新・民族の世界地図/21世紀研究会編

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

新・民族の世界地図

「新・民族の世界地図」 21世紀研究会編
副題:「テロの根源/9.11以後、何が変わったのか?」
文春新書  2006年10月初版

 2007年7月28日7月31日に分けて書評した「民族世界地図」(浅井信雄編)に感動したため、次いで目についた首題の書籍を読む気になった。

 結論からいうと、人類とは救い難い存在であることを、世界を舞台としつつ、長期にわたる歴史を背景に、書かれた内容に結実してしまっているとの印象が強い。個々の人間に知恵者はいるが、人類には知恵がないと。

 同じ生き物同士でこれだけ殺し合いを継続しているのは人類だけ、紀元前数千年前から今日まで、一刻一瞬たりとも、殺し合いをやめたことがないというのは壮絶とか壮烈とかいう言葉では表現できない。生き物の頂点に存在する人間のあざとさ、業(ごう)、性(さが)というべきなのだろうか。わたしたちは先祖代々、この青く光る美しい地球上で、延々と互いに殺しあいをやってきたということだ。

 そうした事実をしみじみと感ずる上で、本書もまた、一読の価値がある。

 以上が書評で、以下は私の個人的備忘録につき、飛ばしてしまって結構である。

1.2001年9月11日にアメリカ、マンハッタンで、大規模なテロが起こった。そのことを予測したかのように、1993年には米国の政治学者であるサミュエル・ハンチントンが「The Clash Of Civilizations」(文明の衝突)という論文を発表している。

 とはいえ、東西冷戦後の著しい変化は、民族意識と宗教であり、各地で紛争、内戦が起こり、それは国家と国家とがぶつかりあう戦争ではなく、イデオロギーの相違による睨みあいでもない。だから、「文明の衝突」という言葉では括れない紛争こそが実態だという現実。アフガニスタンにせよ、イラクにせよ、解決への道、平和への道は相当に遠い。同じことは、ロシアとチェチェンのあいだにも言える。

 (チェチェンに地下資源がなく、資源を運ぶパイプライン上にもなかったら、ロシアはチェチェンの独立を簡単に認めていただろう)。

2.1492年当時、(織田信長が天下を統一する前)、世界の大半(5分の3以上)はモンゴロイド(黄色人種)が居住支配し、欧州、北アフリカ、中近東、インドをコーカソイド(白人種)が、二グロイド(黒人種)はアフリカの5分の4を、オーストラリアとニューギニアにオーストラロイド(アボリジー二人種)が居住、支配していた頃は、現在に比べ、兵器の質から、たとえ戦争があったにせよ、僅かな例外を除き、大量殺戮はできなかった。

3.19世紀から20世紀にかけて、大航海時代に入るや、西洋社会に広まった人種論では「白人は有色人種より身体的にも文化的にも優れており、他人種支配すべきだ」という植民地主義が正当化された。「人種」という言葉には、以後、「人種差別」という言葉が並列して使われるようになったが、(宗教の面でいえば、異教徒に対する酷薄さ、残忍さに結果する)。

4.南米のヒスパニック系人種は宗主国だった国の言葉が公用語となっており、必ずしも、言語と民族とは重ならないし、そうした国は世界に多い。

 中国に住む回族(ウイグル地区)やフィリピンのモロ族はモスレムであることが周辺の人々と自分たちとを分ける基準としている。インドも民族がしゃべる方言より英語の方が通じるし、アフリカも各地ともに元宗主国の言葉が公用語になっている。

(オランダは植民地だったインドネシア人にオランダ語を強制しなかったようで、オランダ語をしゃべるインドネシア人に出遭ったことはない。また、民族は違っても、限られた風土、環境のなかで同じ集団に属している感覚が自然に育まれた集団も存在する)。

5.古代ギリシャ人は異言語を話す民族を「バルバロイ」と表したが、この言葉が蛮人、未開人、異教徒を指す英語の「Barvarian」の語源となっている。「部族」という言葉も「民族」という言葉も、はっきり定義づけられない。

 我々も「大和民族」とは自覚していても、「大和部族」とは思っていない。また、沖縄の人間は自分らは「ウチナー」で、本土の日本人を「ヤマトンチュ」といって、狭い日本ですら、統一されていない。北海道にはアイヌもいる。「部族」の名がふさわしいのはアフリカのマサイなど未開の人のイメージであり、英語でいう「Tribe」は植民地主義を背景に用いられた言葉である。

