カネに死ぬな掟に生きろ/宮崎学著

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かねにしぬな、おきてにいきろ

「カネに死ぬな、掟に生きろ」  宮崎学著
1999年  徳間書店より単行本
2000年12月15日 文庫化初版  ¥533

 作者はヤクザの親分の家に生まれ、長じて共産党員、週刊誌の記者、土建屋の経営、地上げ屋などの仕事を経、グリコ事件の犯人に間違えられたこともあり、多彩な世界を覗いてきただけの見識をもつだけでなく、アウトローとして生きることに存分の自信を持っている。

 「アウトロー」を「突破者」とも称し、己の生きる世界を克明に、具体的な例を引きつつ、世を渡る術(すべ)と掟について、余すところなく語っている。類書がないだけに面白いし、はっとさせられることもしばしばだが、部分的には私自身の生き様とも通ずるところがあり、面映い気分にもさせられた。とはいえ、逆に、納得のいかない部分もなくはない。

 「突破者」とは、人間関係や金銭関係に壁ができたとき、これを突破する知恵をもつ者との意味で、作者の造語だと思われる。たとえば、借金した相手が友人や知己の場合なら恩義を踏みにじらず返すことに懸命に努力するが、銀行なら、契約書がある以上、払わなければ差し押さえられるだけのこと、相手がサラ金なら、利子自体が違法なのだから踏み倒してしまえばいいと。

 作者は「カネを貸さずに殺されるケースはあっても、相手がサラ金でも、カネを返さずに脅迫されはしても、殺されることはない。なぜなら、借金を踏み倒されたうえに、自分が殺人罪で懲役をくらうなどというバカなことはしないからだ」と言い、「ヤクザが脅かしにかかるとき、大声をだして喚くのは、それが彼らの仕事であって、いわば『生業の口上』、セールストークに過ぎない。むろん、金額がかさめば、ヤクザのボルテージはいやが上にも高まりはするが」と、のたまう。

 私がこれは面白そうだと思った理由は上記した内容だけで十分に解ってもらえるだろう。私自身も高校時代は番長気取りでいたし、ホテル業に従事したときは何度もヤクザと相対した経験がある。

 以下は私の目を惹いた箇所を列挙したが、一部、表現や言葉の選択を私が勝手に替えていることをお断りしておく。

1.人間というのは、ただの愚かな動物にすぎない。それが自分の基本的認識である。動物という原点に還ったほうが、人間はずっと楽に生きられる。いくら高度な文明、文化を開花させても、人間は根っこに「動物」を抱えて生きている。動物性を否定して、理性によって行動にブレーキをかけることは、動物が本来もっている美点を消し去ってしまう。

 動物としての原点を喪失したところにストレスが生まれ、個としてのアイデンティティーに危機が訪れる。

2.人間は生まれたときは一人だし、死ぬときも一人。その間の始末をどうつけるかだけが人生の問題。

3.風俗営業もパチンコ業界も警察の管轄下にある。

 民放TVで、警察がファッション・マッサージ店を摘発する場面を放映することがあるが、一方でそれと知っている刑事や警官のなかには、自分の休日に店にやってきては、金も払わずに精液を放出するヤカラもいる。女の子は「警官はヤクザよりタチが悪い」と言って、しまいには店を辞めてしまい、店主が困惑して訴えてきたことがある。パチンコ業界に至っては、景品の換金は違法行為であるのに黙認。パチンコの新型台は警察の外郭団体「保安電子通信協会」の検定に合格しなければならないし、パチンコ店の新規開店も改装の許認可も警察の手中にある。警察は摘発するとき、事前にその旨を相手に報せておくことすらある。

 (警察も十万人を越す大所帯の機構、なかに常識のないヤカラがいても不思議はなく、立場を利用してたかったり、ねだったりはあり得るだろう。なにせ、政治家が同じようなことをするし、公務員一般にも言えることだ。)

