世界の歴史がわかる本(古代四代文明~中世欧州篇)/綿引弘著(パート2)

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「世界の歴史がわかる本」 綿引弘著
副題:文明の発祥と民族の興亡、そして大帝国の盛衰

書評「パート2」 (前書評に次ぐ)

1.中国の歴史教科書には、考古学の世界で未だ確証のない、夏という国から、殷、周と続くことが記されているらしいが、殷そのものですら学会を納得させるに至ってはいないにも拘わらず、「夏」を歴史の筆頭にもってくる神経は、中国という国の自意識過剰さ、過剰な矜持、不透明な思考を窺わせるだけ。神話を史実として恬(てん)として愧じない神経も理解できない。

2.イスラム教は6世紀、マホメットによってイスラム圏に持ち込まれたものだが、90%を占めるスンニ派よりも

10%を占めるシーア派のほうが武力に頼る傾向が強く、シーア派が中心となって8世紀には北アフリカからイベリア半島(スペイン)に上陸、西ゴート帝国(西ローマ帝国を滅亡させた国)を滅ぼし、フランク王国にも侵入、東は西北インドにも勢力を伸ばし、「アラブ帝国」と称した。

3.アフリカ最初の王国は10世紀のガーナ。次がマリ王国で、11世紀にはガーナを征服。15世紀にソンガイ王国がニジェール川流域に成立したが、15世紀半ばにモロッコ軍が侵入、滅亡させ、20世紀にはジンバブエ共和国が設立。

4.アフリカ大陸から南北アメリカに奴隷として運ばれたアフリカ人は16世紀に90万人、17世紀に275万人、18世紀に700万人、19世紀に400万人、計1,465万人に及ぶ。(人類発祥の地から人類が売買の対象とされる商売がはじまろうとは)。

5.西暦800年、フランク王国(ドイツの一部を支配)のカール大帝はキリスト教世界の発展に協力したことで、ローマ皇帝から帝冠を授けられた。その後、カール大帝の3人の孫による争いがあり、結局、東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)、シャルルの西フランク王国、ロタールの子のイタリア王国の三国に分かれ、後のドイツ、フランス、イタリアの礎となった。

6.バイキングのノルマンディはイギリスを征服し、地中海でもシチリア王国を建て、ロシアにもノブゴロド王国やキエフ公国を建てた。1066年にはスウェーデン、ノルウェー、デンマークに王国をつくりあげ、コロンブスがアメリカを発見する前には、アイスランド経由、アメリカ北部に足跡を残している。また、アラブ世界との貿易を促進。

7.東ローマ帝国は西ローマが滅んだ後も、コンスタンチノーブル(現イスタンブール)に在って、外部から幾多の干渉を受けながらも、最後にトルコにより滅亡させられるまで1千年の長きに渡って存続し、東西、南北に文化的影響を与え続けた。

8.11世紀は欧州の大開発時代であり、技術革新と産業革命により、閉鎖的な社会に一大変革が起こり、活動的な時期に入る。と同時に、十字軍の編成を考え、南への侵略を意図しての連合を組む。初めの目的はエルサレムをトルコ帝国の支配下から解放することだったが、一時的に成功したのは第一回のエルサレム奪還だけで、第二回、第三回(イギリスの獅子王リチャードの指揮による)、第四回、第五回、第六回、第七回と連続して失敗、200年にわたる十字軍遠征は全面的に失敗に終わったが、皮肉なことに、この遠征が東西貿易を盛んにし、各地に多くの都市を生んだ。もとより、キリスト教文化が中近東に侵入するよりは、イスラム文化が南欧州に侵入するほうが多く、宗教上は欧州軍の完敗だった。

9.イギリス、フランス間の植民地争奪にかかわる第二次百年戦争は、1338年から1453年まで行なわれ、イギリスの羊牧業の輸入、毛織物工業はフランドル地方を中心に発展させたが、フランス王家はフランドル地方を独占的にその支配下に置こうとして、イギリスと対立。前半はイギリス有利に進み、フランスの北、南の大半を占領。この当時、イギリスの戦死者3人に対し、フランスは3千人。原因はフランスの騎士軍が旧弊に随していたためといわれる。1384年には偶然にも黒死病(ペスト)に襲われ、欧州人口の3分の1が失われたが、ここにジャンヌ・ダルクが登場、戦いは逆転し、フランス兵3人の死に対しイギリス兵の死が2千人に達したことで和平の機運が生まれ、平和条約が結ばれた。

