世界の歴史がわかる本(帝国主義時代~現代篇)/綿引弘著(パート8)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「世界の歴史がわかる本」 綿引弘(1936年生)著
副題:めまぐるしく変わる近、現代の「歴史地図」
三笠書房  文庫本  ¥553+税

書評「パート8」(最終回)

 1.第二次世界大戦

1)1939年、ドイツは大軍によるポーランド攻撃に踏み切り、同年後半には同じく大軍を入れたソ連邦とポーランドを分割、1940年、ソ連はバルト三国に侵入し、強引にソ連邦に併合。ドイツ占領下のポーランドでは、数万のユダヤ人が虐殺され、ソ連の占領したのポーランドでも、1万5千の軍将校が殺された。

2)1939年、イギリス、フランスはポーランドを支援、ドイツに宣戦布告、ここに第二次世界大戦が勃発。

3)連合国側とナチスドイツがにらみ合い状態に陥ると、ソ連邦はフィンランドに攻めこみ、次いでルーマニアからベッサラビアを占領。

4)1940年、ドイツはデンマークを占領、ノルウェーを侵略、次いでオランダ、ベルギーを襲い、イギリス、フランスをダンケルクに包囲し、大損害を与え、パリを占領。結果、フランスは降伏、フランス領土の3分の2がドイツ占領下に置かれた。一方、ドイツ有利と見たイタリアがイギリス、フランスに宣戦布告。

5)ドイツはイギリスに対し、空爆をくりかえしたが、国民はチャーチルの指導のもとで、この攻撃に耐え、ドイツ軍の上陸を許さなかった。

6)ドイツは農産物、鉱産物の供給地としてバルカン半島を重視、イタリア軍とともに侵入を開始。イタリアはギリシャに、ドイツはルーマニアとブルガリアに進駐し、ハンガリーとともに両国を、日、独、伊三国同盟に加入させた。さらに、ドイツ軍はユーゴスラビアに侵入、イギリス軍地中海の根拠地、クレタ島を奪い、バルカン方面を手中にした。

7)ソ連は東方の安全を確保するため、1941年、日ソ中立条約を締結。

8)1941年6月、ドイツ軍は大兵力で突如、ソ連に攻撃を加え、たちまちレニングラード(現、サンクトぺテルブルグ)を包囲、首都モスクワに25キロに迫ったが、ソ連軍の激しい抵抗に遭い、時間が無為に経過するうち、冬の到来を迎え、ドイツ軍は進撃を食い止められた。とはいえ、1942年の時点で、イギリス、ソ連を除く、ほぼ全欧州を支配下に置いていた。

9)ドイツ軍に占領された諸国では、大量のユダヤ人が虐殺され、強制労働や物資の調達が行なわれたため、各地に様々な抵抗運動組織が興った。

10)1942年に入ると、ドイツ軍が占領していたアフリカ諸国は連合軍によって次々に解放され、中近東諸国も独立を認められた。

11)1942年後半に入ると、攻守逆転の様相を呈しはじめ、ドイツ軍はアフリカからも、スターリングラードからも撤退を余儀なくされ、1943年にアメリカ軍が参戦すると、イタリアはたちまち無条件降伏を受け容れた。

12)1944年、フランス領土のノルマンディ上陸作戦が成功し、パリが解放され、米軍はベルリンに迫った。要するに、アメリカは西のフランス側からドイツに向かい、ロシアは東からドイツを攻撃するという形がとられた。結果、ヒトラーは自決、ドイツも無条件降伏。

 2.日中戦争から太平戦争へ

1)南京攻略に全力を注いだ日本軍は南京に入城するや、近代史上稀な大虐殺を行なった。さらに、華北から華中かけての大平原を占領したものの、農村地帯は取り残され、点と線での駐留となるなか、中国共産党は農村地帯の農民を民兵に組織し、ゲリラ戦を展開しながら、日本軍の占領地域に解放区を築き、一方で、蒋介石の国民党は首都を重慶に移し、共産軍とは矛盾、対立しながらも、協力し、日本軍に抵抗した。

2)1940年、日本は資源確保のため南方へ派兵、インドネシアを植民地としていたオランダを駆逐、一方で、アメリカに武器供与を求めたが、「日本軍の中国からの全面撤退」という条件を提示され、交渉は断絶、1941年12月、日本軍は真珠湾への奇襲攻撃をもってアメリカ、イギリスに宣戦し、ここに太平洋戦争が始まった。

 日本は、アメリカの植民地であるマニラ、イギリスが要塞を構えるシンガポールを占領、ビルマ(現ミャンマー)にも戦線を拡大、しばらくは優勢を維持。(インドネシアのスラバヤ沖海戦では、オーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカの艦船を簡単に撃沈、シンガポール沖でもイギリスのプリンス・オブ・ウェールズを撃沈、あっという間に東南アジアの派遣を得た。

