世界の歴史がわかる本(帝国主義時代~現代篇)/綿引弘著(パート6)

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「世界の歴史がわかる本」 帝国主義時代~現代篇  綿引弘著
副題:めまぐるしく変わる近、現代の「歴史地図」 三笠書房刊

本書三冊目 書評パート6

 1.阿片戦争と列強の中国(清朝)干渉

1)イギリスはシルクや陶磁器で、対中国貿易は輸入超過だった。これを相殺する目的でインドで栽培させた阿片を、1781年から清朝に輸出を開始。1830年半ばになると、中国人200万人が吸引するようになり、多くが廃人と化した。

 (英国は江戸時代、オランダと競い、日本に羊毛から作った布生地を輸出しようと持ち込んだことがあるが、日本人から関心を得ることができず、日本との接触をあきらめた経緯がある。おそらく、中国人も羊毛生地には興味を覚えなかったため、英国は上記のような酷薄な手段に出たのであろう)。

2)清朝政府はさすがに阿片の取り締まりに出たが、イギリス商人らは本国政府に開戦を準備するよう要求。1842年、イギリス政府はこれに応えて開戦、清朝の敗北で終結となったが、日本の明治政府も経験した不平等条約に清朝もサインを強いられ、阿片の国内流入はさらに増加、各都市は阿片屈だらけになり、中国は半殖民地化状態に陥った。

3)1856年、イギリス船、アロー号で清の役人が容疑者を逮捕する事件が起こり、イギリスはこれを口実とし、フランスも宣教師が殺害されたことを理由に、連合し、清朝への干渉をさらに加えた。1860年、ロシアの仲介で、天津条約を結び、新たにイギリスに九竜(カオルン)を割譲。ロシアは対トルコ・クリミア戦争に負けたあと、専ら東方への進出に政策転換しており、この機会を利用、1858年には黒龍河(アムール河)以北とウラジオストックを含む沿海州を清に割譲させ、現在に至るも、返還はしていない。

 2.インド

1)インドでは、1857年に「セポイの乱」が起こった。イギリスは当時インドを軸にネパール、アフガニスタン、ビルマに触手を伸ばし、1819年にはシンガポールを、1824年にはマラッカを獲得、マレー半島の王侯、族長らを威嚇、保護領とし、1895年マレーと連邦を形成、ボルネオ島を植民地とした。マレー半島のゴムと錫の産出はイギリスに莫大な利益をもたらした。

 (後々、この地域の国境を決めるにあたり、イギリスはフランスと結託、マレーシアを海を挟んで分けてしまうなど、いい加減な線引きをしたが、同じことはアフリカでも、中近東でも行なっている)。

 3.イタリア王国の統一

1)イタリアは中世以来、教皇領、自治都市領などに分裂し、国家的統一が欠落していた。北イタリアもオーストリア帝国の支配下にあり、南部にはナポリ王国、西部にはサルジニア王国などが散在していた。

2)1861年に至り、石炭、鉄鋼など地下資源に恵まれたサルジニア王国がイタリアをまとめ、イタリア王国の成立を宣言、1780年にはベネチアを併呑し、周辺の教皇領も併合して、一つの国家としての体裁を整えた。ただ、イタリアの独立はプロシア、フランスの後押しで達成されたため、その後、これらの周辺国の影響を受けざるを得なかった。

 4.プロシアからドイツへ

1)プロシアの王権は武力統一路線にあり、鉄血宰相と呼ばれたビスマルクが、その王権を利用しつつ、強行路線を推し進めた。

2)プロシアは1866年ドイツ統一の主導権を争うオーストリアと戦い、これを破った。翌年の講和条約で、オーストリア帝国はドイツ連邦を脱退し、以後、ドイツに干渉しないことを約した。

3)間もなく、プロシアはフランスのナポレオン3世と開戦。プロシア軍はクルップ製の長距離、巨砲を使い、難攻不落といわれた要塞を次々に粉砕、1871年、ウィルヘルム1世が皇帝に即位、ドイツ帝国は正式に認められ、列強の一国として国際舞台に登場することになった。

4)ビスマルクはカトリックとの妥協を探り、ドイツ統一を達成させたが、1888年に即位したウィルヘルム2世と社会主義に関する政策をめぐって意見対立し、1890年に辞任。この頃、重工業の発展はイギリスの地位を脅かすレベルに達していたため、両国の関係も先鋭化。

5)植民地争奪戦で後発のドイツは1880年に西南アフリカのカメルーン、トーゴ、東アフリカを領有したが、エルトリアはイタリア、モロッコはフランス、ソマりランドはイギリス、トリポリは英仏で分割して奪われていた。アフリカ大陸はこうしてエチオピアとリベリア共和国を除いて、列強により分割、分断された。

