沈船検死「夜明けの新聞の匂い」/曽野綾子著

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沈船検死

「沈船検死」 曽野綾子著
副題「夜明けの新聞の匂い」
帯広告:世界の辺境を見続けた著者だからこそ言える、直言の数々。
新潮文庫

 本書は2001年から2003年までに「新潮45」以降に掲載された短編の寄せ集めで、ダブりがかなりあり、タイトルの「沈船検死」はそのうちの一遍に過ぎない。

 いつもながら、舌鋒鋭く、ロジカルで、そのうえ理知的で、ときに攻撃的、そのうえよく勉強しているから、新しく出現したツールの本質まで見極めている。

 「憎しみの架空空間」というタイトルのもとでは、IT関連のことが言及され、恩恵の部分と醜悪な部分とが並存するとの指摘は正鵠を得た見識だが、これもどのように交通整理されるかにかかっていることで、いまさらITのない社会生活は成りたたないだろう。現に、われわれ中年層以上の人間が推量できる範囲を超え、さらには想像以上のスピードで、ITというものは前進していると考えるのが妥当だ。

 ただ、IT時代の到来がなにを意味することになるのか、政治家のトップや有識者がわかりもしないくせに、疑いをもつより以前に、その将来性に危惧を覚えない事実、「正気の沙汰か」と怒鳴りたくなった気持ちはよーくわかる。

 ただ、コンピューターが世に出たことで、CPU以前の世代と以後の世代とに、意識する以上に大きな隔たりができてしまったような気はする。 今後に想定される社会的ニーズという点でも、古い世代には想像もつかないニーズがあり得ることは間違いない。

 「情報の公開、開示と、プライバシーの保護」とは、確かにある点で、矛盾するケースが出てくるが、日本の賢い方々の判断を待つしかないように思われる。

 「タクラマカン砂漠」を訪れた話があるが、「タクラマカン」が「入れば出られない」という意味だとははじめて知った。

 砂漠には、「岩漠、土漠、砂漠」と三種あって、「タクラマカンは砂礫漠だった」というが、車が通過できる場所ならば、通常、小石と砂の交じった比較的固い土地である。アメリカではこういうところを単純に「デザート」、つまり「荒地」と呼んでいる(ラスベガス周辺のネバダ州がそれだが)、「砂漠」というイメージは「月の砂漠を」という歌から「さらさらの砂地」を日本人が勝手に連想しているだけ。 砂漠に比べたら、地球上には岩漠、砂礫漠のほうがはるかに多い。

 「目には目を、歯には歯を」はハムラビ法典にある言葉らしいが、著者ははじめ「目をやられたら目だけを、歯をやられたら歯だけを」という限定報復をいう「同害復讐法」だと思っていたら、ユダヤの「出エジプト記」には賠償の基準としての「与え方」を示すものであることが示されていたと自分の誤謬を認めている。私も知らなかった。

 アラブ人の「信仰のために闘う」は体裁のいい口実、実態は貧困、嫉妬、無知が原因。 「食」「職」「文明の利器」を与えれば、だれも死を賭して闘いはしない。

 曽野さんは「大戦中の、沖縄、渡嘉敷島(慶良間諸島の一島)での赤松大尉(25歳)のことにかなり拘った取材をしたようだ。

 赤松大尉は130人の挺身隊に海に出て闘うことを放棄、地上で迎え撃つ作戦に方針を変え、300人くらいの住人にはそれぞれ手榴弾をもたせて自決を命じ、自分だけは壕のなかに潜りこみ、のうのうとしていただけで、後刻には、卑怯にも、自分だけは生きたまま米軍に降伏したという非難が戦後になって起こり、これが伝説化して、どの作家の書いた資料にも、むろん地元の新聞にも、その傘下の出版社から出ている書物にも、「悪辣非道」とか「傲岸冷酷」という形容詞が冠せられ、大江健三郎は「沖縄ノート」に「あまりに巨きい罪の巨魁」とすら書いた。

