喪失の国・日本/M.K.シャルマ著

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「喪失の国・日本」 M.K.シャルマ(M. K. Sharma/インド人/1955年生)著
訳者:山田和(インド研究家/インド訪問は頻繁)
帯広告:インド・エリート・ビジネスマンの「日本体験記」
1998年に雑誌「諸君」に掲載、2001年文芸春秋社より単行本
2004年1月、同社より文庫化初版  ¥657

 面白く学べる本との巡り合いを求め、ジャンルの異なる本を、主に書中に挟まれたチラシから選んでは書店から取り寄せてもらうのだが、なかなかこれという本との邂逅(かいこう)には恵まれないものだが、ここに紹介する本は間違いなく読んでよかった、千載一遇のチャンスに遭遇したとの思いが残った。

 私自身はこれまで13年間をアメリカ、カナダとかかわり、3年余を日本人を海外に出す業務にかかわり、6年間をバリ島に滞在し、10年を沖縄で過ごした経験から、日本という国を内外から眺める機会が多くあり、最近の日本に浅はかなもの、薄っぺらなものを感じ、この国の行く末に不安を感じ、そうした感想を本ブログにも正直に披瀝してきたが、本書のインド人による「日本滞在記」からは望外のものを得ることができた。

 訳者の言にもあるが、日本人がインドを旅すると、両国の文化的ギャップに仰天するものだが、逆にインド人が日本に滞在したら、どのように感じ、どのような反応をみせるのか、私の好奇心は否応なく刺激された。

 北海道の一部を除き、ほとんど単一民族で、しかも四周を海に囲まれた島国で、宗教心は希薄な日本人、一方のインドは宗教心に厚いだけでなく、何百と存在する民族、言語、異教徒をもつ、互いに正反対の、ある面では相互に理解不能の状況がある。

 本書には「我が意を得たり」と思えた部分もあるが、学んだというより、教えられたことが多々あったこと、その思考の深さにも、理論の展開にも驚嘆、賞賛に値する。

 著者は1992年から1年8か月という期間、日印関係の良好な頃、インド企業から日本市場を視察する目的で派遣された。ちなみに、作者の父親は太平洋戦争時、インパール作戦で日本兵とともに戦った経験があり、以来、日本を憧れ続け、息子がその日本に行くことを耳にし、息子以上に興奮もし、誇りにも思ったという。だから、欧米による植民地争奪戦がくりひろげられていた当時、少なくとも南アジアでは日本はアジアの勇であり、「侵略戦争」をしたなどという印象は僅かにもなく、救世主さながらに賛美、憧憬したものだという。あるいは、国によって、対応した日本軍によっても、印象はかなり異なったであろう。

 脳裏に残った部分だけを、懲りずに、以下列記する。

1.初めて日本行きのエア・インディアに乗ったら、ビーフステーキも供される事実に仰天。インド人は牛の肉は絶対に食べない。牛は神の化身だから。同じ飛行機に乗り合わせた日本人の団体は若い女を含め、牛肉を食い、酒を飲み、タバコをふかしている。女性のそういう光景に接したのは生まれて初めてだった。「人間にとって自由とはなんと愚かなことか」と嘆いた。

 (キリスト教もイスラム教もユダヤ教が派生した宗教だが、イスラム教の方がユダヤ教を真似て、食事の禁止をより強く戒律に残したといわれる。とはいえ、バリ島のヒンドゥー教徒は牛肉を食べるし、犬の肉も口にする。宗教に束縛されない立場から見れば、食事によって制限をもうける宗教、とくにイスラム教徒、ユダヤ教徒は観光客としてケアする対象としては面倒な相手ではある。ユダヤ人は「コーシャー・フード」が有名。

 自由は生きる権利ではあるが、だからといって、それが高徳で善的なものというわけではない。ことに、日本人の団体は巡礼目的でインドを訪れている。そのような心構えの人が巡礼時に飲酒や喫煙を慎むのが当然ではないか。(私には毎年の春に、上野の山に咲く桜の季節に人々が大挙して訪れ、桜の下にビニールを敷き、酒を飲み交わして酔っ払って大騒ぎをするというワンパターンの桜見物の在り方が腑に落ちないし、納得もできない。なぜ、桜を鑑賞するのに酒が要るのかも解らない。とはいえ、インドを訪れる日本人がみな巡礼目的だとは限らない)。