 5.帝国主義の勃興と金融資本の海外進出

1)世界は1870年以降、帝国主義時代に入った。利潤を追求するために激しい自由競争を展開したが、有利に進めるためには何よりも優れた生産技術を必要とし、それを生み出す資本を必要とした。結果、カルテル、トラスト、コンツェルンなどの形態をとる巨大独占資本が形成され、かつ産業を支配する巨大な金融機関が台頭し、海外に有利な投資先を求めて進出。

2)利潤追求の最も簡便な方法が植民地の拡大であり、植民地争奪戦に勝ち、現地の民族運動や労働運動に対処するために強大な軍事力を保持する必要にもせまられた。大航海時代から始まった植民地発見、支配が次第に軍国主義的傾向を帯びるようにならざる得なかった。

3)この時代の「帝国主義」は帝国主義的団結であり、イギリスの植民地膨張政策が代表的な目標になった。

 6.イギリスのその後

1)1874年、インドへの通路としてスエズ運河の株を買収、エジプト支配への第一歩を築き、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねた。また、キプロス島を獲得して、中近東への進出の足がかりを得た。

2)列強の進出が激化すると、イギリスは主としてアングロサクソン系が植民地とする国に自治権を与えた。1867年にはカナダに、1901年にはオーストラリアに、1907年にはニューファンドランドとニュージーランドに、1910年には南アフリカに与えた。

 (これらの国との連携が、いわゆる「ブリティッシュ・ドミ二オン」と呼ばれる巨大自治領連邦である)。

3)南アフリカの「魔の手」といわれるケープタウンはオランダが先に植民地としたのをイギリスが買収し、次いで、ダイヤモンドの出るヨハネスブルグを併呑して、南アフリカを一国とし、植民地化した。(先住していたオランダ人は植民していた土地から距離をとって居住)

 7.フランスの苦悩

1)プロシアとの戦争に負け、経済発展は困難をきわめ、列強間における地位も低下、生産力も発展が滞った。そのため、商工業者や投資家は国内より有利な海外投資に向かい、それが実って金融資本が安定した。対外的には1880年からアフリカのチュニジア、ソマリア、赤道アフリカ、マダカスカル島に進出しつつ、インドシナ(マレー半島)の植民地化を強力に推進、イギリスに次ぐ植民地所有国となった。

 (中央、南アメリカが無視されている)。

2)ナポレオンは1895年、スエズ運河開設に着手。開通後、エジプトとフランスとが管理、運営を行なったが、イギリスがエジプトから株を買い取って介入、結果的に英仏による官理に移行、アレクサンドルで反乱が起こった機会を利用し、イギリス軍はこれを鎮圧後、スエズをほぼ独占運営とし、エジプトを保護下に置き、東スーダンの占領にも着手した。

 (イギリスがいかにアングロサクソンがナンバーワンと考え、めちゃくちゃやってきたことが判る。この時期、イギリスが世界の番長だった。その禍根が東南アジアにも中近東にも、国境線として残っている)。

 8.ロシア

1)1891年、ロシアは露仏同盟のおかげで、鉄道の敷設が進められ、フランスからの投資にも恵まれはしたが、労働賃金は安く、長時間労働で労務者は苦しめられていた。ただ、地主階級と専制政治を守るうえでは支えとなった。こうした社会情勢を背景に、レーニンらによるボルシェビキは徐々に浸透していった。

 9.アメリカ

1)19世紀後半のアメリカは資本主義を急速に発展させ、巨大独占企業が出現。スタンダード石油、カーネギー鉄鋼、1900年前後にはスペインとの戦争に勝利し、サイパン、グアム、フィリピンを植民地とし、ハワイを併呑、キューバを保護国とした。

2)太平洋に植民地を得たアメリカはカリブ海から太平洋に出るための運河の必要性を痛感。当時、パナマ地峡はコロンビア共和国の一部だったため、使用権に関する条約をコロンビアと結んだところ、コロンビア議会は金額が少ないという理由でこれを拒否。するうち、パナマ側に反乱、独立への動きが活発化、アメリカはパナマを支援、コロンビアからの独立を承認、1905年から10年間にわたる難工事の末、「閘門式」(こうもんしき)の運河を完成、1989年までアメリカはこれを独占管理した。