3)中国では、統一戦線の激しい抵抗により、日本軍の主力、100万の精鋭をもつ関東軍が釘付けになり、これが終戦まで続くことになり、これこそが第二次大戦で日本が敗北した最大の要因であり、それは中国人による抵抗戦にあったとされる。

4)太平洋では、時間の経過とともに、日本軍は制海権、制空権ともに喪失、硫黄島、沖縄本島が占領され、日本本土爆撃が始まり、1945年8月に、広島、長崎に原爆が投下され、ソ連の日ソ不可侵条約の一方的破棄を知り、日本政府はやむなく無条件降伏(ポツダム宣言)を受け容れた。

 米、ソ、英の三国によるヤルタ会談では、ソ連の参戦は8月8日と決められ、米国はそれ以前に日本に降伏を強いる目的で原爆投下に踏み切ったといわれる。ために、日本はドイツや朝鮮半島のような、国を分裂させる状態を回避できたという理屈が尤もに聞こえる。

 3.大戦後

1)多くの植民地が独立を果たした。植民地体制の総崩壊という歴史的なできごと。この大戦にメリットがあるとしたら、国連憲章や世界人権宣言に象徴される自由主義、民主主義思想が広く世界に浸透するきっかけとなったこと。

2)戦後、イギリスはインドを二つの国家、インド連邦とパキスタンに分離独立させたが、パキスタンはインドをはさみ東西に分かれた国家となったことで、東パキスタンはこれを不満とし、1971年にはバングラデシュと名を改めて独立したものの、当時は世界における最貧国と名指しされるほど酷い状態だった。

 (イギリスの国境を決めるときの杜撰なやり口がここでも見られる。アフリカを縦横に線引きした国境決定の手法も、今日に多くの問題を残した原因)。

3)独立国家の例

 東南アジア: フィリピン、ミャンマー、スリランカ、マレーシア、インドネシア、韓国

 アフリカ: リビア、スーダン、モロッコ、チュニジア、アルジェリア、ガーナ、コンゴ(現ザイール)

 1974年から75年にかけて、ポルトガル領だったギニア、ビサウ、モザンビーク、アンゴラが独立。

 1980年には、ローデシアがジンバブエと国名を変えて独立。

 以上のような独立が達成されたとはいえ、南北格差の問題が解決されたわけではなく、元宗主国が引き上げたことで一層悲惨な状況をみせた国も少なくない。

 例外は中南米諸国、欧米がかねてから生産物依存という経済体制を採ってきたため(一国一種類の食材供給地とする内容)に、大戦後は食糧難もあり、一層この体制への依存が強まった。
 (キューバの砂糖もその一例)。

4)1944年、国際連合憲章が採択され、同年10月に成立。国際連盟と大きく異なる点は(1)米ソが加盟したこと、(2)強制力があること、(3)軍事力を駆使できること。

 (五常任理事国だけに拒否権が与えられたのは当時としてはよかったのかも知れないが、戦後60余年が経過した現状にマッチしたシステムとは言いがたい。だいたい、アメリカ自身が国連を利用するときにだけ分担金を支払うというエゴまるだしの姿勢であり、大戦に勝ったというだけの理由でロシアや中国に拒否権をもたせ続けていたら、進展すべき世界の足を引っ張るだけではないか)。

5)戦前は6烈強時代で、日本、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス、アメリカだったのが、戦後はアメリカ以外は植民地の喪失とともに後退し、アメリカだけが国際政局を左右する立場を手中、一局になにもかもが集中するようになった。

 4.朝鮮半島の分裂

1)1950年、金日成は朝鮮半島を武力統一させるべく、突如大軍を南下させ、釜山付近にまで迫ったが、国連の安全保障理事国はこれを侵略とみなし、在日米軍を主力とする国連軍を編成し、ただちに朝鮮に派遣。国連軍は38度線を越え、中国国境まで追ったが、これをみた中国人民共和国は自国の軍隊を派遣して、国連軍を38度線近くまで押し返した。

 その後、戦況は一進一退を続け、国連のソ連代表の提案を契機に休戦会談が始まり、1953年板門店で協定が成立。(これはあくまで休戦であって、停戦ではなく、ために、韓国は徴兵制度を継続している)。

 分裂の遠因は旧日本軍の朝鮮半島支配にあったことは論を待たないが、皮肉なことは、この戦争が敗戦した日本経済に好景気をもたらしたことである。

 5.ヴェトナム戦争

1)ヴェトナム戦争は東西冷戦下での社会主義派と資本主義派との戦いであり、宗主国フランスが先制攻撃をしかけて始まったが、朝鮮半島と同じく、南北に分割された状態で、ジュネーブ協定がむすばれはしたが、この協定に、南ヴェトナム政府とアメリカ政府だけがサインしなかった。

