世界の歴史がわかる本(ルネッサンスと大航海時代~明、清帝国篇)/綿引弘著(パート4)

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「世界の歴史がわかる本」
ルネッサンス・大航海時代~明、清帝国篇
著者・綿引弘  三笠書房文庫  ¥533+税

書評「パート4」

 学んだことを列記する。なお、(   )内は私の意見。

1.イギリスは欧州で7年戦争が始まると、プロシアに資金を提供してフランスの主力を欧州内に釘付けにし、その間に、新大陸アメリカでの覇権を得るべく、現地でインディアンと結託、敵対していたフランス駐留軍を東から西へと追いつめ、駆逐、勝利した。この戦で、アメリカ側の指揮を担当したのは米国初代大統領となるジョージ・ワシントンだった。

 イギリスは抵抗勢力のあったインドの東の首都、カルカッタを奪還し、ベンガルを支配下に置き、インド支配を確実なものにした。l757年から1765年の間、イギリスはベンガルの国庫から526万ポンド相当の財産を奪い、東インド会社に取引の独占、価格統制、徴税権を与え、搾取に次ぐ搾取を重ね、結果、ベンガル住民の3分の1が1年間に死亡。インド産の世界最大のダイヤモンドがイギリスのヴィクトリア女王の王冠を飾りもした。

 植民地争奪戦で、イギリスが不動の地位を獲得し、一方のフランスが敗北したのは、偏に母国の事情の差異に原因があった。フランスが母国王朝の権威に固執したのに比べ、イギリスは市民革命を経て、産業の発展を阻害する政治的、経済的な状況がフランスの実態を大きく凌ぎ、資本の蓄積に大きな差があった。また、イギリスは人材を徹底的に使ったのに対し、フランスは国王の嗜好が優先され、人事に適切を欠いた。

 敗れたフランスは財政難に陥り、打開策を国民への重税に求めたため、こうした状況への国民の不満が、やがては、1789年のフランス革命へと繋がっていく素地となる。

 インドに継ぎ、アメリカ、カナダ、さらには豪州がイギリスの支配下に入ったことで、イギリスの母国語、英語が国際語として通用するようにもなった。

 イギリスは、一方で、隣国であるアイルランドに厳しい植民地支配を行い、アイルランド人は激しく抵抗、日用品をイギリス人には売らない、渡さないといった非暴力的な抵抗も行い、イギリス側を困惑させもした。とはいえ、アイルランドの土地のほとんどはイギリス貴族の所有となり、税は呵責なく徴収された。アイルランドとの確執は約定の存在にも拘わらず、つい最近までテロという形で時折り北アイルランドで火を噴いていた。

 (英国人がオランダ人を蔑視した証拠として、かつて本ブログで「Dutch Account」「Dutch Wife」を紹介したことがあるが、本書から「Dutch Uncle」(がみがみオヤジ)、「Dutch Courage」(酒の勢いでつけた元気、空威張り)、「Dutch Comfort」(ありがたくない慰め)、「That beats the Dutch」(それは驚いた」などを知った)。

 18世紀後半には、産業革命が起こり、豊富な石炭を燃料に使うことができ、鉄道の敷設、自動車の発明、自動車道路にアスファルト、コンクリートを使って舗装する枝術を学び、世界を狭いものにした。

 イギリスで生まれたスポーツは少なくないが、基本的には貴族を中心とする経済的に余裕のある人々のためのものだった。ラグビー、サッカー、レガッタ(競艇)、テニス、バトミントン、ピンポン、ホッケー、クリケット、競馬、障害物競走などなど。

2.アメリカは1976年に独立200周年を迎えたが、200年のあいだに、合衆国を構成する州は13州から50州に、人口は300万人から2億人に達し、世界の大国に成長。