6.北アフリカの「ベルベル」は北アフリカ最古の先住民であり、現在、モロッコ、アルジェリア、サハラ地方、マリ、ニジェールなど広域に住む人々が入って以降、モロッコ、アルジェリアを中心とした諸国での強引なアラブ化政策への抵抗として、民族意識が高まってきた。

7.インド・ヨーロッパ語族は世界で最も大きなエリアに広がり、かつ、この言葉を話す数も多い言語グループである。距離的にも文化的にも著しく隔たりのある両地域の言葉が一つの言語グループに属することを発見したのはイギリス人の法学者で、ラテン語に精通していた彼は古来のサンスクリット語が語彙も構造もギリシャ語やラテン語によく似ているばかりか、文法的にもギリシャ語より複雑で精緻であることを認識した。(1786年のこと)。

 そして、二つの言語がおそらくもう存在しない一つの祖語から派生したこと、ゴート語やケルト語、古代ペルシャ語と同じ系統であろうと確信した。このなかに含まれるのは、ベルシャ語、イタリア語、フランス語、カスティーリャ語、スペイン語、ポルトガル語、ケルト語、ゲルマン語、スラヴ語であるノルウエー語、ロシア語、ポーランド語、ブルガリア語など、また、バルト語に似るリトアニア語、ラトビア語、ギリシャ語、アルバニア語、アルメニア語、ヒッタイト語であるが、いつ、これらの言葉が発祥し、いつ分岐し、いつ拡散したか、その過程は不明。

8.植民地化された地域の人々が現在旧宗主国の言葉を公用語とする例は多いが、一方で、ソ連邦崩壊後、ロシアに押し付けられたキルト文字をかなぐり棄てたバルト三国、アゼルバイジャン、タジキスタンなどは故意にロシア語を外し、一切口にしない。

9.少数民族が保護されるべきだという説や考え方は、その裏腹に消滅していく例が多いことを物語っている。かつて世界に1万語はあった言語が今や5,000-6,000語に減っており、それらの90%があと100年で死滅するという予測がある。グロバリゼーション、地球規模の文化の平均化がもたらす移住や混血によっても、より貧しい国の人々の言葉は消えていく運命。

10.ハンガリー語はアジア系で、フンに由来するという。フンは4世紀半ばから1世紀にわたって、西ローマ帝国、東ローマ帝国が支配するエリア以外の広大な土地を支配した民族である。ハンガリー人はみずからをマジャールと称し、使用言語もマジャール語と呼ぶ。このマジャールはフンの次に同地域に帝国を築いた、やはりアジア系の遊牧民でハンガリーの祖とされる。

 マジャール人の出身はヴォルガ川、中流域からウラル山脈にかけての草原地帯と判っていて、言語もインド・ヨーロッパ語族ではなく、ウラル語族に分類される。氏名の書き方も日本と同じく、姓をはじめに、名を後に書く。

 9世紀終わり頃、マジャール人がハンガリーに出現、先住のアヴァール系民族を支配下におき、農耕を学び、定住を進めた。西暦1千年には、マジャール系譜語集団を一つにまとめたイシュトバーン地帯はキリスト教に改宗してハンガリー王国を組織した。

 ウラル語族のなかでマジャール語の範疇にあたる言語にフィンランド語、エストニア語がある。北欧人というイメージの強いフィンランドやバルト三国の住民としてラトビア人、エストニア人と一緒に括られがちなエストニアがアジア系遊牧民の言語を受け継いでいる。

 (ウクライナやハンガリーにはときどきお尻に青い斑点を帯びた赤児が生まれるという)。

11.民族文字の系譜

 前3世紀よりも古い時代に、メソポタミアとシュメールが粘土板に刻んだ絵文字が現在知られている中では最古の文字といわれる。だが、それからほんの5千年かそこらの間に、数多くの文字体系が生み出されては消えていったが、民族の興亡によるものだ。