 曽野綾子はそれに疑問をもったのだろうし、本人がいっているように「罪の巨魁」に会ってみたいとも思い、現地を訪れ、相当の日数をかけ、多くの人にも遭い、ことの真実を裏書する何かを探りあてるべく努力したが、立証できる何物も出てこなかったという。赤松大尉は単にスケープゴートだったことが判明した。史書にはこういう誤謬や虚偽がしばしばある。

 「国民の司法制度への参加」がしきりにいわれるようになった。一見、もっともらしく思われるが、この新制度は思惑通り機能することはない」との判断は私も同感。それよりも、司法試験そのものを難しくするのが趣味の司法界の保守的人物を抹殺し、司法に携わる人間の数を画期的に増やすことが先決ではなかろうか。 「素人がガン首ならべて思案かな」という川柳が生まれないように。

 作者が敬虔なクリスチャンであることは知っているし、「小学校から大学まで揃っている先進国の都会が必ずしも知恵ある人間を育ててはいない」という警句もわかるけれども、バングラデシュやアフガニスタン、アフリカのあちこちの国の人は援助してもらえるとなると、口を開いて待つだけで、みずからは何もしないし、ましてや勉強もしない。「そういう人々が飢餓で死ななくなったら」、それでなくとも中国、インド、インドネシアで人口が増えているのに、そのうえに飢餓に喘いでいる国(たとえばアフリカ)から人口爆発が起こったら、どう対応するのだろうか。 彼らを救うことが、結局は、みずからを危うくすることになるのではないか。

 だいたい、多くの日本人が雪害や耐震強度漏れや、その他の自然災害が原因で家を失っている。日本政府が日本人を支援せずに、外国人をまず支援するというのでは納得できない。

 中国では「死刑の決まった人間から、むろん健康体に限ってのことだろうが、死刑が執行された直後に医師が執刀して内臓を移植する手術を行うという。倫理的な面が云々されたことはないが、死刑が存在するのであれば、死をまえにだれかの役に立てるという意識は悪くないように思える。 とはいえ、私の内臓のどれかがどれほど悪くても、サリン事件の松本からはどの内臓移植も受けたくはない。

 近松門左衛門の「心中天網島」のことに触れ、内容を少しく説明したうえで、当時の人は「心情において大人だった」とコメントしているが、「心中」そのものがこの国に特有で、「人を道連れにして死を共にする」日本人的心理は西欧の倫理観とは相容れないと聞く。敬虔なキリスト教徒である彼女がそのことについて触れていないことは不可解だし、「心中賛美」の日本的な感覚自体も不可解。

 民主主義とは多数決主義であり、「人間の大多数は愚かで利口ではない」と私は思っている。もし、もっと賢ければ、民放テレビで視聴率をとるためにあんなにくだらない番組はつくれないし、つくらないだろう。 とはいえ、そういう番組が毎週流されている以上、視聴率が悪くないからであって、これはとりもなおさず、視聴者が愚かなのだと思うしかない。 とはいえ、おっしゃるとおり、マスコミも幼稚というしかないし、多数決による手法以外にいまのところまともな決定手段はない。それとも、また「賢人会」とやらをつくりますか。

 先の丸い、5センチほどの子供用のハサミすらが飛行機に搭乗する際に、とりあげるやり方に、世間の人のほとんどがおかしいと思っていないし、反対の声もない。この思考がいかに幼児化、単純化、無抵抗主義的で、道徳の破壊につながっているかに気づいていない。嘆かわしい実態だとの意見にはまったく同感だが、現実にテロが起こり、ハイジャックがあり、2006年に至ってはイギリス発のアメリカ行き飛行機を利用することによる複数都市での複数爆発が計画され、その計画が発覚したとたん、ペットボトル一本機内への持ちこみは禁止となった。バカでない限り、危機が想定されれば、それに応じた対策を急遽とるのが当然だし、搭乗する側にとっての安心感に繋がることもまた事実である。曽野さんの意見はちょっと性急すぎるように思う。

