100万回の言い訳/唯川恵著

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100万回の言い訳

「100万回の言い訳」 唯川恵著
新潮文庫  2003年9月単行本  2006年6月文庫化初版

 利器に恵まれた、自由な社会に生きることが、かえって難しい問題を招き、必ずしも幸福に結果しない事実を、登場人物を色分けし、巧みに構成しつつ、小説に結晶させている。

 この作者の著作に触れるのは初めてだが、文章がしっかりしていて、切れがいい。内容は、小説というより、思想書に近い。

 会話のやり取りや言い分に納得できない部分もなくはないが、現代社会の男女、夫婦生活を鋭く洞察しているように思われる。

 娘が自分の母親のことを以下のように表現する。

 「一瞬ではあったが、母の裸など見たのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろう。記憶にあるのは、小学生の頃に一緒に風呂に入ったのが最後。あのころ、母は胸が大きく、白く柔らかく、なめらかな肌をしていた。子供心にも、圧倒されるような女の身体そのものだった。それが、いま一瞬見た母の身体はすでに老いに満ちていた。垂れ下がった乳房、角張った腰骨、貧相な陰毛、六十五歳という年齢が確実に刻まれていた。風呂上り、母は熱心にクリームを顔に塗り込んでいる。化粧気のない顔は、頬にシミが広がり、口の周りのシワも目立ち、まぎれもなく六十五歳そのものの年齢を顕している。母がさいごにセックスをしたのはいつだったろう。聞いてみたい気がしたが、もちろん娘が口にするセリフではない」。

 はっきりいって、母親はめちゃくちゃに言われている。とはいえ、この母親には夫がいて、定年後に故郷の実家に帰り、野菜づくりに専念していて別居状態。母にはボーイフレンドがいて、母とその男が暗い車のなかで身体を寄せ合っている場面を娘は目撃している。この陰毛が貧相で、口の周りにシワのある母とボーイフレンドのことは、それ以上触れることなく、小説が終わってしまっているため、そのあたりへの不満が読者サイドには残るだろう。しかし、シワが浮き出た肌をし、乳房が垂れ下がった六十五歳の女を抱き、唇を求める男がいて、体の関係も、それとははっきり語られてはいないものの、透けて見えている。「最後にセックスしたのはいつなの?」などと訊いたら、「いま進行中」という答えが返ってくるだろう。

 面白いと思ったところを以下に列記してみる。()内は私の意見、感想。

1.夫婦二人は家族ではない。子供があって初めて家族という単位になる。夫婦二人きりは、堅結びではなく、蝶結び、植物でいえば、根ではなく茎。(子共が欲しくても出来ない夫婦には酷な表現)。

2.夫婦にとって必要なのは共通の目標をもつか、共通の敵をもつことだ。夫婦としての一体感がもてるなら、それが子供づくりであり、育児であり、それが夫婦間の連帯意識も、絆も深める。

3.男はセックスに関しては自分が主導権を握っていると思っているようだが、バカげた幻想。

 (とくに、もてる男は同じ女との付き合いが短期だから、現実には、女の体を知らない男が多い。むしろ、ある程度長期にわたって同じ女を大切にする男のほうが女の変化にも気づき、女体というものを理解している)。

 (女の体には大自然が途轍もない性的悦楽を与えているような気がする。でなけれれば、出産の苦しみ、毎月の「血の涙」に堪えられない。とはいえ、私の推測では、女の90%は女の真の喜びを知らずにいると思う。生活に追われる夫は、外では頑張っても、くつろぎの場所、家では頑張りたくないからだ。オーガズムの最高の状態を何度も、毎晩、求められたら、夫も参ってしまう。男はセックスに関するフルコースを妻にほどこすことはなく、それは決まって外部の女に対してである。もし、そうでない男がいるとしたら、ひどく下手か、あるいは逆に、いわゆる「一穴主義」で、百パーセントのエネルギーを妻に注ぐ、稀な例であり、それはそれで悪くはないが、一人前の男というイメージからは遠い)。

4.夜景の美しい高層の部屋だから、セックスになる。 見慣れた天井や、取りこんだ洗濯物が山になっている部屋で行うのは食事や睡眠と同じラインに並んでしまう。生活とセックスを同じレベルで扱わなければならない毎日は人を鈍感にする。生活というものがセックスから新鮮味を奪ってしまうからだ。くつろげる場所と発情する場所が同じなんて、落ち着かない。生活そのものは手ごわいものだから。

 生活がオスとメスを去勢し、オスとメスの関係がいつのまにか消してしまう。その方が生活に適しているからだ。

5.男は好きだった女と肉体関係をもったとたん、憑物が落ちたみたいに、どうでもよくなり、顔も見たくなくなるくらい、うっとうしくなってしまう。そういう確率の方が世の中では高いのではないか。(この著者は男が解っている)。

6.女が頭のなかを空っぽにできるのはベッドの上でオーガズムを追っているときだけ。

7.きちんと役割を全うしたペニスは、萎えていても、どこか堂々としているが、役目を果たせなかったペニスは貧相で、しょぼくれている。

 (作者にはしょぼくれたペニスを見た経験がありそうだが、射精しなくとも、勃起さえ可能なら、かえってその方が女を何度も頂点に昇らせることができ、女にとっては喜ばしいのではないか。勃起不全の男だって、舌や指を上手に使い、女をオーガズムに導くことは出来る)。

8.リタイアを強いられ、社会的地位を失った男の顔からは精彩も、意欲も、執着心も失せ、穏やかというよりは勢いというものが消失している。

 (しかし、趣味があり、学問への尽きない興味があり、とにかくやりたいことのある人は、たとえ肩書き付きの名詞がなくてもきちんと生きていけるし、現にそういう男はごまんと存在する)。

9.生活を共にすることで絆が深まる。

 (本当だろうか? むしろ、生活が一番大切な絆を蝕むのではないか。そうでなければ、毎年、右肩上がりに増えていく、おびただしい離婚件数を説明できない。二人でいることの煩わしさに比べ、孤独の方がましだからではないか。裏腹だが、結婚相談所を訪れ、大枚をはたいて会員になる人も少なくない。男と女が手を繋いで歩いている姿を見ると、自分もあのような相手が欲しいと思うのも、何度も失敗しながらも、男女ともにもつ心理ではないだろうか)。

 解説のなかに「Determination Difficulty Disorder」(決断困難症)という言葉が出てくる。自由な態勢にあることは選択の継続を必然とする。自由すぎて、選択に困難を感ずるようになると、「DDD」(3D)になるというのだ。

 (とすれば、決断力のある人とない人とのカップルならうまくいくのではないか)。


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