 1620年、ヴァージニアに初めてメイフラワー号で移住してきたピューリタン、102名は、翌年の春を迎える頃、半数以上が寒さと壊血病で死亡している。

 アメリカに初めて黒人奴隷が送りこまれたのが1619年、独立宣言が1777年だが、アメリカの言う「多民族国家」とは、白人の移住者を意味するもので、人種による階級的意識はむしろ強化された。自由平等を旗印に行なわれた独立戦争も、国内のインディアンと黒人奴隷の抑圧のうちに行なわれた。

 (奴隷売買に関しては、イギリスもリヴァプール港を中心に船舶による運送や売買に携わり、膨大な利益を上げている。インディアン(アメリンド)と黒人(ニグロイド)は人間としては扱わなかった)。

 独立宣言後、アメリカは連邦制度を採用したが、もともと州単位が国であったことが理由で、国としての法律のほかに、個々の州法を認めるという変則がアメリカの常識となった。軍隊制度も、国軍と州兵の二本柱になっている。

 アメリカは独立後、ミシシッピー以東の広大な土地をイギリスから1783年にパリ会議で獲得、1803年にはナポレオンからフランス領だったルイジアナ州を、1819年にはスペインからフロリダ州を買収。

 1861年に南北戦争勃発。リンカーンの「奴隷解放宣言」は言葉だけで、リンカーンの本音はアメリカが南北に分裂することを恐れたことにあった。ために、戦後も、黒人は数々の制約のために市民権を獲得することはできなかった。むしろ、安い労賃を利用され、1880年~1890年の10年間に総距離26万2千キロという鉄道の敷設に駆り出され、さらに中国人の移民がこれに加わった。

 (リンカーンに関する我々が持っている人物イメージは真実とはだいぶ違う)。

 アメリカはイギリスと組み、中国人を拉致して、外国に売る「苦力(クーリー)貿易」を行なった。ために、鉄道工夫の5人のうち4人までが中国人になった。

 1870年には、カリフォルニアの人口のうち、中国人が10%を占め、1873年の経済恐慌時には、失業不安におびえた白人労働者が中国人炭工夫を大量虐殺し、アメリカ政府は1882年、中国人の移民を20年間禁止した。

 中国人に代わって入植したのが日本人で、残っていた辺鄙なエリアでの鉄道敷設事業に参加させられたが、1905年になると、白人らの目に日本人の無口で黙々と働く姿勢が異様に映り、日本人排斥運動が展開された。米政府は日系人のハワイから本土への転航禁止を決め、日本政府には移民の自主規制を認めさせた。また、日本人の土地所有権はもとより、借地権も禁止された。

 1942年には、太平洋戦争のからみで、「日本人強制立ち退き」令により11万2千人が砂漠の強制収容所に送り込まれたが、これはインディアンを居留地に追い込んだ前例より監視が厳しく、周囲は有刺鉄線で囲まれた。

 (本件については、後日、アメリカ政府は日系人に対し正式に謝罪した)。

3.フランスでは1793年の革命で、ルイ14世とマリー・アントワネットがともに処刑されたが、革命自体は庶民ではなくブルジュア階級の力によるもので、革命後、革命そのものの華々しさとは別に、庶民の生活が楽になったというほどのものではなかった。 

 だからこそ、1799年にナポレオンが大統領政府を樹立したことが歓迎された。ナポレオンは1806年には欧州大陸のほとんどすべてを制圧、1812年にロシア遠征で失敗するまで、6年間にトータル40回の戦いに連戦連勝したが、解放者として登場しながら、支配を確立した後は独裁者、抑圧者に変質、諸国はもとより、庶民から反感を買った。

 (連戦連勝とはいうが、トラファルガー沖でのイギリスとの海戦では、イギリスのネルソン提督に負けている)。

 革命後、パリに臨時政府ができ、国旗を三色旗に決めたのは1848年。

4.ベルギーという国は旧オーストリアのネーデルランドだったが、1815年のウィーン条約でオランダに併呑され、1831年のロンドン会議で、「永世中立国」として独立を承認された。