4.日本社会を支配しているのは官僚と財界であり、政治家はその間に在る茶坊主的存在。

 権力をもてあそび、権力を維持しようとすることが官僚らの真骨頂なのだ。かれらはその生涯の報酬として「天下り」を、ときに「渡り」を手にする。警察や自衛隊は二流官庁だから、すぐ馬脚を現すが、省の官僚たちは隠蔽することに長けている。財と官が進む道の露払いや地ならしをさせられるのが支配構造の下っ端をになう政治家であり、だから政治家風情に、この日本を変える力などはない。日本の政治体制の基本構造は律令時代から一歩も進化していない。(鋭いところを衝いている)。

5.倒産とは、カネと情けと非情とが集中豪雨のように降りかかってくる修羅場。酷薄な合理主義と論理を超えた温かい情けが複雑にからみあって、修羅場に摩訶不思議な彩りを加える。

6.アメリカが金本位制を廃止した時点で、世界がこれに従わざるを得なくなり、紙幣は文字通り、紙きれになり、実体を失い、虚構性を帯びるようになった。デリヴァティブなどという博打的な金融派生商品の取引が始まり、カネの虚構性はますます加速度を増している。デリヴァティブがこの世に出現して以来、実体経済の20倍もの取引が可能となり、機関投資家らのマネーゲームと化し、その結果が経済全体を動かし、世界中の国社会が大きく影響され、混乱するようになった。こんなギャンブル経済が長続きするわけがない。

 (著者は1999年の時点で、石油価格の暴騰も、金融恐慌も予言している)。

7.市民社会の厚顔無恥を支えているのが巨大マスコミ。新聞もTVも雑誌も、どのメディアも市民の良識に訴え、政治家や官僚の汚職を糾弾し、ダイオキシンを垂れ流すゴミ処理場を放置した自治体の責任を追及する。だいたい、市民が良識をもって行動することが世の中を良くするというのは幻想だ。

 (現在の世論というものは、メディアが視聴者を洗脳し、でっちあげられる。そのくせ、TVでは、やらせ番組、長時間の引っ張り番組、コストをかけた海外ロケの愚にもつかない番組などを放映する。ニュース番組で発言の自由を声高に主張する姿勢と番組の下劣さとのあいだの大きなギャップ)。

8.法律、道徳、倫理観、良心、秩序、正義などというのは胡散臭(うさんくさ)い概念。大事なのは、自身に課す掟。掟こそは法律よりも重い意味をもち、すべての価値観に優先する規範。掟の価値観にしたがえば、法を犯すことより、仲間を裏切ることのほうがはるかに卑劣な行為。

 官僚や政治家が賄賂容疑や疑獄事件の渦中におかれると、必死になって隠蔽に走り、証拠書類を焼却するのも、仲間を守ろうとの意志だろう。私と彼らとの違いは、私は自分のことは堂々と披瀝するが、彼らは卑劣な行為を正当化しようとする点だ。

9.突っ張って生きる原動力と起爆力は群れないことであり、一人称の主語をもって闘うことからスタートすることだ。巨大な敵に立ち向かって、たとえ敗北を喫しても、そこには生きていることの爽快さが残る。乾いた感性で生きていれば、死ぬときだってニッコリ笑って死ねる。

10.最悪の状態を想定して、ことに当たる。それこそがプラス思考。喧嘩するときなら、相手の弱点を徹底的に攻撃するのが敵に勝つ王道。サラリーマンなら、上司から肩をたたかれる前に、会社の粉飾決算、脱税、役員らの不正な金の使途、不正な内部留保、違法な政治献金、総会屋への裏金、賞味期限や原産地の虚偽記載、労働法違反などなど証拠になるものを掌握しておけば、いつでも居直ることができる。日本の企業は必ず表沙汰にされたくない影の部分、「社外秘」を抱えている。

11.アメリカの「グローバル・スタンダード」などいうものは存在しない。単に自国のスタンダードを他国に押しつけているだけで、タチが悪い。日本人なら「横綱相撲」「金持ち喧嘩せず」という美学もあるが、アメリカ人は合理主義に徹しているから、そんな美学はない。弱い相手でも、経済、軍事、両面で攻撃をしかける。