2.飛行機のトイレでまたびっくり。普段は水を使っているインド人にとって、冷たい便器に腰をおろすことも初めてなら、ペーパーで尻を拭くのも初めての経験。仕方なく、靴のまま便器の上に乗って用を足した。(かつての日本人と同じだが、もし中国15億の民とインド8億の民がみんなトイレで紙を使うようになったら、世界から樹木は消えるだろう)。

3.日本到着後、空港の銀行で両替をしたとき、もらった札を何度も数えていたら、銀行員に笑われた。この国では枚数をごまかすことがないことを後日教えられたが、日本人は釣銭を数える習慣もなく、荷物から身を離しても平気な民族であることも知った。安全が武器によってではなく、信頼によって実現されている国は世界に例がない。とはいえ、これでは、インドはおろか、どこに旅行しても、きわめて危険な目に遭う。

 (信頼が文化であるがゆえに、犯罪に対しての防御の姿勢が甘くなるのも事実。だから、海外に出て、ひどい目に遭うことも稀ではない)

4.最近、日本人は祝祭日に国旗を掲揚しなくなったが、もし、昔風に国旗が各家庭で掲揚するようになったら、外国人旅行者は拒絶されたように感じ、震えあがるだろう。あるいは、クーデターが起きて、新しい国家ができたと勘違いするだろう。

5.日本人はサクラを武士道の象徴だと勘違いしている。帝国主義時代に、散り際の潔さに目をつけた軍の上層部の人間が、「日本国民はサクラのように潔く、皇国のために、散ることを惜しむな」と教えられたに過ぎない。

 (日本人が桜の散り際の潔さに感銘を受けたのは古来からであって、「武士(もののふ)といわれる立場にいるなら、プライドに生きよ、生に拘泥するな」という処世訓があったとしても不思議はない)。

6.日本の新しいマンションにはナンセンスな名前をつけるのが流行しているらしい。マンションがマンションではなく、シャトーがシャトーではなく、実態に比べ誇大な表現を使い、いわば「販売のトリック」に使われている。居住する人間も住所を書く限り、格好がいいと納得する。実質を伴わない名称に抵抗感がないのは、羞恥心のかけらもない日本民族の最近の現象で、日本人らしさの喪失のように思える。

 (業者の販売姿勢に消費者が慣らされたというである。日本人一般は英語でいう「マンション」というものがどのような邸宅なのかに関し無知であり、事実はただのコンドミニアム「集合住宅」に過ぎないことを現在では誰もが熟知している)。

7.日本の新聞を見て驚いた。インドは日本から相当の援助を受けている国だから、日本が常々関心を抱いていると思い、当然マスコミはインドについて書いているだろうと推測していたら、アジアに関することは僅かで、海外については、ほとんどが欧米中心の記事で埋められていた。日本がアジアの情報センターでないことに、意外の感とともに、憮然たる気分に陥った。

 (日本人が口にするグローバリズムというのは、欧米を言うのであって、発展途上国は視野に入っていないし、多様な文化をもつアジアを理解してもいない。眼中にあるはずの欧米に関してだって、TVでニュースとして採り上げる頻度は先進国としてはお粗末なほど僅かで、海外情報に飢餓感が私にはある)。

8.新聞は、国内記事についても、事件中心で、論評は乏しく、非個性的。どの新聞も外見的記述に終始。この姿勢は報道というより単なる報告の域を出ていない。帰納法的な論法や見識が排除され、署名記事や論説委員による記事の割合も少ない。後日になって知ったのは、週刊誌や月間誌、あるいは芸能ゴシップ誌まであり、それを週刊誌文化と呼び、ある意味で、新聞を補っているというが、これも世界に稀な珍現象。

