世界の歴史がわかる本(帝国主義時代~現代篇)/綿引弘著(パート7)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「世界の歴史がわかる本」 帝国主義時代~現代篇
副題:めまぐるしく変わる「世界地図」
綿引弘著   三笠書房刊  文庫本  ¥533+税

書評「パート7」

 1.第一次大戦後の世界

1)第一次世界大戦後のパリ開催「講和会議」にソ連は招かれず、アメリカ大統領の主唱した平和原則も無視され、イギリス、フランスの両国による主導で行なわれた結果、イギリス、フランスの秘密条約と既得権擁護が会議を支配した。

2)敗戦国、ドイツは植民地のすべてを失い、ライン川左岸は15年にわたり連合軍に保証占領され、アルダス・ロレーヌはフランスに割譲され、本国領土の6分の1を喪失。さらに、1320億マルクという巨大賠償金が課せられ、イギリス、フランスはこれをアメリカから受けた戦償の支払いに充てることを意図していた。この過酷なまでの条約が、いずれは、ドイツに混乱を生み、ファシズムを生み出す原因となる。

3)オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー、チェコスロバキアが独立、バルカン半島では、セルビアとモンテネグロを中心にボスニア、ヘルツゴビナ、さらにブルガリアの一部を含めたスラブ族の国、ユーゴスラビア三国が成立した。

4)ロシア革命により、旧ロシア領土から、フィンランド、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアが独立した。ポーランドとチェコに関しては、民族への配慮が欠け、杜撰な線引きによって国境を決めはしたが。

5)国際連盟の設立により、アメリカもソ連も不参加だったにも拘わらず、アメリカ主導のワシントン会議では、軍縮案が出され、主力艦の保有をアメリカ、イギリス5、日本3、フランス、イタリア1.67とさだめられた。1920年の再会議では、補助艦船の制限が持ち出され、アメリカ、イギリスが10に対し、日本は7を承認された。

6)イギリスの地位の低下

 自治領だったオーストラリア、カナダなどは大戦にも参加、国際連盟にも加盟、イギリス帝国議会はイギリス連邦の形成を宣言したが、このことはそれぞれが完全に平等の地位を得ることになったことを示している。カトリックの国、アイルランドも自治領の地位を獲得したが、連邦から分離し、1937年、アイルランド共和国として改称、現在に至っている。一方、プロテスタントの多いアイルランド北部、アルスター六州はイギリスに残されたが、北部に住むカトリック教徒との紛争は今日も続いている。

7)東欧の新興諸国はイギリス、フランスの影響を受け、ソ連への恐怖もあって、軍国主義的傾向を強めた。

8)1920~1921年、ポーランドはソ連との戦争で、ウクライナの一部を領有したが、国内は不安定であり、チェコ、ユーゴ、ルーマニアは民族紛争が絶えず、問題を抱えたまま政情安定は続いていた。

9)トルコは大戦後の1920年、シリアをフランスに、メソポタミアとパレスチナをイギリスの委任統治とされ、小アジア西岸はギリシャに割譲することが決められた。まもなく、スルタンを廃し、共和制をしき、大統領制を採用、近代化への道を歩む。

10)インドはガンジーの「無抵抗主義」にイギリスは音をあげ、1935年新しい統治法を制定、インド連邦を組織し、連邦内での自治権の拡大を認めたが、完全独立の道は開かれなかった。

 2.エスカレートする日本軍部

1)1927年、世界経済恐慌のため深刻な労働争議に困惑した当時の内閣は、はけ口を求めて強硬な外交政策を採った。

2)蒋介石が中国内で北伐を開始し、勢力が華北におよびつつある状況下、日本人居留民保護を理由に、日本軍は山東に出兵したが、このときは北伐が停止したため、撤兵した。

3)1928年、北伐が再開されるなり、日本は再び出兵し、清南で交戦。

4)満州の支配権を握っていた張作霖という軍閥の男が日本の意のままに動かなかっため、男の乗った列車を爆破し、殺害、中国国内に排日運動を一層激しくさせる結果を導いた。