 10.日本

1)1884年~1885年の日清戦争に勝利し、台湾を割譲させたが、1875年、日本軍艦が朝鮮の島に近づいたとき、朝鮮側から砲撃を受けたのをきっかけに、日本は軍隊を朝鮮内に送り込んだ。鎖国していた朝鮮を開国させ、修好条約で釜山の仁川と元山を開港させたうえ、治外法権を認めさせ、関税自主権を押し付けた。

2)1894年、朝鮮国内で反乱が起こり、日本は清とともに軍隊を出兵させたが、乱が治まると、清は兵を引いたが、日本は清の影響が強まることを恐れ、軍を引かず駐留し、緊張が高まった。

3)同1894年、日本は豊島沖で清朝海軍を奇襲し、開戦。朝鮮に駐留させていた軍隊を遼東半島の旅順に入れて、これを占領、無抵抗の市民を無差別に虐殺、列強の不評、不興をかった。

4)一方で、日本の朝鮮公使は朝鮮に渡っていた日本人のゴロツキや暴力団を指揮し、1895年に朝鮮王宮に乱入、王妃や大臣らを殺害。

5)清朝に勝利した日本は下関条約を清朝と交わしたが、勝者が奪ったものの多さで世界的に前例のないものだった。(1)朝鮮独立の承認、(2)遼東半島、台湾、ぼうこ島の割譲、(3)賠償金、2億テール、(4)重慶、蘇州の杭州の開港、(5)開港場での内地企業権の付与、(6)清朝が欧米と結んだのと同じ通商条約を日本と結ぶこと。

 ロシア、イギリス、フランスによる三国干渉で、遼東半島は返還したが、その代わりに賠償金を6千5百万円追加。賠償金の総額3億6千525万円は、清朝の国家財政の3倍以上に相当、当時の日本歳出額は8千万円。清朝は国民への重税と外国からの借金によって、全額支払ったため、長く返済に苦しんだ。日本は莫大な賠償金を軍備費に充当。日清戦争の後の日本はようやく第一次産業革命といわれる経済発展をとげ、資本主義を急速に進めていった。

6)日本が清朝に勝ったことで、それまで「眠れる獅子」と中国を内々は恐れていた列強が力を得て、さらなる優越行為に走らせることになった。

 11.清朝

1)ロシアはシベリア鉄道の建設に着手していたが、東清鉄道の敷設権を得、1897年ドイツが膠州湾を、ロシアが旅順と大連を租借。イギリスは山東半島の威海衛と香港の新開地をも租借、フランスは1899年、仁川湾を租借、租借地の利用期間はいずれも99年間におよび、割譲とほぼ同等であり、周辺地域の鉱山発掘権も含まれていた。(ドイツは青島を租借)。

2)清朝は事実上、列強によって分割されたに等しい状態となり、国内にこれを民族的危機と捉えた義和団が蜂起、教会、鉄道、電線などを破壊、外国人を襲い、勢力を増大させたのを見極めた清朝はこれを利用して、外国勢の排除を目論み、1900年、列強を相手に開戦を宣言。

3)中国に利権をもつ日本、ロシア、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリア、イギリス、オーストリアの8か国連合のうち、イギリスは南アのポーア戦争(ダイヤモンドの鉱床発掘が問題化)に軍事力をとられ、アメリカはスペインから奪取したフィリピンで反乱の鎮圧に忙殺されていたため、連合国の総兵力は4万7千で、そのうちの半分が日本兵だったため、日本が必然的に主導権を発揮し、鎮圧した。清はこの敗戦で列強にトータル4億5千万テール(国家収入の3年分)を賠償金として支払わされた。清朝の二度の敗戦に、日本が深くかかわったことは歴史の事実。

4)1912年、辛亥革命で清朝は滅亡、以後、内戦状態が長く続く。

 12.朝鮮半島と日露戦争

1)義和団鎮圧後、ロシアと日本が満州と朝鮮半島を挟んで鋭く対立。ロシアは満州に軍隊を駐留させていたため、日本は激しく反発。ロシアの勢力拡大に不安を感じていたイギリスは国際的に孤立していたこともあり、日本と同盟を結んだ。アメリカも日本の満州での鉄道敷設に参加したい意向があったため、日本の動向には好意を抱いていた。

2)1904年、日露が開戦。苦戦の末、1905年、旅順を陥落させ、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、奉天会戦でも勝利した。日本は戦費19億8千万円のうち12億を外債募集に頼り、イギリス、アメリカのユダヤ金融に応じてもらった。

 (ユダヤ人の多くがロシアで迫害に遭っていたという背景がユダヤ金融を動かした)。

3)ロシアは時を同じくして革命機運が高まりをみせ、各地で一揆や反乱が起こり、専制君主はこれを抑えることに注力せざるを得ず、戦争継続に積極的になれなかったことが幸いし、アメリカのルーズベルト大統領による和平工作がスムーズに運んで、ポーツマス条約を成立させた。結果、朝鮮半島における優越権とサハリンの南半分の割譲、遼東半島南部、東清鉄道、南満州支線、沿海州の漁業権を得た。