 (民放TVの報道はもっとひどい。同じ内容の事件をどのチャンネルもやるし、場合によっては、次の日も次の日もやる。はっきりいって、日本の報道姿勢にはそれぞれに個性というものが欠落している。かといって、アメリカ、イギリス、フランスに顕著なパパラッチによる追っかけ取材や遠距離からの盗撮まがいの写真は先進国一般の守るべきマナーから逸脱しているように感ずる)。

9.日本は英語教育が義務化され、盛んだと聞いていたが、実際には非常に通じにくい国であることが判った。   (インドは歴史上、イギリスの植民地になったために、英語が普及しただけのことで、現実にインド人のしゃべる英語はきわめて癖が強く、耳に逆らうことが多いが、インド人自身は自分のしゃべる英語に過剰なほどの自信をもっている。だから、日本人の感性では、インド人ほど図々しい民族はいないという印象になる)。

10.マンションの特徴の一つは、隣同士が全くつき合わないこと。インドでも同じケースがあるが、それはカーストや職能集団による歴史的階級的分断である。それが人間関係の抑圧からの回避である以上、自由に見えて、どこかに同じ質の極端を有している。また、日本人が居住する分譲マンションの資産価値の推移に関してひどく神経質なことにも驚いた。

11.どこもかしこも綺麗で、清潔で、システィマティックで、人々は礼儀正しくて親切、あらゆる商品が無造作に目の前に並べられ、誰も盗もうとしない。

 (最近では、万引きが増えていることが報道されているが、落し物が出てきて落とし主に返ってくるという点は、すべてのケースではないにしても、日本だけである)。

12.食品の溢れているマーケットに蝿一匹いないことにも一驚を喫した。(だから、日本人は発展途上国へ旅行すると、すぐ下痢したり、発熱したりする。要するに、清潔すぎることが免疫力を低下させている)。

13.玄関で靴を手でそろえる姿をインドで見たら、それは卑しい行為であり、カーストの低い身分の人間だと見てしまうだろう。文化というものは、実に些細な部分から価値観の成り立ちが違うことに気づいた。

 (カーストなどというプリミティブな身分階級に束縛されているインド社会自体に問題がある。さらにいえば、日本人が履いている靴は決して汚なくはない)。

14.日本女性が酒の酌をするのも驚きだったが、女性がアルコールを飲むのも意外だった。(中国でも韓国でも、欧米はもちろんだが、女性だってアルコールを飲むだろう。インドでの風習の一部は、宗教からくる男尊女卑と封建性、保守性に依拠しているだけで、これもきわめてプリミティブ)。

15.鍋料理のとき、あちこちから、それぞれの唾のついた箸が入ってきたのにも驚いた。インドなら、親子だって、兄弟だって、そんなことはしない。清潔で、こぎれいな日本の食卓の作法とは到底思えなかった。

 (熱湯を通して具をのせる鍋に箸を突っ込んだところで、病気が感染するなどはない)。

16.日本人は桜が咲く季節になると、桜の木の下にビニールシートを置き、呑めや歌えやの世界に入る。桜の花はちょっとした風にも吹かれると落下してしまうから、ほんの二、三日の楽しみらしい。

 (私自身はこういうことをしたことがなく、ときどきは度が過ぎて酩酊した男同士の喧嘩やいざこざまでがあるらしいが、あたりまえの教養のない人間の醜態というほかはない。)

17.インドでは、人前で歌を歌うのは乞食。ミュージシャンも乞食。これはかつて王や貴族が歌姫や舞姫たちを屋敷に呼んで歌わせたり舞わせたりした名残。だから、インドではカラオケは絶対にはやらない。(日本にだって、歌い手や踊り子は「河原乞食」と呼ばれた時代があった。)

18.日本人の好きなコンピューターゲームは内容が殺伐としている。生存を賭けた殺人と、遊びの殺人とは決定的な違いがある。そのことをゲーム好きな日本人は認識していない。サバイバル志向のアウトドアブームはただのネイチャータッチングに過ぎず、実質が欠落している。(それでも、欧米では人気があり、評価の声が高い)。

