事物はじまりの物語/吉村昭著

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事物はじまりの物語

「事物はじまりの物語」 吉村昭著
ちくまプリマー新書 2005年1月初版

 この著書が2005年に書かれたとすれば、作者が逝去する1年余前ということで、筆を置く直前の作品ではなかったかと推察する。

 著者は大きな歴史の流れから外れた小さな史実をほじくり、それぞれについてできるだけ資料、文献を集め、可能なかぎり現地を踏査し、会いたい人物には、相手が逝去しているか、断わられでもしない限り、あらゆる機会を面談に充て、庶民の目線で対象を凝視、史実に可能なかぎり近づいて小説を書いた人である。だから、私は彼の作品を小説というより、ノンフィクションに近い作品として接してきたし、その都度、僅かでない真実の匂いに接することができた。

 司馬遼太郎のように歴史の大舞台を、空から俯瞰するように見ながら(本人の言)、史実をねじまげて書き、そのうえ歴史家然としてテレビに出演して語った人物とは大きな相違があるが、私は吉村昭が好きである。

 本作品の内容ははっきりいって面白い。

1.人体解剖

 初の人体解剖は1754年、京都で天皇の侍医をしていた山脇東洋が所司代に願いを出し、医学に理解を示す所司代の許可を得たものの、刑人の遺体解剖は山脇東洋ではなく、獄舎の雑役夫が行い、東洋は傍にあって解剖を観察、克明に記録した。だから、日本で初の人体解剖をしたのは獄舎の雑役夫だったというのが正解だが、監察し、手記に残したのは山脇東洋というのが史実。

 その後、1771年、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが刑死人を自ら解剖し、それが後に「解体新書」として出版されたというのが真実。むろん、彼らの解剖への意欲を鼓舞したのはシーボルトが提供した「アナトミア」であっただろう。

 明治維新に至り、医学校の大槻俊斉が初めて一般人を対象にした解剖を提案、政府に嘆願書を出し、医学校の付属の梅毒患者を入院させる医療所で、死者が生前に承諾することと、解剖後は手厚く葬ることを条件に、許可を得た。最初の対象者は三十代の女性で、十代の折りに吉原遊郭に売られ、遊女をしていたときに梅毒を移され、重篤患者として入院していた。1869年、女性が死ぬと、多くの医師の見守るなか、大槻俊斉がメスを入れ、多くの臓器が採取された。これが篤志家による最初の解剖であった。

 以後、同院では自発的に死後解剖を願う患者が増え、1874年には来日していたドイツ人の解剖専門家、デーニッツが脚気で獄死した26歳の男性を日本の専門家が観察する前で解剖してみせ、解剖の仕方を教えつつ記録したのが日本固有の死亡率の高い脚気病の原因を探るためで、これが日本で最初の病理解剖であった。内部臓器の観察から病気の原因を探るという新たな段階はドイツ人専門家の手によって導かれたといっていい。

 1876年、高級官吏の妻、おいねが心臓肥大で死期の近いことを悟り、同病院に自分の死後、遺体を解剖することで心臓病の人の役に立ちたいとの申し出があり、再びデーニッツが解剖にあたり、心臓の肥大している形を日本の医師らに見せつつ説明を加えた。

2.スキー

 1695年に伝兵衛という日本人が乗船中に暴風雨に遭い、大阪からカムチャッカに漂着、捕えられ、奴隷としてこき使われていたが、コザック兵に保護され、その折にスキーを足につけたが、スキーに接した初の日本人。

3.石鹸

 番人小屋の五郎治という男が択捉島に来襲したロシア船に拉致されてシベリアに連行されたが、そこで現地ではメイラと呼称されている石鹸というものに初めて接した。1807年、五郎治は帰国を許され、シベリアで習い覚えた種痘法を初めて行なった。

 現在、いちじく浣腸が市販されているが、五郎治はシベリアで石鹸水を尻に入れて同じ効果をもつことを知り、日本に帰国後、石鹸というものを真似して製造したが、シベリア製品ほど良質のものは作れなかったものの、これがきっかけとなり、注射器を使い石鹸浣腸治療をほどこすようになり、戦後しばらくまでは踏襲されている。

 1869年、横浜に住む堤という男が西洋人から製法を教わり、さらに鯨油でつくった石鹸を熱湯で溶かしたあと冷水に浸し、田畑に撒くと、害虫の駆除に効果があることを認識。

 1887年、外国製品の石鹸に負けない品質のものを製造したのは長瀬という人物。この人が花王石鹸を企業化し、日本製の石鹸として販売を始めた。

4.牛肉

 咸臨丸でサンフランシスコに上陸、ワシントンDCにまで足を伸ばした岩倉具視や勝海舟をはじめとする派遣使節団にとって、各地で饗応を受けたものの、牛肉ステーキに塩、胡椒、辛子の調味料を添えられても、油の臭気に困惑、口にすることができなかったという。(戦後ですら、日本人は海外に出るとき、醤油をカバンに入れて出かけたもので、勝海舟らの困惑ぶりは想像がつく)。

 (明治期以降、ビフテキという名で、牛肉ステーキを食べさせるレストランができたが、繁盛する店は少なかったと思われる。当時、日本で四つ足動物の肉を抵抗なく口にすることができたのは、動物をハンティングしていた一部のマタギくらいであっただろう)。

5.アイスクリーム

 最初に口にしたのは沢太郎左衛門で、1862年にオランダに留学、その途次にバタビア(現、インドネシアの主都、ジャカルタ)に滞在した折りアイスクリームを味わい、「別して賞翫(しょうがん)」と語り、その美味を賞賛している。

