身体をめぐるレッスン1-夢みる身体「顔、この所有し得ないもの」(その10)

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身体をめぐるレッスン1

「顔、この所有し得ないもの」 鷲田清一(1949年生) 大阪大学

 「顔は身体の一部であり、他の部位に比べ、現象形態としてはあまりにも特異な点だが、他人の顔は面と向かって凝視することは難しい。ほとんどは近くから、あるいは遠くから、盗み見たり、近くにあるときは、ちらっと窺う程度の見方しかできない。互いが長時間見つめあうことはきわめて稀なケースといっていい。つまり、まなざしには接触は起こらないということだ」

(これは人によってかなり異なるのではないか。私自身は比較的相手の目をしっかり見ながら話をするタイプである)。

 「顔は剥き出しで、厳然と存在しながらも、ちらちらとしか触れることのできない特異性がある。また、誰かの顔を知っているにせよ、その顔面を詳細にわたって知っているわけではない」

 「顔はまた他人の目に映る自分の顔を自分は永遠に見ることはない。鏡で確認できる顔は常に左右逆転の顔であり、その事実のもつ意味は法外に大きいように思われる。写真で見る自分の顔はしばしば違和感や否定的な感情を惹起する」

 「顔が切迫してきても、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。限りなく近くにありながら、まさにそのときに遠ざかり、隔てられてしまう。そこに羞じあらいが生ずるからだ。顔に触れるときの顔の位置で、それを取り巻く空間が歪む。顔の現れとともに空間の遠近法的な開けに特異な磁力がかかる。空間みずからが編み直す」

 「顔のその磁力をふたたび何かの相貌として遠ざけようとするとき、顔は窪み、退き、消え入る。そこには不在という空虚が一瞬剥き出しになる。現れたとしても、もやは、みずからを維持し得ないもの、そういう脆さ、そういう薄弱さが、ほかならぬ顔である」

 「顔は所有に抵抗するとはレヴィナスの言葉だが、複数の存在を種々という無名の立体の集合態へと解消していくような普遍的な思考、中立的思考。つまり、彼は人間の存在の根源的な多様性を『同』ということによって包囲する占有あるいは併合運動に抵抗するものとして顔の現れを考えていた。レヴィナスらが終生、顔にこだわったのは顔を包囲しにやってくるあらゆる意味を剥ぎとり、どのような取り込みにも抵抗する顔の、脆く、儚く、壊れやすい、常に『死』の可能性に引き渡された、その裸形の現れを人という存在の原型として救い出すこと、そこには現在における『書くこと』『描くこと』の意味はないと信じていたからではなかろうか」

 本章では、著者が意図するところが故意に難しい言葉を使っているためか、学者の学位をとるための論文を読んでいるような印象が強く、解かろうとすればするほど解かりにくいという状態に陥った。

 本章がレッスン1の最終章であるが、章によっては関心を惹いたり惹かなかったりで、初めに期待したほどの内容ではなかったことをあえて披瀝しておく。ただ、本書の「Ⅱ」をいずれ遠くない将来に読んでみたいとは思っている。


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