5.ロシアは1480年、イワン3世のとき、モンゴルのキプチャック・ハン国の支配から脱し、正式に「ツアー」の称号を唱え、1581年にはモンゴル系のシビル・ハン国を破り、領土の拡張に成功。なお、シビル・ハン国の「シビル」は「シベリア」の語源となった。次代を継いだイワン4世は「雷帝」と呼ばれた。

 イワン4世没後の1613年、ミハイル・ロマノフが中小貴族に支持され、ロマノフ朝を開き、農奴制を強化。農奴は所有者貴族の私物となり、禁足令があり、家畜と同然の扱いをされた。トランプギャンブルで賭けの対象にされたり、家畜と交換されもしたが、ロマノフ朝は1917年まで続く。

 17世紀末、ピョートル1世のとき、絶対主義が確立、中央集権を強化し、1703年にネバ河にサンクトペテルブルクを建設。1700年から1721年までのあいだ、デンマーク、ポーランドと同盟、当時の大国スウェーデンと開戦。1721年、二スタット条約でバルト海沿岸に領土を拡げ、港を得た。

 (日露戦争時のバルチック艦隊はこの港から出航した)。

 エカテリーナ2世は二度トルコと戦い、黒海沿岸とクリミア半島を奪取、東方では千島、アラスカを占領、1792年には江戸幕府に通商を求めた。

 ニコライ1世の時代、1853年に勃発したクリミア戦争では、イギリスとフランスがトルコを支援、1856年にロシアの敗北で終結。産業革命を経た国と未経験の国とのあいだには、兵器、技術に優劣の差があり、国力に大きな開きがあった。

 なお、このときの戦争時、ナイチンゲールが看護婦として働き、ロシアの一兵卒だったのがトルストイである。ニコライ1世は戦が終わる前に突然死している。

 (トルコへの賠償金の支払いに難渋したロシアはアラスカをアメリカに売却して、補った。買った米国大統領は国民から馬鹿者呼ばわりされたが、東西冷戦を迎えた時代に入って、評価は180度変化した)。

 1861年、アレクサンドル2世は「農奴解放令」を発し、ようやく資本主義的発展の道を切り開いた。

6.ポーランドは1386年、リトアニアと合同、強大なヤゲロー朝を成立させ、15世紀にはハンガリーとも連合王国をつくり、中東部欧州に威容を誇った。

 ところが、1572年、ロシアのエカテリーナ2世が進出、それを見たプロシアとオーストリアが連合して、ポーランドに侵入。国土の一部が三国の干渉により、三つに分割、割譲された。1793年には、プロシアがフランスともめているのを見計らい、ロシアは再びポーランドに侵入し、割譲を迫り、二回目の分割となる。さらに、1795年、三国によって三回目の圧力が加えられ、分割が強行されたため、ポーランドという国は世界地図から消えた。

 (この分割により、迫害を逃れてポーランドに居住していた多くのユダヤ人がロシア国内に初めて入ることになり、共産主義革命への道を歩むことになる。ロシアは自ら墓穴を掘ったといっていい。ただし、スターリンの時代、多くのユダヤ人が殺害されている)。

 1991年、ロシア革命と第一次大戦後にポーランド解放が実現したが、第二次大戦後は、ソ連型の社会主義国家として、ソ連邦に組み込まれ、国家としての自由は圧殺された。ポーランドが現在の状態に復したのは東西冷戦後、ベルリンの壁が崩壊されてからである。

7.14世紀末、アジアのインドの北部にモンゴル系、チャガイタイ・ハン国が東西に分裂、小部族の出身者、チムールがイスラム化したトルコ人を率いて挙兵、サマルカンドに都して、チムール帝国を樹立。以後、周辺国に侵入、領土を拡張。1402年にはオスマン・トルコをアンゴラの戦いで破り、一代のうちに西アジアの大部分を支配する帝国を築いた。その後、フビライ・カーンが治めていた元を倒した明帝国を討とうと、20万の大軍を集めて出発したが、遠征の途次に病没。