 シュメールの絵文字、楔形文字、アッカドの楔形文字はシュメールの絵文字とほぼ同時期に生まれたが、影響も受けたことが想像される。エジプトのヒエログリフも表記体系の基礎はセム文字だとされるが、学者による解説が可能になるまで歴史のなかに埋もれていた古代文字である。紀元前1千年頃、シリアのあたりを中心に広く地中海世界で貿易を行なったフェニキアがセム文字をもとにしたフェニキア文字を使いはじめ、接触した地中海沿岸の周辺民族は形やシステムを様々に変えて利用した。ギリシャ文字はその代表だが、そこからさらに現在のラテン文字や、下ってキリル文字(ロシア)が生まれる。

 フェニキア文字と近い関係にあった文字の一つにシリアのアラム文字がある。アラム語はフェニキア語と同じセム系言語で、キリストが布教のために用いたほど古代オリエント社会に普及していた国際語だった。

 現代のヘブライ語やアラム語はこの系列にある。また、幾つかの段階を経てモンゴル語ともなった。アラム文字はさらにインド文明にも影響を与えた。インダス文明には独自の文字が存在したが、他の文字との対照が出来ず、解明が待たれる。ところが、このインダス文字がオセアニアの東、モアイ像で有名なイースター島で長期にわたり使われていたことが20世紀半ばに発見された。

12.韓国を「Korea」と呼ぶのは、高麗の「Korio」という発音からきている。韓国が脅威を感ずる国の第一位が北朝鮮で、59%、第二位は日本で、55%だという。戦前の日本の併呑と、彼らを侮辱的に遇した歴史が忘れられないのであろう。「昭和20年7月には何があったか?」と日本の若者に訊いても、ほとんどの若者が「知らない」と答える事実は皮肉というか、阿呆というか、それとも「平和ボケ」というべきか。

 1953年に停戦した朝鮮戦争では、南北あわせて260万人が死亡、1000万人が離散家族となった。

 戦後、1995年から2006年の10年間に毎年1万人が日本に帰化している。「日本が嫌い」と言っている韓国人が日本に帰化を望む理由は北朝鮮への恐怖からであろう。

(世代交代による変化もあるだろうし、「冬ソナ」以来の日本で起こった韓流ブームの影響もあるだろう。両国がもつイメージは必ずや互いに軟化し、友好的な関係が築かれるだろう)。

13.ケルトの文化遺産

 西欧の文化は表層的にはヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)とヘレニズム(古代ギリシャ)を二本の柱とするが、これら地中海地域の二大文明の基層に横たわるのが「ケルト」の文化。

 ケルトとはインド・ヨーロッパ語族、ケルト語派の言語を話す人々を指す。名称は紀元前600年頃、ギリシャ人がヨーロッパの広域に住んでいた異民族を「ケルトイ」と呼んだことによる。

 ケルト民族の分布は時代により、様々だが、中欧ヨーロッパから西は大西洋にいたるまでの広い海域と、さらに海を渡ってグレートブリテン島、アイルランド島に根をおろし、一時期は南のローマまで東はバルカン、マケドニア、ギリシャ、アナトリア(現トルコ)まで進出した。

 ケルトはローマの発展とゲルマン民族の移動によって、アルプス以北、ライン川以西に狭められ、さらに欧州の大部分がローマの版図に組み入れられるが、それに各地で抵抗したのがケルト人で、欧州諸地域に影響力をもっていたことを物語っている。たとえば、ベルギーの名はローマ軍を悩ましたケルト系ベルガエ人に由来する。パリもケルト系パリシィ人の名に由来し、他にも多くの遺産を残した。

 ただ、ケルト人は文字をもたなかったため、文字による記録は残されていない。

 ケルト文化の初めオーストリアの中部、ハルシュタット遺跡に代表されるハルシュタット文化で、紀元前7世紀から前5世紀の頃、この時代、彼らはギリシャ人やエトルリア人に塩、銅、錫を輸出していた。

 スイスのラ・テーヌ遺跡に代表されるラ・テーヌ文化(前5世紀から2世紀)、かれらは東西へ、南へと移動し、活動範囲を拡げた。渦巻き模様や奇怪な動物の装飾がほどこされた金工細工など非常に特徴的で豊かな美術様式を持っていた。

 さらに、フランスを中心にベルギー南部とスイス東部を含むガイア地方がローマ軍の領土となった頃、(紀元前1世紀から紀元後4世紀まで)、ガリア・ケルト文化とローマ文化が融合して、ガロロ文化と呼ばれる様式が構築された。

