだ。コカインを飲み続けていた母親から生まれた少女がどの程度脳を犯されているか、父親から何度も強姦された少女がどのような精神状態でいるか、アメリカの悲惨に対応するカウンセラーの話を聞いてから、この話題に触れるべきだ。

 はっきりいって、本書は出版社の儲け仕事、この内容は読者を虚仮(こけ)にしているとしか思えないし、養老教授の品格を落としたに過ぎない。それに加担したのは本人、もう少し、立場を考えて欲しい。日本の生んだ賢人が単にお金のために本を出したとは思いたくない。

 


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