国家の品格/藤原正彦著(その1)

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国家の品格

「国家の品格」  藤原正彦著
新潮新書  2005年1月初版

 一般人には到底理解できないような難度の高い数学を研究している人物がこの種の著作(たとえば、以前に本ブログで紹介したことのある「祖国は国語」など)を、やむにやまれぬ気持ちから世に送り出す、その気風に私は好意をもっている。一番怖い人物が奥さんらしいところにも好意を持っているし、その奥さんに「あなたは大風呂敷」といわれたことにも、好感をもっている。

 ただ、今回の著作には若干混乱した。と同時に、あまりに心に引っかかる話が多く、書評から割愛できなくなって、かくも長ったらしい文章をブログに記すことにもなった。それだけ、本人も本気で取り組んだ一書だったと思われる。

 私はかつて、このブログに「共産圏が崩壊したからといって、民主主義社会が人類が到達した最高、最善の社会形態だとはいえない」と断言したとがあり、本書はある意味で、私自身の考えに一致する部分がありもするが、解決のつかなった部分を白日のもとに曝し、疑心暗鬼だったものを丁寧に、明快に解き明かしてくれてもいる。

 著者はまず「アメリカのデモクラシーと自由市場原理の他国への押し付けに対抗し、日本は『孤高の日本』であれというが、テクノロジーの発達によって、ますます時間的に狭くなった地球上で、国際舞台に立たずしてビジネスはできないし、海外に出れば海外の常識というものがあり、ローカルのロジックもあって、われわれとしてはそれも理解する用意がなくてはやっていけない。「孤高」を貫くうちに、ほかの企業にビジネスを奪われかねないという実態もある。グローバリズムが進む世界で、一国が単独で生きていくことは不可能にもなっている。

 「16世紀、日本はすでに統一国家をなしとげていたが、当時の欧州では一国も統一された国はなく、ローカルロード(地方領土の主)間の抗争、領土争いが続いていた。日本と同じ島国であるイギリスでさえ例外ではなかった」。

 (私は日本が統一国家を達成できたのは、ひとえに中国がその長い歴史のなかで武力を誇示し、海外に侵略を(元を除いて)しなかったことと、海を隔てた島国であったことに負うていると思っている)。

 「EUという名に一括りにされ、そこに東ヨーロッパの旧ソ連圏内だった貧乏人たちが大挙して訪れるようになったため、ベルギーやドイツから高級車の盗難が相次ぎ、地続きの自分の国に逃げてしまうから、手に負えないと嘆く」友人の数学者の話には「いずこも同じ秋の夕暮れ」だなと笑ってしまった。教育問題、少子化(外国からの移住者を除く)、労働の質の低下、家庭崩壊、薬物使用は、世界中の先進国で避けて通れない難問になっている。

 唐突だが、第一次大戦のあと、パリの講和会議で、日本は「人種平等法案」を提出し、イギリス、アメリカ、フランス、オーストリアによる反対で、否決されたという苦い経験がある。この時点から、日本人の「対白人種怨念」がスタートしたと著者はいう。

 「マルキシズムも、自由競争社会も、民主主義社会も、それぞれ論理だけは通っているが、共産社会は人類という種に適していず、崩壊は目に見えていた。民主主義、資本主義、自由競争、成果主義は個々の組織には筋が通ってはいても、敗者へのいたわりに欠けている論理であり、究極までいくと『ケダモノ社会』になってしまう。なぜなら、自由市場経済が進んだ結果は、冨の偏りを極端なものにし、人口の1%が冨の半分近くを占有する事態が招来されるからだ」と。

 「弱肉強食の成れの果ての一部としては、ニューヨークと北京の比較がある。赤ちゃんが満一歳まで生き延びる確率はいまでは北京のほうが上なのだ。貧富の差、弱肉強食の末路を見るようではないか」。

 (もっとも、この事実は「一人っ子政策」の恩恵が裏面にあるように思われるから、北京や上海と、地方都市との比較をチェックしないと明瞭な回答とはならないだろう)。

 また、「デリバティブ」につついては、週刊誌で読み多少の知識はあったが、「導入以来、株式市場は最悪のマネーゲームの場と化している」という。「デリバティブ」とは数学的にいうと、『確率微分方程式』という高等数学をベースにした経済理論、一面『理論の権化』『魔物の論理』ともいう」由。1千万円の投資が10億円にもなり得る方式だが、むろんその逆もあり得るわけで、アメリカで超有名だった「エンロン」が大掛かりなデリバティブによる賭けに失敗して、この世から消えてしまった話はまだ耳に新しい。

 「アメリカ社会では、だれもが社会に出ればタイプを打つ。だから、学校で国語の時間を削ってタイプを教えることにした。一見、論理的ではあるが、その結果、子供たちの英語の語彙がお粗末になり、表現が拙劣で、幼稚、文法もでたらめとなった。海軍の新兵の25%が武器の取り扱い書を読めなくなり、当局は慌てふためいた」。