 やがて、大陸のケルトの時代は終わり、イギリスとアイルランドのあいだに浮かぶマン島で「島のケルト」が言語や習俗を含む文化を継承している。

14.ノルマン(ヴァイキング)

 時代がはるかに下がって、ヨーロッパの北方からノルマンが得意の航海術を駆使し、主に大西洋を舞台に移動、進出をくりかえす。ヴァイキングが好戦的だったのは事実だが、彼らは行く先々で交易も行い、侵略した各地に建国してヨーロッパの民族地図を大きく塗り替えた。ヴァイキングの活動は一過的な海賊行為というよりも、広くノルマン人の勢力拡大の一環と捉えるのが正しい。

 ノルマンは主にスカンジナビア半島に住んでいたが、ゲルマン系民族である。大西洋を南下、あるいはバルト海から川を遡ってヨーロッパ各地に進出したのは主に8世紀後半から12世紀にかけて。そのうち、ロシア方面に進出したノルマン人はドニエプル川を利用して黒海まで出るルートを確保、ビザンチン商人やイスラーム商人との交易を行なった。拠点として9世紀後半にキエフを築き、この都市国家がロシアの起源。

 一方、フランス方面に進出したノルマン人の一部はセーヌ川流域を本拠地とし、封建的主従関係を築きつつ、

 911年にはノルマンディ公国を建てる。コロンブスより500年も前にアメリカ大陸に到達したノルマン人もいる。

 ロシアにおいてもフランスにおいても征服者としてではなく、非常に早く現地の住民に同化、北方伝統文化などの痕跡は残さなかった。

15.北アメリカ大陸にはかつて300以上の言語集団が生活しており、アメリカインディアン、エスキモー、アリュートなどが広大な土地で住み分けていた。また、現在、アメリカインディアンの各種族の大半は保留地にとどまり、経済的にも文化的にも全国レベルよりはるかに低い水準に甘んじている。インディアンが死に至った最大の理由は南米地区と同じく西欧人が持ち込んだ伝染病である。

 (ただ、医学書によると、インディアンのある部族だけに、糖尿病が70%も出るという話には驚嘆した)。

 アメリカで有名な俳優のケヴィン・コスナー、ジョニー・デップ、キム・ベイシンガー、歌手のエルヴィス・プレスリー、ティナ・ターナー、ロックギタリストのジミー・ヘンドリックスなど、信じられないかも知れないが、みなインディアンのチェロキー族の血を受け継いでおり、こうしたアメリカ人は少なくない。

 保留地に定住を限定されたインディアンには自殺が多く、アルコール中毒者も多い。

 (米国政府はインディアンの居留地には例外なく、カジノを開く権利を与えてはいる)。

16.カナダ、アラスカに住むエスキモー、あるいはイヌイットたちは、その土地が地下資源に恵まれていることを知られてから、カナダ、アメリカ両政府により土地の部分的所有権が補償金と制限つきの自治権と引き換えに土地の占有を放棄させられた。彼らにも自殺者、アルコール依存症者が跡を断たない。

17.チェチェン

 東のカスピ海と西の黒海に挟まれ、北はロシア、南はイラン、トルコと接する地域をカフカース(英語ではコーカサス)と呼ぶ。面積では日本よりやや広いくらいだが、そこに言語や宗教を異にする50以上の民族がひしめき、かつてロシア帝国を建設したピョートル大帝のロシアとオスマン・トルコ帝国が睨みあい、イランの各王朝がともに狙ってきた歴史をもっている。

 黒海からカスピ海までカフーカスを南北に分ける大カフーカス山脈(コーカサス山脈)の南にはソビエト連邦から独立をいちはやく宣言したグルジアとアルメニア、アゼルバイジャンがある。そして、山の北側ではロシア政府に対して出口の見えない抗争を続けているのがチェチェンとダゲスタン、イングーシ、北オセチアなど7つの共和国で、いわばロシアと心ならずも同居している。

 エカテリーナの時代、ポーランドを手中に収めたあと、トルコを壊滅させ、拡張主義を前進させた歴史がある。彼女の狙いはヴィザンチンの復活だった。その過程で、多くの少数民族が踏みにじられた。