 息子のシャー・ルクは中国、トルコとも親交を結び、平和の維持に努めた。チムール帝国の文化は、トルコ的要素をもつイラン・イスラム文化といっていい。

 チムール帝国は1500年にウズベク人によって滅ぼされ、1502年にはイラン民族のサファビー朝が勃興、シーア派を国教としたため、スンニ派のオスマン・トルコとの争いが絶えなかった。

 サファビー朝は18世紀初頭、アフガン人によって滅ぼされ、その後、短命な王朝が交代した後、ガジャール朝が成立したものの、イギリス、ロシアの干渉を受ける。

8.トルコはチムールの滅亡後、息を吹き返し、勢力を回復。再びバルカン半島の支配権を確立、さらに黒海周辺国を保護下に置き、国内に取り残されたビザンツ帝国の攻略に着手。

 1452年から、メフィスト2世はコンスタンチノーブル(東ローマ帝国)の攻略に乗り出す。同年中に、攻略に成功、トルコ風に、ここをイスタンブールと改名し、トルコの首都とした。

 16世紀初頭には、トルコは黒海の北部、クリミア・ハン国を保護下におき、サファビー朝を攻撃して、メソポタミアを奪取、シリア、エジプトに進出、1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼした。さらに、スレイマン1世のとき、新たにハンガリーの大半と北アフリカに領土を拡げ、帝国の最盛期を現出。

 1529年には、地中海でスペイン、ローマ教皇の連合艦隊を破って、地中海の制海権を握り、これに勢いを得て、アフリカのスーダン、エチオピアにも進出、黄金時代を築き、世界で最も実力ある皇帝はスレイマン1世とみなされ、「壮麗王」との呼称が贈られた。

9.16世紀、中央アジアのトルコ、モンゴル系の部族がチムールの子孫と称するバーブルに率いられ、アフガニスタンに進出、さらにインド北部に進入を開始、1528年にロディ朝を破り、デリーを占領して、ムガール帝国を建設。(ムガールはモンゴルの訛った言葉)

 第三代のアクバル帝のとき、ヒンドゥー教徒のラージプート族を平定し、北部アフガニスタンから南はビンジャ山地までを統一。この帝国が強大化した最大の理由はイスラムとヒンドゥーの融和政策にあった。

 アクバルはデリーを支配したとき、そこに在った最古のイスラム寺院のほか、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、併せて27の寺院を破壊し、それらの石材を利用してモスクを建設、高さ73メートルの「アクバルの塔」を勝利記念に建てた。

 ムガール帝国の第三代アクバルは、デリーの南にあるヒンドゥー教のカッチャワ王国の娘を妃に迎え、ヒンドゥー、イスラム両教徒の和解の範を示した。これを足がかりに、インドのイスラム化に頑強に抵抗していたメワール王国のチトール要塞を1567年に攻撃して、落城させ、周辺の諸王国を次々に征服。

 ムガール帝国の最盛期は第三代アクバルから孫の第五代シャー・ジャハンまでの1世紀にわたる。第三子のシャー・ジャハンは帝位をめぐり、兄と激しく争い、これを殺し、1627年に父が死亡すると、弟をも殺して帝位についた。

 ジャハンはペルシャ系の絶世の美女、ムムタース・マハルを妃とし、19年間に14人の子をなしたが、14人目の子を生んだ直後に妃は39歳で死去。王は国庫から莫大な資金を支出、常時2万人という職人や労務者を使い、22年間の歳月をかけて、タージ・マハル廟を建設。ときに1653年。

 第三子のアウランゼーブは帝をアグラ城に監禁、他の兄弟を殺害して帝位につく。ムガール帝国の富は農民への過酷な税負担の強制によって築かれていた。

 アウランゼーブは第六代皇帝となり、これまでのヒンドゥー教との融和政策の継続をやめ、ヒンドゥー教徒を圧迫、ヒンドゥー寺院を破壊し、次々にイスラム寺院に建て替えるという横暴のために、インド各地に反対勢力が台頭、帝国は次第に弱体化。

 このような時期に、イギリス、フランスの勢力が貿易を求めて、インドに進出してきた。

 「パート5」に続く。


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