 鈴木宗男事件にまつわる話から思い出すのは、日本の外務省、各国に散る大使館、領事館のことだ。かれらの仕事の第一はその土地に住む日本人の安全、生命を守ることと当事国とのコミュニケーションだが、この点、アメリカの領事館や大使館にはとてもかなわない。日本の外務省がもっとも一生懸命やっているのは、本国から政治家がやってくるときの接待と観光案内だけである。度し難い管吏根性。

 田中真紀子の幼児性、判断力の欠落、羞恥心の欠如、思い上がり、等々を指摘したうえで、「田中真紀子と辻本の感情的な表現は男女同権を目指す多くの女性たちの足を引っ張った」という。要するに、女たちはあれほど低脳ではないというのだが、まったく同感である。

 「完全無欠な人間は存在しないからこそ、人は神を承認するほかはなかった」

 「信仰は脅威を滋養として、不可思議を揺籃する」とはピエール・バレとジャンノエルの言葉だそうだ。

 それにしれも、宇宙の不可思議さ、不可解さが神を信仰する糧というのなら、人間は永遠に「神の想定」という枠のなかから逃れられない。 また、もし、神が存在し、煩悩に苦悶する人間を創造したとしたら、人間はオンステージとはいえ、神を観客とする「ピエロ」ではないか。私は神を想定したことはただの一度もない。

 ただ、修道士たちが科学者の邪魔、妨害をしたことは歴史的事実、ある場合には殺害までしている。さらには、宣教師を僻地に送って、その後で、軍隊を送り、現地を侵略し、多くの現地人を殺戮し、植民地化した歴史的事実について、作者はどう考えているのだろうか。

 「人間とは性悪な生き物だ」ということを本書のなかでなんどか語っている。たとえば、「人間は利己主義のために簡単に人道主義を棄てる」という。

 「人間は生きている以上、不幸と闘っている」といわずに、「人間は幸福になる権利を有する」などと美辞麗句をいったために、生きる軸をかえって失う。変幻自在な、不純な、人間性をもろに勇気をもって受けとるのが人生であり、日本人にはその厚みが欠けている」と指摘する。(世の中には言葉のレトリックが何百もあり、それに躍るのが人間、それも事実だが、かといって、十字軍やキリスト教徒が多くの人間を殺した事実を許容するのが「人間としての厚み」だというのなら、人類とは最低の生物というしかない)。

 確かに、死の直前、「わたしはこれまで清く、正しく、美しく生きてきました」などといえる人はわずかであろう。

 曽野さんはアメリカのテロで二、三千人が死んだことよりも、日本で一年間に3万人が自殺したことを重く見る。「人間は死に近いほど自殺しない」「戦地で逃亡する兵はいても、自殺する兵はいない」「乞食やホームレスも自殺しない」。要するに、「自殺は贅沢病」だという。世界中に、体を売って、日銭を稼ぐ女がいるが、彼女たちは自殺しない。むかし、「川の字に寝る」という言葉あった。そういう寝方をしていた貧しかったころ、この国に自殺者は僅かだった。例外は芸術家だけである。

 「地球上に怒りの種は尽きない」と仰るが、私にはその種をつくる人間という生物が宇宙という大自然が創造した最大のミステークだったように思えて仕方がない。

 さいごに、腕力の強い男には武器で対抗できるが、頭脳明晰な女に舌鋒鋭く切り込まれては、沈黙以外に対抗手段はない。女は怖いけれども、頭のよい女はいっそう怖い。その怖い、怖い曽野綾子氏にこれだけ長文の書評を書いてしまった。後悔しそうな気がしている。面と向かって話したら、張り倒されそうな気もする。

 本文に「ご亭主」のことがちょっと出てくるが、ご亭主は曽野綾子を尊敬し畏敬し、ときに敬遠しつつ、生活してるのだろうか、それとも、「こんな可愛い女はいない」と、髪を愛撫し、べたべたしながら生活しているのだろうか。いっておくが、これはただの邪推であり、下種(げす)の勘ぐりである。


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