 その頃、チェチェンの一人がイスラム神秘主義教団の指導者で、北カフカースに侵入するコザックの入植者に対して地元の農民の力を結集、ロシアへの反抗とジハードを宣言。

 オスマン・トルコはすでに衰退していたが、バルカン半島を思いのままにするためには、途次に存在する抵抗勢力、北カフカースのチェチェンを抑える必要があり、エカテリーナの志を引き継いだニコライ1世は戦闘をくりかえし、山地へ後退するチェチェン人の人口を少しずつ減らしていく手法を採用、征服より一掃を狙った。

 東のダゲスタンでもイスラム神秘主義教団がロシア人に対するジハードを唱え、抵抗運動を展開。チェチェン人もやがて呼応して、この運動の三代目の指導者となったダゲスタン人のシャミリーの時代にはダゲスタン北部とチェチェン山岳部を領域とするイスラム国家が実質的に成立。

 1859年、40年以上続いた抵抗運動も物量に勝るロシアのまえに降伏したが、ロシアに併合されたあとも反乱は続いた。チェチェン人はよくいえば勇猛、悪くいえば野蛮。とはいえ、カフカースでの対ロシア感情と憎悪は残ったままだった。(ロシア人は昔から南下政策に固執し、冬でも凍らない港を欲しがっていた)。

 1921年に、いったんソ連に「山岳共和国」を認めさせたが、翌年には解体され、その後幾つかの過程を経て「チェチェンに協力した」という濡れ衣を着せられ、チェチェン人とイングーシ人は中央アジアやシベリアへ強制移住させられた。

 1957年には名誉回復のうえ、帰国を許されるが、ロシアからの入植者により収奪された土地、財産の返還請求には応じなかった。この事件は新たな遺恨となってチェチェン人の心に残る。

 (日本の北方四島にも既にロシア人が多く居住し、あたかも昔から住んでいたような印象を与えている)。

 1991年、チェチェン・イングーシ共和国の大統領でチェチェンのドゥダーエフが当選、独立を宣言したが、これを認めないエリツィンは1994年チェチェンに軍隊を送り、首都グロズヌイに進攻。生物化学兵器まで使った、この進攻により犠牲となったチェチェン一般市民は8万人、一方ロシア軍の蒙った痛手も大きく、1996年に和平を結ぶが、これを第一次チェチェン紛争と呼ぶ。

 ロシアがチェチェン、イングーシの独立を認めない裏にはカスピ海周辺の石油とパイプライン設置の問題があり、他の独立を許可した国々と同様の扱いをすることはできないというのが真相。

 300人以上の犠牲者を出したモスクワのアパート爆破事件があり、ロシアはこれをチェチェン人による仕業、反抗と断定。再び軍隊をグロズタイに送って第二次チェチェン紛争となる。

 大統領がプーチンになると、アメリカの9.11テロに倣って、チェチェンをテロ国家と名指しし、一切の交渉を断ち切り、一般市民に対しても強奪や拷問、強姦、殺害が日常的に行なわれ、チェチェンはその報復として、モスクワの劇場を占拠、922名を人質にとり、129人を死亡させた。

 2004年には北オセチア共和国の学校を占拠、1181人のうち350人以上が殺害された。ロシアはこれらをすべてチェチェン人のテロというイメージを世界に発信し、アメリカのアフガニスタンやイラクを攻撃したレベルと同じものとの印象を与えることに腐心。その後、ロシアがチェチェンでどのような掃討作戦を実行しているのか、どのくらいのチェチェン人が死んでいるのか一切公表されていない。

18.石油を英語で「Petroleum」というが、Petroは岩や石を指し、Oleumは油を意味する。

 油田としては1855年に、米国のG.H.ヒルズがペンシルヴァにア州に設立したのが世界初の石油発掘会社。現今、石油をめぐって、しきれつな競合が起こっているが、イラン、イラク、サウジアラビア、クエート、ヴェネズエラ、リビアが大量の産油国で、天然ガスに関してはロシアが全世界の4分の1を埋蔵している。とはいえ、アラスカ、アメリカ本土、カナダ、メキシコ、インドネシア、ボルネオ、ロシアなどの石油埋蔵量は的確な数字は公表されていない。(最近になって、ブラジルの海底に大油田が発見されている)。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