死刑のすべて/坂本敏夫著

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死刑のすべて

「死刑のすべて」 副題:元刑務管が明かす 坂本敏夫著
2003年単行本初出
文春文庫 2006年5月文庫化初版

 日本の裁判制度、拘置期間いずれも驚嘆に値するほど長い時間がかかり、なおかつ、死刑と決まった囚人が20年も30年も拘置所で暮らすことも少くないという、いずれにも時間をかけすぎている事実は等閑視できない問題だとの指摘には納得できる。(その間の食事代、衣料代、居住空間、ときには医療費まで、税金で負担するのだったら、囚人が死刑囚の場合、さっさと中国なみに死刑を執行すべきだと私も思う)。

 拘置期間は、外部との接触は特定の面会者に限られ、テレビなどの報道からはシャットアウトされるばかりか、報道を視聴する機会すら与えられないため、世間やメディアが極悪非道の犯罪を冒した人間に対し、どのような印象なり、コメントをもっているかについては知ることがまったくない。いわんや、被害者の遺族の声からも遠いところに居続ける。そういう状態が、死刑の確定した囚人をして、安穏な、まるで自宅でくつろいているような感じを抱かせ、罪悪感そのものが希薄になるという話には、なるほどと思わせるのと同時に、怒りを抑えきれない。

 本日も、テレビ報道で、5年以上前に起こったイギリス女性の殺害に対する裁判が確定したようだが、この年月、犯人の食生活から生活に必要な費用は国民の血と汗の結晶、税金から支払われていたのかと思うと、犯人に対するより、司法に関係する人間の頭の具合を疑いたくなる。しかも、死刑が確定したとはいえ、死刑が執行されるまでまだ長期間がかかり、そのコストも税金から支払われることになるわけだから、ふざけた話というばかりでなく、過剰な善意に驚嘆を覚える。

 しかも、このフィールドにも日本特有の官僚主義がはびこり、出世欲、保身術、癒着などを結果する。

 時間がかかることは、死刑廃止反対運動者にも時間を与えることになり、犯人がメディアによって有名になれば、刑務管の官舎(家族が共に居住している)ところまできて、メガホンで「おまえは人殺しだ。」と怒鳴り、子供には「おまえは人殺しの子だ」と告げ、家族は耐え難い思いをするという。

 要するに、中国のように、早い裁判、早い決定、早い執行があれば、そういうことは起こらない。人を殺した人間、死刑の確定した人間は人道の立場から人権まで保護される一方で、殺された人物の顔写真は映像として流されるという現実は変えるべきだ。人間は殺された、あるいは死んだ瞬間から人権を失うという考え方はだれがどういう発想で現実のものとしたのだろうか。

 日本の官僚が配慮するのは、あくまで「先進諸国並み」であって、実際、この著者も取材を受けたのは先進国のメディアだけで、刑務所を管轄する部署の人間らは発展途上国を含めた世界の刑務所を視察、調査したことがあるのだろうか。

 死刑廃止運動は西欧で盛んだが、日本がそれに追随する必要はないし、日本は日本独自の刑法を考えればよいのであって、もし死刑廃止運動とやらを許すのなら、被害者の遺族に限るべきだ。

 「もし、自分の可愛い子供や妻や恋人が無残な殺されかたをしたら」という観点からこの問題を考えてみればいい。人間として生きる以上、己がやったことの報いは受けてあたりまえではないか。

 最近では、日本の刑務官は殴ったり蹴ったりはご法度になっているから、外国人、ことに中国人犯罪者から舐めきられ、一日三食、3千カロリーのメシが食える刑務所暮らしをエンジョイしているのが現状。この事実が外国人の国内犯罪を助長していることに気づかないとしたら、それはバカというしかない。

 2006年3月の時点で、日本全国で死刑囚は82人いるそうだが、執行までにかかる時間は膨大、それにかかる費用も膨大。日本の官僚は国民の税金を使うことにかけては、今も昔も、まったく痛みを感じないらしい。死刑囚より、官僚の首をすげ替えるほうが先決問題だとすら思う。官僚を特徴づける最大の性癖は「前例のないことはやらない」ということで、そこには改善、改良の意思がまったくないことが垣間見える。

 そのうえ、著者によれば、日本の裁判官はエリートであり教養もあり、育ちもいいから、犯罪者のちょっとした芝居や心にもない涙にころっと騙され、量刑の軽減がしばしば行われるという。要するに、適正を欠いた裁判が往々にして行われるのが実態だと。

 だいたい、死刑を行う場所に聖マリアの絵があり、十字架にかけられたキリストの像があること自体、不可解きわまりない。日本人の何パーセントがキリスト教徒だというのだろうか。頭の具合がおかしいと思うのは私だけではないだろう。

 自分が他人に対しむごい仕打ちして殺しておきながら、拘置所で暮らすうちに、反省したとか、死にたくないとか、神に祈っているとか、殺した相手の冥福を祈るとか、勝手なことを言い出す。 反省したり再生したりすることで罪が許されるならば、この世に残酷、残忍な殺人行為は一層絶えないものになるだろうし、警察も不要になる。

 時間がかかることは、死刑囚と刑務管理官とのあいだに、人間的な交流も生まれ、心情的に可哀想だと思いはじめることもある。それを「刑務所の外にいる人間にわかるわけがない」というが、あたりまえのことで、われわれには本人が社会生活のなかでやった残酷な犯罪、といってもメディアを通じて伝えられた内容しか頭にないが、やったことの報いを早々に受けるべきだと考えるのは、バランス感覚というものだ。

 ただ、「裁判官が責任をもってやるべきことは、無罪か、有罪か、のニつを正確に判断すべきであって、名奉行の裁きなどは求められはいない」という作者の言葉には「ミスジャッジだけはするな」という意味がこめられて、納得できる。

 人間ほど性悪な生き物は人間以外にはいない。人間は人間同士殺し合いをするという珍奇動物であり、死刑制度は永遠に廃止されることはないだろう。死刑を廃止し、無期懲役に変えるとしたら、死刑廃止論者にそのコストを支払ってもらうべきで、国民の税金を使っては欲しくない。


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