19.日本人の言う「豊かさ」とは、欲望の充足と消費。かつて、日本人に共通した美徳は禁欲だったはずだが。

 (こういう豊かさを想定するようになったのは、戦後、アメリカナイズされた生活から発祥し、戦後の平和ボケの間に禁欲や質素であることを美徳と考える姿勢が次第に希薄になった)。

20.日本では、資料や食料を電話で注文すると、翌日には現物が間違いなく配達される。しかも、チップも要らない。荷物も手紙も間違いなく相手に届く。郵便に高い信頼性が保証されている。インドでは書留なら届くが、普通便だと、中身が抜かれたり、消えてしまったりする。(インドだけでなく、インドネシアやマレーシアでも、発展途上国では一般的に、先進国からの手紙は開封されてしまう例が多い。多少高くはなるが、「Fedex」を使う以外にない)。

21.(幼児を乳母車に乗せて公園デビュー、入手した犬を連れて同好の仲間に入るための条件などが縷々書かれて、批判されているが、私には、こうしたことが日本中どこの公園でも行われているとは思えない)。

22.深夜まで働くことを勤勉だと信じ、そのことを過酷とも無慈悲とも認識しないのが日本人。ことの良し悪し以上に努力することに価値観をもち、やたらに「頑張れ」と言う。目的語のない「頑張れ」が日本中で頻発する。

 (日本人の多くが「頑張れ」とは言うまいと思いつつ、つい「頑張れ」と言ってしまうことが多いのは事実。「言うまいと思えど、つい出る、頑張れと」という川柳もあり、私個人は「頑張れ」と「大丈夫」が好きになれず、使わないように努力している。とはいえ、日本人が「頑張れ」と「だいじゅぶ」が好きな国民であることはすでに世界の知るところ)。

23.勝算のきわめて少ない戦争を、合理性、客観性、論理性で計らず、ひたすら情念に思いを込めて行った過去の歴史に、日本人の伝統的な性向を見出すことができる。目的より体面や手段のあり方に拘泥する。

 (日本人にはときとして合理性の欠片もない心情的な言動が、まるで発狂したように起こる。太平洋戦争への突入もそのうちの一つだが、リーダーの質やリーダシップのあり方によっても、結果を天と地の差にすることが多々ある。太平洋戦争時、日本はまもとなリーダーに恵まれなかった)。

24.数百の異民族、異教徒が混在するインドには、それと同じ数だけの社会がある。それは、インドに異なった種類の掟や、常識や非常識がひしめいていることを暗示しているだけでなく、至るところに予測しがたい文化的な陥穽(かんせい)が潜んでいることを意味している。インド社会は無数の文化的地雷原の上で営まれている。

25.日本人は「メニュー文化」のなかで生活している。レストランはいうに及ばず、旅行も、住居も、墓石も、結婚式も、果ては葬儀にも、大学の講義にすら。

 (メニュー文化が旧悪習をくつがえしたという例もある。たとえば、むかしの寿司屋では、値段が表示されず、常に時価であり、いくらとられるのか、食べ終わるまで判らないという悪習があった。回転寿司によるメーニュー&プライスの明確化によって、古いタイプの寿司屋の多くが倒産した。ただ、レストランのチェーン展開は、どこの店も同じレシピで料理するため、味も同じで、個性的な味わいの多くが失われたというデメリットは否定できない)。

26.「自由」というものは人間にとって、実は厄介なもの。

 (アメリカの自由放任主義が生んだ過度の経済投機が現在の金融恐慌を生み出した元凶であることを、はからずも言い当てている)。

27.日本人の大人は幼稚で下品な漫画を電車のなかで平気で読む。週刊誌の数ページには若い女の裸の写真がある。

 (日本の漫画がすべて幼稚で下品ということはない。だからこそ、漫画もアニメも世界を席巻(せっけん)している。イギリスの大英博物館では日本の漫画の展示会を行なう予定だと仄聞するし、フランスのパリでも日本文化博物館の開催をいずれ行なう予定と聞いている。作者はポルノ漫画しか知らないのではないか)。