2)アメリカは、ヴェトナムの共産化を懼れるあまり、南ヴェトナムを支援し、同時に50万の大軍を投入したが、北側は爆撃に次ぐ爆撃にも屈せず、中ソの後ろ盾を得て、ゲリラ戦を展開、アメリカの全面撤退という、信じられない形で、終戦を迎え、ヴェトナムの統一が達成された。
 (アメリカが味わった唯一の敗戦、撤退)。

 過去の戦争における爆弾の投下量の比較:(「t」はトン)

 1)第二次大戦中の日本への投下量: 16万t
 2)朝鮮半島での投下量:      60万t
 3)第二次世界大戦中の全投下量:  300万t
 4)ヴェトナム戦争時の投下量:   630万t

 3)日本が世界第二位の経済大国に成長した原因は、勤勉な国民性も一因ではあるが、朝鮮戦争とヴェトナム戦争による特需が大きく寄与していること、この二つの戦争の惨禍の上に日本の繁栄が築かれたことは史的事実であり、忘れてはならない。

 7.現在も継続している問題:

1)パキスタンとインドのカシミールをめぐる紛争(双方が核武装した事実)
2)イスラエルVSパレスチナ(この問題に関しては、書評として採り上げることを避けた)
3)ミャンマー軍による独裁政権(スーチー女史の自宅軟禁)
4)北朝鮮の動向
5)アフリカ大陸内部の民族紛争
6)ソマリアの海賊行為

 8.米ソ間の交渉

1)米ソは核の均衡のうえにのった平和共存を図ってきたが、非同盟主義の動きと、原水爆禁止運動の影響もあり、1963年に部分的な核実験停止条約が、1968年には核兵器拡散防止条約が調印され、1970年から戦略兵器制限交渉が始まった。

2)その後、レーガン大統領になると、「限定核戦争もあり得る」との発言で、軍事予算を大幅に増額し、同盟諸国にも軍備増加を迫り、ミサイルを欧州各地に配備しはじめた。

3)レーガンのミサイル配置は世界の平和を損なうことになると、世界中から不評を買い、ゴルバチョフという柔軟な姿勢を採る人物の登場によって、急速に平和交渉への進展が図られ、1987年、ついに「米ソ両国は核戦争が人類に与える壊滅的な結果を念頭におき、中距離射程のミサイルを廃棄し、今後この兵器システムを持たないことにするという全廃条約を成立させた。

4)1991年には核弾頭数をソ連が40%、アメリカが35%削減することを取り決めた、戦略兵器削減条約が成立。この直後に、ソ連邦が崩壊し、新生ロシアを担ったエリツィンはロシア、アメリカ戦略核をさらに大幅に削減することを提案、両国の核弾頭をさらに半減させるという画期的な提案が同意されたが、この直後に起こったユーゴ問題でNATO軍から反発があり、エリツィンを継いだプーチンも批准を拒んだ。

 (1991年、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国は、1991年、ソ連邦からの分離独立を実現)。

 2000年、大統領選挙で勝利したプーチンは、7年ぶりにこの条約を承認した。

 (ロシアの経済的貧窮という背景があったからだろうが、現在は軍備拡張に励み、独裁体制を築くことに力を注いでいる。プーチンを支えているのは地下資源)。

 

 以上、本書は「地球温暖化」の問題にも触れているが、本ブログでは別の書を書評したり、社会時評を書いた時点で、この問題には頻繁に触れているので、割愛した。

 1冊目のはじめに書いたが、内容はおおきくは時系列に沿って書いているが、個々の問題を論ずるにあたっては、必ずしも時系列にこだわらず、項目別に、たとえば人物別、国別、地域別に書かれ、ために話しが飛び飛びになる傾向は否めず、大半の歴史書が時系列を追って書かれている事実を鑑みると、本書は本書なりに、たった3冊の文庫本に凝縮して世界史を収めざるを得ないという限界のなかで、相当に工夫され、史実の提示が読者の心に迫ることを意図していることが理解される。

 また、大半の世界史が欧米を中心に書かれ、東欧、スカンジナビア、アフリカ、中近東、アジアなどは軽視される傾向が強く、本書は意図して、そうした欠点を補っている。

 私にとって、時間はかかったものの、多くの未知を学ぶ機会になったことを付記したい。

 ただ、本書の欠点を挙げるとすれば、印刷した年月日が明示されていないことだが、早くて1980年代後半、遅ければ1992、3年に書かれたのではないかと憶測した。

 正直、凝縮に凝縮を重ねた三冊の、気の抜けない世界史を読了して、時間はかかったが、安堵の吐息を漏らしている。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