アレキサンダー/オリバー・ストーン、クリストファー・カイル、ラエタ・カログリディス脚本

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「アレキサンダー」
オリバー・ストーン、クリストファー・カイル、ラエタ・カログリディス脚本
鎌田三平翻訳  竹書房文庫  2007年2月初版

 

 日本語ではアレキサンダー、英語読みだとアレグザンダー、現地読みならアレクサンドロス、いずれにしても世界に名の知れた軍事的天才で、紀元前4世紀の段階でマケドニアの若い王がギリシャの各都市国家連合を、次いでエジプトを、さらに当時の世界の中心的存在であるペルシャを、そして、北は現在のウズベキスタン、東はインドまで遠征し、支配下におさめた政治的手腕、戦略家としての才能、軍事的能力、いずれの点でも比類のない英雄であったことは確かだろう。

 とはいえ、アレキサンダーに関する文献や資料などは残っていない。映画になった内容が真実にどこまで迫っているかというより、映画の節々から、あるいは本書から、読み手それぞれが勝手に、自由に、アレキサンダーを思い描くほかはない。

 プロローグは王者の死の床から始まる、紀元前323年6月のこと。王の死をみとった一人、プトレマイオスはアレキサンダーの死後、ファラオが代々治世したエジプトを得、この地に君臨、後にクレオパトラがこの王朝に誕生するが、本書でも映画どおり語り部としての役。

 アレクサンドリア市はアレキサンダーの名にちなんで構築させ、灯台があり、市場があり、大図書館が建設されたが、600年後にはローマ帝国によって焼き払われる運命。

 アレキサンダーが築いた大帝国はわずか40年で崩壊した。歴史からはまるで奇跡のような国であり、かつ人間であったという気がする。

 父王が子共のために呼んだ教師の一人がアリストテレスだが、彼が広げてみせた世界地図の中心を占めるのは広大なペルシャ。東はインド、西端はケルト(イギリス?)、南はエジプト、リビアまでしかなく、この時期ギリシャという国は存在せず、アテナイ(アテネ)、スパルタ、テーパイという都市国家があっただけだが、アレキサンダーの生まれたマケドニアは既に統一された帝国であった。アリストテレスはインドの東の海はナイル川に繋がり、従って、地中海にも繋がっていると考えていたらしい。

 この時代に文明世界と考えられていたのは、ギリシャ、小アジア、バビロニア、メソポタミア、ペルシャ、エジプトだけ。(彼らは中国の黄河文明を知らなかった)。トロイはすでに900年も前に滅亡している。日本に至っては、縄文、弥生の前の石器時代だったかも知れない。

 ありもしない神々や化身や霊や冥府を想定しては、人生の苦悶、悲惨を想像し、畏怖と畏敬に心を打たれ、怯えながらも、一方では領土欲と黄金や宝石への欲と、色欲、英雄欲に駆られ、戦争を仕掛け、歴史を血塗られた殺戮の記録にする人類の業は、アレキサンダーの時代と、地下資源を巡って争う現代とにそう差があるとは思えない。

 マケドニアがギリシャの都市国家の連合軍を屈服させ、前285年父王は暗殺され、アレキサンダーが20歳の若さで新しい支配者になった。21歳時、4万人の精鋭を率い、アジアに攻め入った。ダラニコスの戦い、イッソスの戦い、2年で2度にわたりペルシャを破った。さらに、2年の包囲網の末にフェニキアの貿易都市チュロスを陥落させ、24歳時にはエジプトを治め、地中海を含め西アジアのすべてを屈服させた。

 前331年、東アジアを本格的に進攻、対するはペルシャの大王、ダレイオス3世が率いるペルシャ、メディア、エジプトの一部、バクトリア、スキタイ、インドから成る混成軍トータル25万、アレキサンダー側は4万。戦力差は前代未聞、マケドニアに勝目のない戦になると世界は見ていた。