 著者はイギリス人の家庭に招かれたとき、そこの主人から「日本には縄文式土器と弥生式土器があるが、どう違うのか」「元寇というのは、二度あったと聞く。最初と最後とはどういう違いがあるのか」と訊かれて、唖然としたという。イギリス人にはちょっとした、いたずら好きというか、陰険なというか、そういう気質があるとはいえ、、こういう質問に答えきれないと、その人物の文化度が知れてしまう。

 読書から離れた生活が多くなった現在の若者が将来イギリスに留学したとき、日本の文化を説明できるのかという問題だ。

 アメリカの大統領になったジェフェーソンが独立宣言時、「われわれは次の事実を自明と信ずる。すなわち、すべの人間は平等であり、神により生きる自由、そして幸福を追求するなど侵すべからざる権利を与えられていると」。「自由」であることに「神」までもちだされたら、個人的な信仰と変わらない。

 尊敬の眼差しで見られていたジェファーソン自身、100人近い黒人奴隷を自分の家に住まわせ、何人かの女性に対しレイプ同様のことをやったらしく、現在、ジェファーソンと同じDNAをもつニグロイド系の子孫の存在が判明している。コーカソイドがニグロイドを人間とは思っていなかった証拠。

 「西欧でいうヒューマニズムも、人間の尊厳という美しい言葉も、神を同席させないと欠陥を露呈する。一見、論理的にみえる自由、平等の論理の出発点はこのようにいいかげん。 むろん、民主主義は当時世界中に存在する封建社会のくびき、独裁者の暴政から、一般市民を逃れさせるための新しい体制だった。だから、民主主義がいいのだと世界中の人々が思うようになったのだが、中南米の独裁者を支援して、共産化傾向にあった政府の転覆をはかり、多くの無辜の市民を巻き添えにして殺したのはアメリカで、目的と手段とをはき違えている」。

 「現実社会では、われわれの自由は網の目のようなルールのなかで大きく制限されている。法律があり、法規があり、社会規範や社会道徳や倫理があり、いたるところに規制がある。自由を声高に吹聴すること自体に間違いがある。自由の強調は、その延長線上に『身勝手』があるだけ」。

 われわれは生まれてこの方、協調を求められても、徹頭徹尾自由でいられることは絶対にあり得ない。ただ一つ必要な自由は「権力に対する批判」だけである。

 「ドイツですら第一次大戦後、ワイマール憲法をつくり、きちんとした民主国家に変貌していた。主権在民、三権分立、議会制民主主義が盛られた画期的なものだった。1932年、ヒトラーがナチス第一党に躍進した後、各国が協議して決めた条約、軍備縮小を無視、国際連盟から脱退、1936年には非武装のフィンランドに進駐、38年にはオーストリアを併呑、すべての国民はマスメディアとともに熱狂的にこれを支持した。

 「日本だって第一次大戦以降は民主国家だった。それでも、満州事変から大東亜戦争にかけて、国民はもちろん、朝日新聞をはじめあらゆるメディアはこぞって軍国主義を支持した。これらの史実からも、民主主義や主権在民は平和を保持するためのものでないことがよく判る。民主国家でありながら、戦争を起こし、それをバックアップするのは常に国民の側である。 つまり、ドイツも日本も、マスコミのアジテーションに乗った国民の後ろ盾を得て、侵略活動を推し進めたといっていい」。

 「民主主義の本質は主権在民だが、『世論がすべて』と、常にイコール。その国民の判断は、歴史が証明するように、マスメディアによる誘導で決まってしまう。知らぬまに、マスコミが第一権力者に成り上がっていて、三権分立された立法、行政、司法の三権すらマスコミに対してはへりくだる。要するに、「国民の成熟なしに、民主主義は育たない」のだが、「国民は扇動に乗りやすい、いわば衆愚であり、永遠に成熟しないもの」である。

 (だからこそ、くだらない番組を民放テレビは垂れ流して、批判を受けずにすんでいる)。

 「国民が選んだ政治家、企業経営者、学校教育者、警察、官僚機能をもつ部署がマスコミにびくびくしていては、民主主義は守れない」。

 ここで、「国民の暴走を抑止できるにはエリートが必要」であることを強調したい。

 条件がある。その一つは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった何の役にも立たぬ教養をたっぷり身につけていること。庶民とは比較にならぬ圧倒的な大局観や総合判断ができること。第二に、国家、国民のために、いざというとき喜んで命を棄てる気概と覚悟のある人。第三に、俗世(ことに賄賂や金銭欲)に拘泥しない高潔な精神性をもつこと。

