ペリー提督 海洋人の肖像/小島敦夫著

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ペリー提督 海洋人の肖像

「ペリー提督 海洋人の肖像」 小島敦夫著
講談社現代新書   2005年12月新刊

 幕末、鎖国日本を強引に開国に踏み切らせた男、ペリーという人物について、われわれ日本人の多くはあまり良いイメージを抱いていない。

 「外圧に弱い日本外交」はいまや日本人のだれもが脳裏に描く図柄にすらなっている。その発端こそが「武力的威嚇」という手段に出て開国を成功に導いたペリー提督であった。アメリカという国はいまでもしばしばその種の対外手段を採るが、アメリカ人のなかにペリーの達成した事績を知る者が少ないというのは大いなる皮肉というべきか。

 当時、西欧諸国はもとよりロシアも重い鉄の扉で閉ざされた日本を開国させようと必死だったが、どのような努力もことごとく日本人の姑息な手段や二枚舌や頑迷さをもって排除されていた。現実に、ペリーの前に、ビドル提督がアメリカ大統領の親書を携えて訪日したが、ときの老中、阿部正弘はこれを侮辱的なやり方で追い払った。

 (このような姿勢はかつて元が日本に何度も使節を送り、朝貢を強いたとき、無視したり、殺害したりした外交上の無知と酷似している)。

 ペリーは事前に日本に関する情報を可能なかぎり入手し、そのうえで、「因習的で、尊大かつ排他的な」幕藩体制を恫喝によって混乱させることを決断し、強引に東京湾に入って江戸市民を驚嘆させ、同時に、幕府の武家官僚たちを右往左往させ、思惑通り目的を達成した。

 (尊大な態度をとるくせに、現実に脅威をみせつけられると、パニックを起こすのも日本人に共通する性格)。

 にもかかわらず、アメリカ本国でペリーの業績は歓迎されていない。これは当時、アメリカが独立したあとも、カナダを領有するイギリスがしばしば戦艦を米国東海岸に接近させては砲撃していたという武力を介しての外交に批判的だったことと、ペリーが帰国して数年後には南北戦争がはじまったという不運が重なった。

 とはいえ、日米両国民のペリーに関するイメージがどうあれ、ペリーの業績はまっとうに評価されてしかるべきであり、著者の狙いもそこにある。著者のいう「一人の実務に徹した人物と社会とのかかわりという歴史的教訓を汲み取ること」に、本書は成功している。

 帰国後のペリーの腹のうちはさぞや煮えくりかえるものだったろう。「あの頑迷、固陋な国を開かせたのは、この俺だ」という自負心を生涯もちつづけただろうが、米国の一般からはほとんど無視され、稚気に等しい自慢としかみてもらえなかったという。それは、むろん、米国民一般が極東の日本に関して無知であり、かつ無関心だったからだ。

 本書はペリーの家系、家族、生い立ちから、海の男として成熟していく過程、海戦の経験、日本を訪れ、開国に成功し、帰国後63歳で死を迎えるまでのことを、当時のアメリカ社会の実態を背景としつつ、紹介している。

 日本人がペリーに贈った品物のなかに「シュロづくりの箒(ほうき)」があったという話が興味を惹いた。

 著者はこれが文化財の一つとしてアメリカで保存されているのを発見、「厄払い」の意味をこめるものだとしたら、当時の日本人の底意地の悪さ、卑劣さを思わずにはいられないという。それが「邪推でなければよいが」との言葉があるが、私は著者の「勘ぐり」こそがあたっているという気がしてならない。

 ペリー帰国後のスピーチに、この人物の先見の明がみてとれる。

1.USAにとって最大の敵はいずれ西欧諸国ではなくロシアとなろう。
2.日本は機械分野において将来手ごわい競争相手となるであろう。

 本書を読んだら、本ブログにも書評した岩波書店から出ている文庫、「ハリスの日本滞在記」の「中」と「下」を読むことをお勧めする。この一年間に読んだ本のなかで一番おもしろかった本だからである。「上」は日本とは関係のないタイでの滞在記。


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