28.日本文化は過去、「樹木」をベースに育まれてきた。木で家を建て、木目を愛するあまり塗装もせず、白木を使った。そういう文化を育んだ土地が今やコンクリートのビルと高速道路で埋めつくされている。インドや中国は石の文化だから、コンクリートが文化を破壊することはないが、戦後の日本は自らの文化を破壊しつつ経済成長を果たしてきたように思われる。そのことは、日本本来の本質や精神や美徳をも破壊することにならないのか。

 (中国だって、コンクリートジャングルが、砂漠化を促進しているし、砂漠化が都市を変貌させつつある。日本はインドと異なり、地震国であり、耐震建築への志向が強いのは理の当然。木造建築への憧憬はあるが、地震の多発するこの国では耐震建築を考えざるを得ず、木造建築に二の足を踏むのも当然。それよりも、中国の春になると飛んでくる黄沙をなんとかするよう周辺諸国が一緒になって厳しく言うべきではなかろうか)。

29.日本のサラリーマン社会は、各々の肩書きとは別の心情的なニュアンスを含んだ呼び方をするケースが多い。そこには、威嚇もあれば、恭順もあり、牽制もあれば、親愛もある。(人間には肩書きとは別に、本来的に持って生まれた人間としてのパワーがある。そういうなかに、業務を遂行する上で、きわめて効果的な力を発揮する部下や上司が時に存在する。であるなら、そのパワーを存分に発揮させるのが優れた組織というものではないか)。

 30.日本には古くから「恥」の概念が倫理の底辺を形づくり、社会秩序を統御してきたし、恥のために自殺さえすることができる風土がある。しかし、なにを「恥」と考えるかはインド人とは、かなり違う。打ち上げの宴で、酒食を共にし、二次会、三次会と梯子をし、果てはピンクサロンにまで同道し、さいごは共に女を買い、連れ小便をして帰宅する、そういう行為に日本人は恥を感じないばかりか、そういう行為を共にすることにむしろ連帯意識を持ち、ときには契約の成立に漕ぎ着ける。インド人には到底マネのできない習慣というしかない。

 酒の席で粗相をしても、それは恥ではなく、「酒のうえでのこと」と、大目に見られる。このようなことは、インド人には理解不能。日本人は理知や合理性よりも、朴訥さ、赤裸々さ、磊落さなどで人を信頼する。

 (一般に東洋人はアルコールに弱いといわれるが、就中(なかんずく)、モンゴロイド系列(韓国人、中国人、日本人、ポリネシア人など)は、幼児の頃に尻に青い班をもつ点で同系列の民族ではあるが、アルコールに弱い点、下戸が存在する点では同じレベルだといわれる。なかでも、日本人に最も下戸は多いらしい。だから、「酒のうえのことだから」という言い訳がしきりに耳に入ってくるが、これは世界に通用しない甘えというしかない。一気飲みを強要して死亡させることすらあるが、これだって、誰もが酒に強かったらやらないだろう)。

31.日本語の「人間」という字は「ヒト」ではなく、「ヒトとヒトのあいだ」、つまり世間を意識した複数の関係に在ってはじめて人間になることを意味している。日本人が「人間として」「人間らしく」というとき、個としてのニュアンスはなく、「社会的立場において」という没個性的ニュアンスをもつ。だから、日本人の自意識は常に対世間にあり、宗教心の厚い者のような「神の前に立つ」という意識は全くない。日本社会にインド人が適応するとしたら、インド社会に存在する数々のタブーを破らねばならない。

 (神とは関係なく、人間は一人では生きていけないという事実は、日本だけでなくインドにも通ずる真理であろう。指摘されたような精神的な人間関係は日本列島のもつ自然との関係における厳しさのなかで育まれたのではなかろうか。大きな自然災害が起こったとき、互いに援け合う、手を携えるという精神がなくては、復興も復旧もできないからだ。だいたい、神も仏もこの世に存在しない。もし実在していたら、世界を現状のような醜悪な状態に放置できるわけがない)。