 (上記は明らかに「エリート主義」の提案であるが、もとより民主主義とは遠隔にある考え方で、この考え方にはリスクも並存する。「多数決による危険の覚醒であり警鐘」ではあるが、民主主義、多数決主義、民衆を誘導するテレビの視聴率至上主義が大衆による思考力の低迷,、低下を招き、それらの悪循環によるリスクの増大を想定した予防措置、制御装置になり得るのか否かは微妙)。

 フランスやイギリスでは、上の意味でのエリートの育成を怠ったことはない。イギリスにはパブリックスクール、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の出身者、フランスには大学より格上のグランゼゴールの出身者が真のエリートを輩出する。イギリスでは、いまにいたるも、汚職の話は聞いたことがない。だからこそ、世界のあちこちに領土を失った現今でも、世界のほとんどはイギリスの言い分には耳を傾ける。確かに、私自身も外国にいたとき、ラテン系は賄賂を平気で受けるが、アングロサクソンは決して受けないと聞いたことがある。

 贈収賄による汚職、談合、粉飾決算、脱税、汚染物質の垂れ流し、原産地証明の偽証、建設業者による手抜き工事、賞味期限の虚偽記載などなど、この国では、むかしから縁を切れずにいる。個人情報が流出しても、テレビで「大変申し訳ありませんでした。今後二度とこのようなことのないよう、社内体制をしっかりしたものにするつもりです。すみませんでした」といって、一件落着。しかも、これが一種の儀式化し、テレビに撮影されるときだけ、腹をくくった様子、心情が透けて見えるのに、メディアをこれをくりかえすだけで、手法に反省の色がない。

 「自由」と同じレベルで「平等」もフィクションである。

 これはもともと、近代国家を創造するとき、王や貴族が仕切っていた国々に対抗するための「口あたりのよいプロパガンダ」にすぎなかった。差別の厳しい国に対し、「平等」という抵抗軸を無理やり立て、力でねじふせようというのが、闘争好きな欧米人の抗議方式だった。

 しかし、人権と平等を標榜する国での現実は、ハリケーンのときの映像でよく判る。世界を制する、豊かなはずのアメリカで、ニグロイド系の住む場所は危険と隣り合わせであること、逃げたくとも逃げるための車がないこと。これが、平等社会の偽らざる(成果の?)一面である。

 これに対し、日本では、差別や不平等に対しては、抵抗軸をもたず、「惻隠(そくいん)の情」をもって応じてきた」。

 自由と平等はなかなか両立しない、常に衝突する運命をになう。

 「論理や合理を『剛』とすれば、日本人のもつ情緒や形は『柔』である。 硬い構造と柔の構造をあいたずさえて、人間の総合判断は十全のものなるのではないか」。

 自然災害の多い日本だからこそ、それによる死も回避できず、「悠久の自然」「儚い人生」という哲学が育つ。四季が明確で、それぞれの季節に際立って異なる植物が自己をアピールし、花を咲かせ、風景をつくる。「万物流転」「も「無常観」も、こういう土壌から生まれ、万民が納得できた。そして、さらに抽象化され、ついに「もののあわれ」という精神域に達した。 日本の花も葉もそれぞれ繊細で、咲き誇る時はごく短い。そのうえ、熱帯の火焔樹から北方の白樺まで見られる。桜の花は時期がくると一斉に咲き始め、一瞬の風に潔よく散っていく。そういう国土がそこに住む人間に独特の感受性を与え、その感受性が民族の根底に長い歳月をかけて沈殿している。

 欧米人にとって自然は征服すべきものだが、日本人には太古のむかしから「ひざまづく」相手だった。

 「農産物をすべて安い輸入に依存することは、日本の美しい田園風景を破壊し、情緒を育んできた伝統も土壌も崩壊する。だから、農家を守らねばいけない」というが、私は「農産物の100%輸入依存は、自然災害で世界的に飢饉が起こったら、依存度の高い国民から先に死ぬからだ」と思っている。

 「明治期、西欧からパトリオティズム(愛国心)と、ナショナリズム(国益優先主義)が同時に入ってきたため、この国を混乱させた。第二次大戦後、日本人はそのどちらもあっさり棄てた。祖国愛の欠如がわが国に苦境をもたらしている」。

 江戸時代、イギリスだったら騎士にあたる武士階級が、一部の上層階級は除いて、ほとんどが貧しく暮らしながら、苦情を口にしなかったことにも、それでいながら町民や農民がかれらを尊敬していたことにも、当時訪日した外国人は例外なく驚いている。金銭欲を恥とし、道徳心を高くみていた証拠である。イギリスで騎士道が紳士道に変わったように、武士道も言葉を変えてもいいから、たとえば「士道」に変えてもいいから、蘇るようにさせねばならない。