5)日本の次の内閣が協調外交を採り、軍縮を模索したが、軍部はこれを不満とし、政府の意向を無視、1931年には柳条湖で南満州鉄道を爆破、一気に全満州を占領、1934年には清朝最後の皇帝、溥儀を皇帝の座にすえ、満州国を建設。

6)国際連盟が日本の満州建国を否認すると、日本は直ちに連盟を脱退。軍部は1932年には上海事変を起こし、1934年には海軍の軍縮条約をも破棄、軍備拡張を推し進めた。

7)日本政府は軍部(とくに陸軍)の統制ができず、1932年の5.15事件、1936年の2.26事件を経て、政党政治は崩壊、軍国主義的性格を一気に強めた。反対者は抹殺され、良識ある人物は口をつぐむという事態に陥った。

 (軍部が必要以上に強くなると、指揮権にすら従わなくなるだけでなく、クーデターの危険を孕むことになる。とくに、当時の陸軍を掌握していた人物にろくな人物がいず、ものの考え方が幼稚で、合理性の欠片もなかった)。

8)中国では孫文が「三民主義」を掲げて、中国共産党と連携し指導に注力したが、1925年に死去。その後の中国は国民党を率いる蒋介石と、共産党を率いる毛沢東の「10年の内戦」という分裂時代を迎える。

9)日本が朝鮮に対して行なった植民地支配は、世界の歴史のなかでも最も過酷をきわめたものの一つで、ソウルに総督府を置き、総督には陸海軍の大将を配置、厳しい武断政治を行なった。朝鮮文字を使った新聞の発行も許さず、言論統制を行い、そのうえに土地の没収を強行したために、全朝鮮でデモが行なわれ、2千万人が参加したという。日本軍部はこれを徹底して弾圧、朝鮮人研究者によれば、このとき、10万人以上が砲火で殺されたという。

 (当時の、関東軍は暴力団組織となんら変わるところがなかったであろう)。

10)1929年のアメリカの株価暴落の原因も永遠の繁栄を過信したアメリカ的自由放任政策にあった。このときの恐慌も金融恐慌から始まり、会社の倒産、商業貿易の不振を招き、世界の資本主義工業生産力は平均して恐慌前の60%以下に落ち、数千万人が職を失い、植民地も大きな打撃を受けた。

 (アメリカには歴史から学んで反省し、軌道修正する知恵がないのか。2008年から始まった金融恐慌も、自由放任主義と行き過ぎた投機が原因)。

11)もともと低い生活水準にあった日本社会の人々は関東大震災(1923年)の被害を受けたうえに、経済恐慌に見舞われ、国内市場のせまい日本資本主義は深刻な危機状況に陥っていた。こうした状況をくつがえすためには、資本主義の弱さを軍事力で補う、武力行使による中国への経済的進出を意図して、北支分離工作に拍車をかけた。中国側は日本の露骨な侵略行為に対し、内戦を停止、抗日民族統一戦線結成への世論が高まった。

 3.ファシズムの台頭

1)イタリアは第一次大戦で戦勝国になりはしたが、戦費の8分の7まで外債でまかなったため、戦後は財政に窮乏。そのうえ、イタリアは封建的要素を多分に残し、経済的基盤も弱く、各地で労務者や農民の争議が相次いだ。

2)そうした状況下でムッソリーニがファシズムを引っさげて登場、資本家、地主、軍部などの支持を得て、勢力を拡大。国王、ビクトル・エマヌエル3世はムッソリーニを首相に任命、ファシスト政権が生まれ、独裁政治へと移行していった。(イタリアに国王がいたとは知らなかった)。

3)1924年には、アドリア海に面する町、フィウメ市を併合、1927年にはバルカン半島のアルバニアを保護国とするなど、対外積極索を採った。ファシズムは社会主義と国粋主義とをあわせたような綱領を設け、軍部や社会主義思想になじめない中間層や、前途に不安を抱く青年層の支持を得て、勢力を拡大するという傾向にあった。