32.インド人同士の挨拶が「サル社会の順位づけ行動」と同種のものであるのに対し、中年以上の日本人の挨拶は延々と互いに頭を下げあい、ときにはそれが30分も続くことがある。また、相手に優位を譲るべく、相手の頭の位置よりも、一層深くお辞儀をする光景にもぶつかる。ところが、日本の若者同士がこのような挨拶をするのは見たことがない。

33.日本人の平和論者、平和憲法擁護者のほとんどは、思考の裏づけのない平和思想でお茶を濁している。これは、日本の教育のなかに存在するマークシート方式によるテストの影響が否定できない。思考過程の欠落した結果だけを重視する短絡が今や日本人の習い性になってしまったのではないか。

 (仰る通り、平和思考の裏づけも、平和を維持する具体策もなく、「平和が好き」などという幼稚なプロパガンダを言いつのる党が存在することは事実。たった一度の敗戦に懲り懲りして、「もう戦争はしません」と宣言し、自衛隊は配備しても、正規軍に変えようとはしない)。

34.インドが日本とビジネス上のパートナーを組むことの難しさは、日本人のもつ抜きがたいアジア人蔑視と宗教文化への無理解にある。日印で共同企業をつくっても、日本から出向してくる社員は若い人が多く、しかも英語すら満足にしゃべれない。肩書きが上位で、英語力のある社員は欧米に派遣されるからだ。インドはカーストの社会だから、肩書きが下位の人間に対しては、上位者は口をきかない。だから、出向社員はインド人は腹黒く、冷淡だという印象をもち、場合によってはノイローゼに陥る。

 (だから、インド政府が宣言したように、カースト感覚をすべてのインド人から棄てさせるべきではないか。カーストを自国だけならいいが、その封建制をビジネスの世界にも持ち出して理解を要求するのはあまりに自分勝手というものだ)。

35.日本人は倦まず、たゆまず働くが、多くの時間を不必要な接待に費やす。日本人上司は仕事を部下に任せきる度量がなく、ために膨大な残業が生じるという非能率と経費、人件費上の問題が噴出する。

 (日本人はたとえ残業手当がなくとも、夜遅くまで働くし、働くのが好きなのだ。とはいえ、実態としては、それぞれの企業によっても、個人によっても、ビジネスの勧め方は異なる。ビジネストーキングの場合、はじめからディシジョン・メーカーを出すというやり方に最近は変わってきたのではないか)。

36.欧米の合理主義、自由主義がアジアに押しつけたエゴイズムを、日本に滞在することで学ぶことができた。欧米に倣うことの愚も学ぶことができた。

 努力という行為の目的、つまり幸福の意味について、われわれは近代的な価値観、たとえば「勝者と敗者」といった感覚に、捉われすぎている。近代国家では、努力の意味は生産性に対するプラスのイメージでしか捉えていない。成果のない努力は努力とは認められず、努力が本来の輝きを失ってしまう。このことは欧米も日本も同じレベル。

 (現在は、金融恐慌のおかげで、アメリカ型の資本主義のあり方が反省期に入っている。過剰な投機心理をコントロールできないと、資本主義は崩壊するだろう)。

 以上、できるだけ少なくして選択したポイントを挙げたが、「なるほど」と思わせる言句が多かったし、教えられることも僅かではなかった。

 ただ、インド人が自らビジネスを厳しくし、損しているのは、カーストからくる過剰な階級意識と封建性であり、こうした意識がどれだけビジネスの足を引っ張っているかを悟るべきだと私は思っている。同じヒンドゥー教のバリ人は既にカースト意識から離れ、職業の選択も自由だし、カースト上位者と下位者との結婚も可能であり、そうした社会を再構築できたことが、今日、観光の島として成功をおさめる鍵となっている。 

 「インドに、これだけ言いたい放題の批判に曝されることはない」と突っ張りたいところも多々あることは事実だが、「インドと中国と、いずれの国と仲良くなりたいか?」と訊かれれば、迷いなく「インド」と、私なら応える。


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