 この手法は巨大組織を背景とするタチの悪いヤクザが旦那衆から博打でカネを巻き上げる構図と同じ。

 ある心理学者が「アメリカというのはヨーロッパから見捨てられた捨て子で、愛情なしに育ったため、何でもありという国になった。国際ルールなど平然と破るし、世界中が同意する条約ですら調印を拒否する」と言っているが、正鵠を得た意見。(もっとも、中国は見棄てられた捨て子でもないのに、何でもありの国になっている)

 巨大な敵は巨大であるがゆえに、体重のある相撲取りのように、足元に弱点があり、アメリカは必ず自分の蒔いた種で自滅するか、少なくとも大きな経済的危機を迎えるだろう。

12.ヤクザというのは社会からはじき出されて、生きる手段を持たない人間が寄り集まり、何とか生きようともがいている集団だから、生業(なりわい)を失うことへの恐怖は一般の市民より、はるかに強い。全身に不安を充満させて生きているから、かれらが抗争事件を起こすときは、組の存亡がかかっているときに限られる。

13.家庭の幸福も、老後の安心も、日々の安息も、そんなものは人間の必需品ではない。大切なのは己の根性(コンジョ)である。根性のあるやつには明るい未来がある。(著者には女は複数いるし、女らとのあいだには子供もいるが、どの女とも結婚はせず、したがって家庭は持っていない)。

14.「今晩もまた麻雀?」「そんなに借金ばかりつくって、いったいどうするつもりなのよ」「あの女のほうがいいんだったら、出ていってもいいのよ」などと、女は口を開けば、なにかと男を非難する。それが女の生理だから、男の論理で対抗しても無駄であり、女のほうが男より賢いのだから、勝てるわけがない。

 女はひとたび「非難モード」に入れば、冷静で客観的な思考がストップしてしまう。そういうときは、逆らわずに、非難の言葉をBGMだと思って聞き流すしかない。だから、自分は家庭をもたず、女を外につくる。(そのほうが離別も簡単)。

 「男の下半身には人格がない」とか、「浮気は男の甲斐性」などと言っても、女には通用しない。ただ、女性スキャンダルは格好のネタになるから、社会的地位の高い男ほど、アキレス腱になる。

 フランスなら、そうしたスキャンダルを騒ぎ立てない。かつて、ミッテランに対し、記者が「隠し子がおられるそうですが」と詰問したとき、ミッテランは「ええ、で、それで?」と応じただけで、インタビューは終わってしまったという逸話がある。

 (私の知己のカップルに、男の下半身に人格のないことを認識している女性がいる。トラブルを家庭にもちこまないことが唯一の条件で、夫の浮気を認めているというが、私の目には、二人の間には冷たい風がいつも吹いているような気がして仕方がない)。

15.一週間へとへとになって働いたうえ、休日には家族を遊園地に連れていくなど、狂気の沙汰。共働きの夫婦が家事を分担しながら、お互いの職場での出来事を話し、仕事に関する愚痴をこぼしあい、それで理解が深まるなど、はなはだしく不気味である。男と女とは、もともと立っている場所が違うのだから、その点を認め合わなければ、お互い十分には生きられない。

 女にとって大切なことは、子を産み、家庭を守り、生活の糧を得るために必死に働く夫を声援すること。男はその声援に応える義務を負う。つまり、男は子を育て家庭を守る妻のために、経済的な面はむろんのこと、環境を整え、敵がいれば、命に代えて身内を守る、それが男の役割。

 男はバカだから、いつまで経っても幼児性が抜けず、おだてられれば木にだって登る。

16.子供の教育は「生きるとはどういうことか」を教えること。親が子に自分の生き様をみせて実地に教える性質のものだ。

 上記した内容は全体のほんの一部に過ぎないが、内容が内容だけに、若年層にも読者が多いらしく、しばしば相談を受けるという。私は作者の洞察力、勘の鋭さに驚いた。

 とはいえ、裏表紙の著者の顔写真は学者か大企業の役員かといった風情の容貌で、本書の内容や言葉遣いとのあいだに落差を感じた。

 また、本書を読みながら、先日書評した「アホでマヌケなアメリカ白人」をしばしば想起した。二冊には偶然ながら同じ質のもの、相似のもの、対極にあるものなどが包含されている。


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