モンテンルパの夜明け/新井恵美子著

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もんてんるぱのよあけ

「モンテンルパの夜明け」 新井恵美子(1939年生)著
副題:BC級戦犯の命を救った歌を作った人々
帯広告:昭和27年、マニラのモンテンルパ監獄に繋がれた日本人戦犯の命を救った歌が大ヒット
1996年11月 潮出版社より単行本
2008年11月11日 光人社NF文庫より文庫化初版
¥648+税

 「モンテンルパ」という言葉を耳にして想起されたのは、両親や叔父や伯母が口ずさんでいた歌、「あゝモンテンルパの夜は更けて」という歌だった。

 本書を読んで、それがフィリピンのマニラから南へ28キロに在る丘のことで、そこに戦後日本兵を収容する牢獄が在ったことを知った。

 当時、フィリピンはアメリカがスペインとの戦争に勝利したあと、アメリカの植民地になっており、太平洋戦争が始まってすぐに、日本軍部は50万の兵士をフィリピンに送り込んだが、当初こそフィリピン人は植民地のくびきから解放してくれることを期待して日本軍隊を歓迎したものの、日本軍はある時期から態度を豹変させ、フィリピン人を虐待、拷問、殺害の対象としたため、日本人への憎悪が高まり、対日感情は最悪の状態に変わった。

 ために、終戦後、モンテンルパに繋がれた戦犯の日本兵士らは、米国による軍事裁判が終わったあとも、フィリピン政府による裁判が続き、牢獄に繋がれた150人の兵士がフィリピン側がいう事件との関係の有無に拘わらず、憎悪の的であり続け、復讐的、報復的な裁判となった。つまり、戦時中に犯した日本兵士らの横暴に対する怨恨の対象として存在することになったため、内地にいる日本人一般が戦後、復興への道をわき目も振らずに邁進していくなか、外地に残留せざるを得なかった兵士らへの救済の手はなかなか伸びることはなかった。

 ことに、戦後6年経過した昭和26年に、仲間の14人が突然処刑されたことは衝撃的であり、牢獄内の兵士らは戦々恐々とする日々に耐えねばならなかった。

 昭和23年にシベリアに抑留されていた日本兵士で作曲家でもあった吉田正によって作詞、作曲された「異国の丘」が大ヒットしたことを知ったモンテンルパ担当の教誨師はこれに倣って、捕虜となっていた二人の男性に歌をつくるよう指示、できあがったのが「あぁ、モンテンルパの夜は更けて」であり、これを歌ってくれたのが当時の人気女性歌手、渡辺はま子だった。渡辺はま子はモンテンルパの収容所に慰問に来たこともあり、以後、救済活動にも積極的に参加した。

 歌の一番は「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない、遠いふるさと偲びつつ、涙にくもる月影に、やさしい母の夢をみる」という詩。

 時のフィリピン大統領、キリノ自身が日本軍による拷問を受けた経験があるばかりか、妻子は日本軍によって虐殺されてもおり、キリノ大統領自身の胸底にも、日本軍人に対する怨恨の情が抜きがたくあった。大統領の気持ちを癒し、心を動かしたのが、教誨師が贈呈したオルゴールで、「モンテンルパの夜は更けて」の哀切なメロディーに感ずるところがあったといわれる。

 昭和27年当時の外地残留の日本兵はシベリアに10万人、フィリピンに109人、マヌス島に206人といわれ、戦時中にフィリピンで死んだ日本兵は50万に近いといわれる。(フィリピンでの死因のほとんどはマラリア。それにしても、シベリアに10万というのは、日本のポツダム宣言受託直前に不可侵条約を放棄して参戦したロシア人の酷薄さ、狡猾さが際立っている)。

 歌はレコード化され、日本国内でテレビやラジオを通じて流されるにおよび、支援者の数も増え、救済を目的とする嘆願書には500万人の署名が集まった。

 キリノ大統領は28年に特赦を決意、7月に特赦のための式を挙行すると決め、収容所に残っていた日本兵士を、巣鴨プリズン行き(BC戦犯)を56人、釈放は52人とし、「帰国したら二度とフィリピンの地は踏まない」という条件のもと、全員の帰国を了承した。

 日本からマニラまで迎えに出たのは白山丸という船で、横浜に帰還したとき、2万8千人の日本人の出迎えがあった。昭和33年5月には、巣鴨刑務所に入った元日本兵も釈放されたが、釈放されるまでの期間、拘束されることもなく外出も自由だったという。

 朝鮮戦争後、飛躍的に変貌をとげつつある日本社会に適応するため、帰国を果たした兵士とその家族に対する支援がしばらく継続したことは、経済的にも精神的にも帰還者と家族をどれくらい助けたか知れない。

 このような著作を書くかぎり、当時のフィリピン全土における戦況、日本軍の動き、米軍の対応、フィリピン人ゲリラの動向など、多岐にわたって書き加えざるを得ないことは理解できるが、大岡昇平の「レイテ戦記」などを代表とする文献は他に幾らもあり、そうした部分を再読せざるを得なかったことには辛いものがあった。

 また、全体の構成にも時系列を守って書かれていないという欠点があり、ために同じ内容がダブることもあって、プロの書いた著作という印象はなかった。


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