6.傘

 日本では古来、油を塗った和紙を傘にし、柄(え)は竹だった。蛇の目(じゃのめ)傘は通常、女性が使った。

 洋傘は1854年にアメリカのペリーが持っていて使っていたのが絵になって残っている。骨には鯨骨が八本、放射状に組まれ、絹が張られていて、「コウモリ」に似ていた。そのことから、傘を「こうもり」と呼ぶ習慣もできた。

 咸臨丸でアメリカに同行した木村が一本の洋傘を買い求め、幕末の頃には武家も使いはじめ、明治に入ると、コウモリ傘の普及が始まり、一方で、イギリス人は浮世絵の影響か、和傘を輸入した。現在では、「こうもり傘」という言葉も使われず、単に「傘」あるいは「雨傘」と呼ぶようになっている。

7.国旗

 江戸時代の廻船に掲げられた幟(のぼり)、旗の船印から始まる。1673年には、米を運ぶ船には朱の丸(日の丸)の船印を立てることが幕府より下命。幕末に至り、外国の造船所に依頼してつくった大型の船には、外国船との識別を目的に日の丸を揚げるようになった。(海軍が好んで使った海軍旗は誰がデザインし、いつから公に認められ、いつから使うようになったのか)。

 明治の新政府は日の丸を国旗とすることに定め、1870年に布達。

8.幼稚園

 1873年、ドイツ(保育園を主体としていた)に留学していた和田収蔵が外国の幼稚園の存在を日本に紹介、日本にも保育所的な意味をもつ幼稚園を設け、労働婦人を援けようとの意志で実現を請願したが、政府はこれを拒否。

 1876年、教育関係者が外国視察を行い、その必要性を認識、東京女子師範学校内に設けたが、これが日本最初の幼稚園となった。とはいえ、ドイツとは異なり、保育所的な意図はなく、中流以上の幼児をあずかり、小学校に上がる前の教育をほどこすという施設にとどまった。

9.マッチ

 幕末、元金沢藩士の清水誠という人物が明治3年(1870年)にフランスに留学、明治7年(1874年)に創業し、輸入されていたマッチは姿を市場から消したものの、大量生産ができず、明治11年(1878年)に再びフランスに渡りマッチを発明したスウェーデンに足を伸ばし、大工場をもつ製造会社への視察を企てたが容易に許されず、そこで日本から来た工業視察員という名目で、ストックホルム銀行頭取から添え書きを入手、通訳を伴って再訪。日に百万トンを製造している機械の秘密を知得して帰国、自分の工場は視察中に全焼していたが、新会社を創立し、生産を開始、一時は成功をおさめたが、競争の激化に伴って倒産。(当時はパテントに関する国際協約のようなものはなかったのか、日本人も多くの製品を外国に視察に行っては技術を剽窃した)。

 そのマッチも、現今では、注文は広告マッチに絞られ、100円ライターの時代になった。

10.電話

 日本に電話が輸入されたのは1877年。1878年には2台、1879年には6台と模造品を製造。はじめは官公庁で使われ、民間で使われたのは明治22年(1889年)。日露戦争後、実業界でにわかに需要が急増、特権階級に限られた。(むろん、昔の映画で見たような、交換手に相手の電話番号を伝え、相当の時間、かかるまで待たされたというのが現実)。

 電話が庶民間に普及したのは昭和に入ってから、とくに戦後の疲弊が修復されたあとで、まず商業に携わる人間が優先された。(一般人は申し込んでから、電話が据えつけられるまで何年も待たされるのが通常だった)。

 現今のように携帯電話を誰もが持ち歩く世が来ようとは夢思わぬことだったろう。

 (ただ、日本の明治政府にツートン、ツートンのモールス信号ができるように海底ケーブルを上海とのあいだに張り、使い方を教えてくれたのはデンマーク人だといわれる)。

11.蚊取り線香

 香取線香は日本の発明であり、線香の原料は除虫菊で、明治20年(1987年)ごろに輸入されていて、当時は除虫菊を粉末にしてノミ退治に使われ、和歌山の上山英一郎が初めて香取線香を作り、製品化した。明治35年(1902年)には、妻の助言で長時間もつように渦巻き型の香取線香の製造を開始し、発売された。香取線香のことを英語では「Mosquito Coil」という。

12.胃カメラ

 胃カメラがオリンパス光学の開発によるものであることは常識。

 1955年に試作をくりかえした結果、第一号の完成をみたが、故障が続出。ために、時間をかけ、工夫に工夫を重ね、広く実用に供されるようになった。ファイバースコープの開発にも助けられ、フィルムをカセット式にし、ランプ光度を高め、肉片のカットも可能になり、カット跡の縫合までできるようになっているが、胃カメラのみならず、体内に器具を挿入して病原を調べる手法(大腸検査目的のカメラを含め)に関してはほぼ独占状態だが、このおかげで世界が助かっているといっていい。

13.万年筆

 1884年、アメリカのウォーターマンが製品化、1895年に丸善が輸入。万年筆の質が飛躍的に向上したのは戦後しばらくしてからで、スポイトでインクを入れるようなものは以後姿を消した。

 今はボールペン全盛の時代だが、原稿を書く作家にしても、一時はワープロで、昨今はパソコンで打つ時代。作者は死ぬまで、万年筆を使って原稿を書いたというが、私もかつては万年筆の愛好家だった。


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