 映画でも、この撮影に最も力を入れていたように記憶している。鳥が空から俯瞰しているような撮影が印象的だった。ただ、映画で見せるほど馬の数が当時揃えられたかについては疑問がある。

 「ガウガメラの戦場、ダレイオス王は自軍を見棄て、身を危険にさらすことなく逃亡。それを知ったペルシャの混成軍はたちまちなだれを打つように敗勢となった。ペルシャ軍の死者は一説によれば10万を越え、マケドニア軍は馬が1千頭死んだが、兵士の戦死者は150人と伝えられているが、これも嘘くさい。

 バビロニアはすでに1000年を越す繁栄を誇っていたが、当時ペルシャ帝国の支配を受けていたため、アレキサンダーは解放者として受け容れられた。メソポタミアでは、ユーフラテス河から複雑なポンプ装置を考案し、水を高い位置まで汲みあげていた。かつて師であるアリストテレスがバビロンは野蛮だと言っていたのは間違いであることをみずから知った。

 パクトリア平定後、オクシュアルテスとは同盟、ここでアレキサンダーはその娘、ロクサネに出遭い、気に入って妻とした。マケドニア人はマケドニア人と結婚することが当然と考えられていた時代、将軍らの信頼を失う羽目に陥る。だとしたら、アレキサンダーは人心掌握の老獪さに欠けていたというほかはない。

 アレキサンダーが実際にインドに進攻してみると、「太陽が生まれる国」は悲惨な地獄だった。それまで、バビロンのネブカドネザルも、ペルシャのキュロスもインドは征服することのできなかった土地である。

 熱帯雨林のジャングル地帯にはモンスーン期になると雨が降り続き、雷が落ち、地面はどろどろでヒルや毒蛇がうようよするし、未知の病気にかかる兵士も続出。軍の士気は行軍とともに低下した。インド遠征は疲労を呼び、王への信頼を失い、精神をきしませた。(モンゴルのチンギス・カーンが14世紀に東欧まで支配下に置いたときも、インドを南下しての侵略は放棄している)。

 前326年春、帰国宣言したものの、インドからゲドロシア砂漠を横切って西に向かうコースは灼熱の砂漠での自殺行為、60日を越える行軍中に命を落とした数は遠征中の戦いのとき以上に多かったといわれる。

 バビロンに戻ったアレキサンダーはペルシャのダレイオス王の娘、スタテイラを第二夫人としたが、長期におよぶ戦が祟って、肺炎にかかり、体には9箇所に傷を負っており、32歳という若さで逝去した。

 死後、帝国は四十年間戦争が続き、プトレマイオスがエジプトを、カッサンドロスがギリシャを、クラケロスとアンティゴノスは西アジアを、セレウコスとペルディックカスは東アジアをと、将軍らは支配地を四つに分割統治した。そして、数年後にはローマ帝国の台頭によって世界の勢力図は再び大きく変わる。

 カッサンドロスは、アレキサンダーの母親を処刑し、その後、第一夫人だったロクサネと13歳になる息子を毒殺し、アレキサンダーの血筋を絶えさせた。ロクサネは第二夫人のペルシャの娘、スタティラを毒を盛って殺したと言われる。

 アレキサンダーは「人種の融合」「文化の調和」としきりに口にしたが、実際には人々を次ぎから次へと支配したに過ぎない。夢想家は人を滅ぼす。アレキサンダーの悲劇は部下たちに理解されず、孤立していった。(失敗したとはいえ、「異民族との融和」とはなんと壮大な夢だろう。現実的にそれを成し遂げた者は未だこの世に存在しない)。

 アレキサンダーが通過した土地にヘレニズム文明が残されたことは史実である。

 正直な感想としては、本書に感動するとか、感銘を受けるとか、そういう内容ではなかった。2004年12月13日に本ブログに書評した「炎の門」という、スパルタを扱った本の方が強烈な印象として残っている。また、その本も映画化されている。


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