青年・渋沢栄一の欧州体験/泉三郎著

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「青年・渋沢栄一の欧州体験」 泉三郎(1935年生)著
2011年2月10日 祥伝社より新書初版 ¥760+税

 

 渋沢栄一は明治新政府のなかでも出色のリーダーとしてその名が高いが、本書によれば、それを可能にしたのは彼の欧州体験であり、見聞したなかから学ぶことの出来た才能だという。

 渋沢が欧州体験をもつことができたのは最後の将軍、徳川慶喜の実弟、徳川昭武(15歳)の欧州留学に随行したことによる。

 1867年に開かれたフランス・パリにおける万国博に皇帝・ナポレオンから直々に招待され、幕府はこれに応え大君の弟を派遣することとし、ことのついでにフランスのみならず欧州全体を日時をかけて見て回り、勉強してこいとの指示だった。

 幕府は生糸、漆器、和紙などの工芸品を出品し、グランプリの対象にも選ばれた。茶屋をつくり、そこに江戸の芸者を送り込みもしたが、西欧人の好奇心を煽ったという。

 渋沢は欧州で見たガス灯にも上下水道にも砲台にも、それらの仕組みにも驚いたが、図書館、外務省、海軍省、銀行とその機能(両替、紙幣製造所、地金積置場など)、その他、製鉄所、造船所、溶鉱炉、軍艦、武器装備などなどにも驚愕の目を向けた。

(明治新政府はこうした工業や機能はもとより、教育機関、警察、立法、軍隊、インフラを含め、ほとんど全面的にコピーして船出したといっていい)。

 見聞を広めながら、「自国では士農工商の階級のなかで商人が最下位に置かれているが、こういう習慣的思考を断たなければ西欧には追いつけない」ことも悟った。

 一行が欧州旅行中に、徳川慶喜が大政奉還したというニュースが入ったが、帰国を急がず、かえって予定を延長して見学を続けた。

 欧州での1年6か月余の滞在の後、マルセイユを発ち、帰国したが、旧幕臣は悉く「喪家の狗(いぬ)」のように扱われていた。渋沢栄一は幸運にも、欧州での見聞による新知識が評価され、新政府の懐にはいることで、数々の有効な助言を提供できた。

(旧幕臣には勝海舟以外にも有能な士は少なからず存在したにも拘わらず、「喪家の狗」のようにあしらったところが薩長の狭隘な根性というもの、根っこをほじらずに広く人材を登用する精神に欠けていたことも日露戦争という大博打をやったり、薄氷の勝利であった事実を国民に知らせなかったり、中国に喧嘩を売っていた規模の戦を太平洋にまで舞台を拡げるなどというアホまるだしの結果を招来し、多くの国民に死を強いることとなる遠因だったと私は思っている)。

 新政府は「廃藩置県」を実行するにあたり全部で300藩にも及ぶ藩それぞれが抱える問題をクリアせざるを得ない立場にあった。藩札や債権の処理、給与未払い、財源の確保、資金の融通、退職保障などのほか、外国に与えてしまった治外法権はもとより関税自主権の回復という多くのクリアすべき問題があった。

 渋沢栄一は政府に数々の有効策を献策しつつ、自身も銀行はもとより、各種産業、運輸交通、宿泊施設、劇場、社会事業、公益事業など500社以上に関与した。

 米国の著名な経営学者、ピーター・F・ドラッカーは、「明治維新を理解するうえで福沢諭吉、渋沢栄一、岩崎弥太郎」を挙げ、「福沢は実務家であり訓育家、岩崎は起業家、渋沢は倫理家」だが、渋沢を特段に評価する理由は拝金主義のところがなく、モラルが高いという点で際立つ人物」とのこと。

 作者は強欲資本主義に対抗する新しいモラル、抑制の効いた資本主義の節度ある競争が云々される昨今、渋沢栄一が体現してみせた商道徳や思想は「他山の石」として認知する価値があると主張する。

 渋沢栄一は身長1・52Mだったらしいが、吉村昭の書いた小説によれば日露戦争後にアメリカのポーツマスで開かれた交渉に日本を代表して出席した小村寿太郎は1・50M以下で、相手のロシア人は鬼のような顔をした大男だったとという。

 本書は船旅で見聞したものや鉄道乗車初経験など、この旅行の細部にまで触れている。興味のある人には面白いだろう。


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