 (ただし、ジャンヌ・ダルクは教会の不興を買い、処刑された)。

10.日本人の好きな中国の「三国志演戯」は小説であり、創作であり、史実ではない。この時代、庶民にとっては生き地獄のような日々だった。中国にはむかしから「傾城」とか「女禍」とかいう言葉があり、その代表に「則天武后」や「楊貴妃」が挙げられるが、前者は歴史が伝えるほどの悪女ではなかったし、楊貴妃は49歳だった玄宗の息子の嫁だったが、玄宗がその女に目をつけ、自分の女にしてしまった玄宗自身に問題があったと言うべきで、息子の妻を横取りする神経は孔子や孟子を出した国とは到底思えない。

 (逆に、世が乱れていたからこそ、偉人が世に排出と言う逆説も真ということだろう)。

11.13世紀頃の人口:パリ、ベネチア、ミラノが20万人、ロンドン、ケルンが4万人、中国の南宋の首都、臨安は150万人。

12.13世紀、モンゴルのチンギス・ハンはイラン高原から中央アジア一帯を支配していたトルコ系のホラズム帝国の使節に対する答礼として、400人と物資を満載した500頭のラクダから成る大商団を送ったところ、ホラズムの長官に皆殺しの目に遭わされ、これがきっかけとなって、チンギス・ハンの西アジアへの大遠征が開始された。

 1219年、20万のモンゴル軍を率い、ホラズム帝国に侵入、これを壊滅させ、次いでアフガニスタン、インダス川流域に入り、別働隊は南ロシアから、ウクライナ、クリミア半島まで征服。

 (欧州では、ホラズムのモンゴルへの対応が間違ったために、長期にわたり「タタールのくびき」に悩まされることとなった。また、今日でも、この地域に尻の青い幼児が生まれることは、モンゴロイドのDNAが、アルコールに弱いことを含め、現代にまで残っていることを示している)。

 モンゴル軍の征服は虐殺に次ぐ虐殺で、凄惨をきわめ、欧州人はアジアのフン族によるアッチア侵入以来、非常な恐怖心を抱いていたため、モンゴル軍の残忍さを多少誇張して記録されたきらいはあるものの、残虐行為は相当なものだった。サマルカンドでは、工匠以外の住民はすべて惨殺、ニシャプールでは生命あるもの悉く殺し尽くし、切り落とした首で男、女、子供別のピラミッドを築いたといわれる。アフガニスタンのバーミヤンでは、孫を殺されたことに怨念を肥大させ、大虐殺が行なわれ、いまでも、土を掘り起こすと人間の骨が幾らでも出るといわれる。

 (モンゴル軍の所作は総じて復讐という一点に絞られていた観が拭えない。欧州人がフン族を恐怖する背景には、ローマ帝国が滅亡したきっかけがフン族であり、フン族の西への動きがゲルマン民族を追いやることとなり、そのまま西ゴート族までも後方の恐怖から逃れる形をとり、そのままローマ帝国へ流れ込んで、帝国の壊滅に繋がったと見るべきであろう)。

 チンギス・ハンの息子のフビライ・ハンはチベットと中国を支配し、元朝を成立させ、他の係累はチャガイタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン国と分封支配した。このうち、ロシア、ウクライナを支配下においたキプチャク・ハン国が最長の存続をしたが、最終的には、ロシアの公国に破れ、滅亡した。

 元朝は日本へ二度来襲しているが、実は三度目の来襲計画があり、ベトナムへ大軍を送りながら、一方で、中国と高麗に大船3千艘の建造を強制、高麗には軍糧20万石を備えさせ、イスラム式の投石器を送り込み、軍隊には資金と甲冑、軍服を支給していた。一方、相次ぐ戦乱により、民衆は税負担に耐え切れず、惨状を見かねた吏部尚書の劉宣が日本遠征の中止を上奏し、フビライはこの計画の中止に同意したと伝えられる。

 (フビライはインドネシアへの遠征も行なったことがあるらしいが、それも失敗している。草原育ちは海を越えての遠征は苦手ではなかったのかと思われる。さらに、インドにも侵略していないのは、紀元前のアレクサンダー大王と同じで、雨季のインドの怖さに辟易したのではないかと憶測する)。

 (モンゴルは戦には強かったが、為政者として、多くの人間を治世するという点においてはやや稚拙というしかなく、優秀な中国人を雇用して、補佐させはしたが、田舎出身の武力一辺倒の人間に世界で最も人口の多い国を治める力はなかったと見るべきであろう)。


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