4)日本は勢いに乗り、朝鮮の皇帝(李氏)を威嚇、日韓保護条約(外交権をも奪う内容)を押しつけ、名実ともに保護国とし、(この時期、朝鮮は韓国と名を変えていた)、1910年には、内乱を弾圧したうえで、「統治権を日本国皇帝に譲渡する」内容の条約をあらためて結び、こうして日本による韓国統治は1945年の敗戦まで続くことになった。(ロシアの南下政策に対する危惧は両国に共通することではあった)。

 13.第一次世界大戦

1)20世紀初頭、欧州はドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟、ロシア、フランスの二国同盟が対立しあい、アジア、アフリカの植民地化に全力を注いでいた。1907年、イギリスはロシアに接近、英露協商が成立。

2)当時、バルカン半島はオスマン・トルコの支配下にあり、トルコの国粋主義的思想により、他民族は迫害対象となっていたが、1908年オーストリアはバルカン進出をはかり、ボスニアとヘルツゴビナを併合、1914年同地を訪れたオーストリアの皇太子がセルビア人に暗殺され、オーストリアはセルビアに対し即時、宣戦布告。

3)ドイツは10年前から、国際的状況を鑑み、いずれ大戦は必至であると予測、国内の東西を結ぶ鉄道網を充実させていた。

4)オーストリアと同盟関係にあるドイツは早々にフランスに侵入したが、フランス側の激しい反撃に遭って進撃を阻まれ、東部戦線ではタンネンブルグでの戦いでロシア軍に大勝したものの、以後は膠着状態となった。

5)バルカン方面では、1914年にトルコが、1915年にはブルガリアが、ドイツ、オーストリア同盟軍に参加したので、戦線は終始優勢になり、セルビアとルーマニアのほぼ全領土を占領したが、連合軍側のイタリアの参戦によって持久戦に突入。

6)ドイツは海軍力が劣勢なため、海外植民地のすべてを占領された。

 (日本も、日英同盟に基づき、太平洋上のドイツ植民地、租借地をすべて占領。ただ、ドイツのUボートが地中海で暴れ回り、連合軍の多くの船が魚雷で沈没させられ、これに連合軍が往生し、日本に依頼、マルタ島を基地に、輸送船、艦船の護衛を依頼した史実がある)。

7)戦争は長期化し、交戦国の生産力の差によって左右される総力戦の性格を帯びはじめる。イギリスは自治権を餌に、エジプトから100万人以上の労務部隊を、インドから80万の兵士と40万の労務者を、フランスはベトナムから15万の労務部隊を提供させ、中国も10万以上の苦力部隊を戦線に送った。

 (日本は部外者との立場で、交戦国からの造船や兵器の発注に応じ、国庫を閏わせた)。

8)1917年、イギリスはユダヤ人金融の力を借りるため、戦勝すれば、パレスチナ(当時はトルコの領土だった)にユダヤ人による建国を認めるといい、いわゆる「シオニズム」のバックアップを表明。

9)ロシアは戦争の長期化で厭戦気分が充満するなか、1917年に「3月革命」と「11月革命」が起こり、ソビエト政府が樹立、「平和に関する布告」を出して、戦線から離脱した。

10)同年、中立を守っていたアメリカがドイツに宣戦布告し、西部戦線に大量の物資と軍隊を投入。ドイツ国内でも革命運動が起こり、皇帝はオランダに亡命、こうして第一次大戦は終結。、ロシアではロマノフ王朝が、オーストリアではパブスブルグ家が、プロシアではホーヘンツォレルン家が、いずれも戦後すぐに没落、皇帝政治は崩壊した。

 14.ロシア革命とスターリンの専制支配

1)ロシアの社会主義革命の影響の波及を恐れた日本、アメリカ、イギリス、フランスなどは当初、軍隊を派遣して反革命派に助力したが、こうした干渉と、その後も長く続いた資本主義陣営による包囲、対ソ敵視政策を背景に、ソ連は祖国防衛のための強大な軍事力の保持と強力な中央集権的官僚組織機構、反共分子の摘発をするための秘密警察機構の確立を合理化する結果を招来、スターリンの恐るべき独裁支配を可能にさせた。

2)1934年に始まった「粛清」の嵐は、1938年の一年間に逮捕者700万人、処刑者100万人、収容所死亡者200万人を出した。


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