 4.ドイツ国民とナチス

1)敗戦後の生活難と政治的混乱のなかで、ヒトラーは1920年に党名を「国家社会主義ドイツ労働党」つまり「ナチス」に改めたが、改名は名ばかりで、意図したのは、独占資本主義の擁護、反社会主義、反ユダヤ主義、中央集権だった。

2)ナチスは武装組織の「S.A.」と、親衛隊の「S.S.」によって、ユダヤ人を迫害し、暴行を行なったため、国民のあいだには不信感が芽生え、1932年の総選挙では第一党は確保したものの、共産党が議席を伸ばした。

 革命を恐れる大資本家や保守勢力は続々とナチス支持に傾き、ヒンデンブルグ大統領は1933年にヒトラーに組閣を命じた。ヒトラーはこの機会に、あらためて総選挙を実施、国内のあらゆる暴動や反乱の類をすべて共産党のせいにして弾圧、81名の共産党員を追放し、過半数の議席を得、第一党にのし上がった。

3)1934年、ヒンデンブルグ大統領が逝去すると、ヒトラーが首相兼大統領となり、総統(フューラー)と称し、文字通り独裁者となった。ナチスはさらにゲシュタポ(秘密警察)を使い、支配権を強化。言論、出版、集合の自由を奪い、ユダヤ人を残酷に迫害した。ために、アインシュタインやヘルマン・ヘッセ、トーマス・マンなどの優れた文化人が国外亡命を余儀なくされた。

4)ナチスは高速道路、アウトバーンの建設に代表される公共事業や軍需工業を興し、失業者の収拾を図った。1936年にはベルリンでオリンピック大会を開き、国民意識の高揚に務めた。

5)ナチスはムッソリーニと共同して、オーストリアを併合、次いで、チェコスロバキアにドイツ人居住区ズデーデン地方の割譲を求めた。ナチスはイギリス、フランスとミュンヘンで会談を続行。肝心のチェコもチェコと相互援助条約を結んでいたソ連も招かれず、英仏はヒトラーの要求を、妥協を図る意図で、承認した。

 ナチスの矛先を東方、ことにソ連に向けさせ、自国の安全を図ろうとの姑息な考えがあった。

6)ヒトラーは会談後、ミュンヘン会談の協定を無視、スラブ系民族が居住する旧チェコ領のボヘミア、モラビアを併呑、東半分のスロバキアもドイツの保護下におき、チェコスロバキアを解体した。と同時に、国際連盟からも脱退を表明。

 5.ファシズムの波及

1)日本、ドイツ、イタリアの軍事政権だけでなく、1920~1930年にかけて、ポーランド、リトニア、エストニア、ラトビア、ハンガリー、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアなどの東欧諸国にも独裁政権が出現、国際間に緊張が走った。

2)一方、フランスでは、人民戦線が結成され、1936年の総選挙では、人民戦線が勝利、首班内閣が成立。国内の大資本家は左派政権の成立を嫌い、巨額の資本をイギリス、アメリカなどに逃避させたため、企業活動は低迷、失業者も増大、これにより人民戦線は1938年に瓦解する。

3)スペインは伝統的に教会勢力が強く、封建制も強い国であるが、米国との戦争に敗れ、植民地を奪われ、大戦後の不況は深刻だった。このような社会不安から、1931年、ブルボン王朝は倒され、共和制が成立。

 1936年の選挙では、人民戦線派が勝利し、民主化を促進しはじめた。これを不満とした軍部のフランコはモロッコで反乱を起こすと、国内の地主、資本家、教会などの保守勢力がこれを支援、反乱は全土を巻き込んだ。ドイツ、イタリアは公然とフランコを支援して、軍隊を送った。イギリス、フランスは不干渉の立場をとった。フランコ軍はバルセロナ、マドリードを占領し、スペインにファシズム政権を樹立、国際連盟を脱退。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