ニューヨークの天使たち。/渡辺葉著

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にゅーよーくのてんしたち

「ニョーヨークの天使たち。」 渡辺葉著
著者:1995年からニューヨークで舞台女優、演出家として活躍しつつ、翻訳やエッセイを手かげる。途中で、西海岸のポートランドにも居住。
集英社文庫  2007年1月初版

 直前に、村上龍の男性的だが乾燥した文体に長時間にわたり接した直後だったためか、本書のいかにも優しい日本女性のもつ感性が異常にいとしく感じられた。

 作者が居住しているニューヨークにしても、一度移住したポートランドにしても、いずれも私にも縁が深く、時代的に落差は否めないものの、本書に登場するマンハッタンはもとより、クイーンズなどは親友のアパートや知人の家に頻繁に泊めてもらい、かつまたしきりに開かれるファミリーパーティにも参加させてもらったことを思い出す。

 親友のアパートの地下では日曜日ごとに洗濯物を運んでコインを機械に入れて洗濯し、乾燥するのを待ったものだ。

 ユダヤ教徒の集会の様子や怖いサブウェイ、当時は入るなと指示されていたセントラルパークを横目で見ながら、五番街でも、タイムズスクウェアーでも散歩したりウィンドーショッピングしたりした。また、劇場で「ヘアー」を観劇したときの驚愕、友人とともに入ったストリップバー、トップレスバー、ロックフェラープラザ、教会などなども、本書を読むうち、鮮明に記憶の底から蘇ってきた。また、市場に足を運んだとき、英語のエの字も知らないギリシャ人のお爺さんに出遭い、この都会の多様にして複雑な人種構成にも感慨一入(ひとしお)のものがった。

 また、西海岸のポートランドではCP(カナディアンパシフィック航空)に勤務、営業をしていた男性と親しく、しばしば彼のオフィスはもとより、彼のファミリー宅も訪問し、馳走にあずかった思い出もあり、この地域の特産であるビールのジョッキーを傾けあったひと時も忘れがたい。

 そうした経験が本書を読み進めながら記憶が沸騰するように蘇生してきただけでなく、この作家に勝手ながら限りない親近感と慕情に似たものを感じたのは、文章に主体性がしっかりある割合には嫌味もなく、気負いも、力みも、顕示欲もなく、むしろ一般の日本女性よりはるかに潤いに充ちた優しさと、初めての外国体験にたじろぐ姿はあっても、かといっていじけたところもなく、私にとって理想の女性を感じたことを告白せざるを得ない。

 私の知るニューヨーク長期滞在経験者に共通するのは、「どうだ?」といわんばかりの自己顕示欲や「中国人の領土がマンハッタンで毎年10センチずつ増えて、不快である」といった陳腐な発言の多いことで、この作者のエッセイには世界的に知れた大都会、摩天楼の都市に居住する人間のようには思えない点にも好意を感ずるし、と同時に、この作者があまりアメリカの歴史というものに知悉しているようには思えない点にも、少女のようなあどけなさを感ずる。

 ニューヨーク以外に居住するアメリカ人は「ニューヨークはアメリカではない」と言うし、他州から車でマンハッタンを訪れたアメリカ人は妙にオドオドしている。

 「つましい食事も、そこに気品と優雅が加わると、食事は単なる『消化』から『文化的、哲学的な営み』に変貌する」という下りも、また、「音は世界に満ちている。空気に織り込まれた隠喩のように」という下りも、淡々と、ゆったりと大都会の空気に同化し、複雑な人間関係にも応接している姿が見えてくる。

 本書を執筆中には9.11テロも起こっている。作者はテレビを持たぬため、飛行機がビルに衝突する場面はむしろ日本人の方が見る機会には恵まれただろうが、その当日を含め、人々の沈鬱な表情、あちこちの掲示板に張られた人探しの写真や伝言を凝視し、道往く人間が普段なら饒舌な会話を惜しまないのに、互いに言葉もなく、見つめあうだけという状況が、激しい言葉を使わずに、作品ににじみ出ているのも感銘深い。ただ、「大事件は3日以内はニュースだが、15日経ったら歴史だ」という言葉は初耳だった。

 作者が文中で名もないクルド人の詩を紹介している。「自由に生きるとは、愛するとは、考えるとは、死ぬとはーーーその泉に尋ねてごらん。その水のつぶやきのなかには、千の溜息と千の涙と千の日の出と千の希望があると」

 文章は決して巧緻だとは思わないが、作者の優しさと、その優しさが摩天楼の大都会と同居している事実が心の琴線に深々と響いてくる。

 さいごに、作者の言葉のなかから最も作者らしさを表現する言葉を贈る。

「この街、ニューヨークは空虚と容赦のない現実と夢の街。その煌(きらめ)きは摩天楼を彩るライティングではなく、この街を訪れる人々の幾千、幾億の夢なのではないだろうか」


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