 「弱い者いじめは悪であり、卑怯である」といってきた日本が、日清戦争では、ほとんど抵抗力のない中国を赤子の手をひねるようにして簡単に勝ち、台湾、琉球を奪取し鼻を高くした。それがために軍備の近代化が遅れ、ノモンハンではソ連の機械化された機甲部隊を見て仰天。 日本の行為は武士道からは遠い歴史的な汚点である。

 (その中国も、いまやチベットまで鉄道を敷設、その期間に高山病を含め5千人もの人が死傷、以後軍隊を送り込んで、日本が満州でやったのと同じ武力による支配を完成させつつある。救いがたきは人間というしかない)。

 「武士道を日本の精神のおきどころとする事実を外国人に初めて説明したのが新渡戸稲造の英書だが、著者は内容的な定義に異論のあることは知っているが、自分が幼少のころから父親に叩きこまれた行動基準と同一だといっている。

 「正邪善悪の観念」「敗者への共感」「劣者への同情、「弱者への愛情」、これらは惻隠(そくいん)の情であると説明した。弱肉強食の世界では必ず大量の敗者とわずかな勝者が出る。そのことは、必ず暴動、喧嘩、自殺、自暴自棄を招き、場合によってはクーデターが起こり、社会不安の種になるリスクを包含せざるを得ない。

 「卑怯を憎む心」を育てよ。「法律に違反するから、やらない」という子は目撃者さえいなければやる。「お天道さまが見ているからやらない」「親の顔が脳裏に浮かぶからやらない」子はだれが見ていなくてもやってはいけないことはやらない。誘惑をのけるものはルールではなく、心。 「ルールがあるからやるな」ではなく、「やってはいけないことはやってはいけないのだ」と、善悪の基準の未だ定かでない幼児期には善悪観念を押し付けるのが正当であり、当然の教育。

 人種が違い、文化が違い、言葉が違い、肌の色が違っても、この世にはだれにも通ずる普遍的な価値というものがある。それが心であり、情緒であり、もののあわれである。

 経済には「たかが」という形容詞をつけてもいいが、「伝統」「文化」「情緒」には「たかが」という形容詞はつけられない。人間には99%利害得失で動くようにそれぞれの脳に遺伝子が組み込まれている。これは生存本能だから、どんな人も周囲が教えても教えなくとも自然に利害をベースに動く。残る1%を「情緒」というもので埋め、「もののあわれ」が判るように努力することだ。

 TOEFL(国際英語検定)で、日本はアジアでいつもビリ、これは植民地化されなかったことの証。恥ずべきことではない。

 知識や技術は蓄積できるが、人間としての賢さも情緒力も一代限り。英国の歴史家、トインビーはいみじくも「人間とは、歴史に学ばない生き物」といったが、知恵というものを蓄積できないからだろう。

 「対立」という精神構造を棄てきれない欧米人は未だに啓かれた人種ではなく、調和に基づいて生きることを知っている日本人こそに、彼らの蒙を啓くべき使命がある。

 アメリカ生まれの子供がバカでも、アメリカには優秀な頭脳が海外から大量に入ってくる。企業や研究所はそういう頭脳を高給で迎えてしまうから、国として工業テクノロジーのレベルは落ちず、世界のトップレベルを維持できる。日本は海外からの優秀な頭脳は入ってこないから、自前でやるしかない。工業テクノロジーは数学と物理学をベースに成立するもの、日本の子供の数学レベルが落ちていることは由々しい問題であって、教育方式を変える以外に日本人の数学的知的レベルの低下は防げない。

 (教育者のレベルを変えることが第一義の必須事項なのではないか?)

 「純粋数学のような、いつ役に立つかわからないような学問に命がけで取り組む、そういう厚みと余裕のある国には未来がある」。

 「文明の衝突」を書いたアメリカ国際政治学者、サミュエル・ハンチントンは世界の「八大文明」を書き、その一つに他のどこの文明とも異なる異質性をもつ「日本文明」を挙げた。

 過去、島国であるがゆえの異質を異質と思わずに、日本人は生きてきた。その異質性、他の国からみたら異常だと思われるレベルを保持しつつ、「独立不羈(どくりつふき)」と「高い道徳心」を鼓吹(こすい)し、金銭至上主義から離れた全く別の社会を創造する能力と経験とを持っている稀有の民族というべきだ。

 「世界の荒廃を救えるのは日本人をおいてない。しかし、まずもって、「情緒」と「もののあわれ」を知ることが、そして教えることが先決。

 「数学者のくせに」といっては悪いが、「どうやったら国際化ができるのか」と悩む県知事がいたり、「金融はかくあらねば、グローバリズムが進むいま、西欧に太刀打ちできない」という経済金融大臣がいたりするなかで、自身の研究フィールドにない社会の仕組みのあり方、人間の在り方を心配する、このような人物は稀な存在であろう。また、該博な知識、海外における教育や研究経験がなかったら、このような思索にはたどりつけなかったであろう。


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