遠い「山びこ」/佐野眞一著

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遠い山びこ

「遠い『山びこ』」  佐野眞一著
副題:無着成恭と教え子たちの四十年
新潮文庫 2007年5月初文庫化
本書の単行本は文藝春秋より1992年に刊行され、1996年に文春文庫に収録という歴史をたどっている。

 主人公の「無着成恭」(むちゃくせいきょう)とはいかにも懐かしい人で、私個人はごく若い頃にテレビかラジオでお目にかかった記憶しかないが、当時、教育家として天下にその名を轟かせたことは知っている。とはいえ、具体的にどういう人物かは知らず、縁戚につらなる作者がその業績を追って、本書の作成に及んだことが解かった。

 終戦直後の昭和23年に山形県の山元村の小中学校に赴任したが、もともと、この人物には同じ地域にある寺の住職への道もあったのを弟に譲り、教育者としての道を選んだという経緯。

 山元村というのは山間部にある小さな村で、居住する者はみな農家の人間であり、学校にかよってくる少年少女は農家の子共、農家では季節により繁閑の差が激しく、学校に出たくても出られない日があるし、土地柄、豪雪地帯でもあり、冬季の通学は難渋したに違いなく、当の無着先生自身が通勤をあきらめ、隙間だらけの学校に寝泊まりするという状態。無茶先生が驚愕したのはこの土地の子共たちの学力があまりに低いことだった。

 無着が赴任したばかりの頃(戦前)、小中学校あわせて1、419名、昭和20年にはおよそ半分に減り、さらに5年後には100名となり、平成3年には80名ばかり、村は過疎化が著しいテンポで進んでいる。

 日本の農家を昭和35年を100とすると、

  農家数、昭和43年には93.5%、50年には81.8%、60年には69.8%、平成2年には63.8%

  基幹的な農業従事者数は、47年には75.%、50年には41.6%、60年には31.3%、平成2年には26.6%というデータが残っている。

 無着先生は昭和23年赴任、当然ながら終戦後3年経過したときで、貧しさという点ではなにもこの山間の村だけが貧しかったわけではなく、全国的に山菜採りに、やむえない場合には草や虫を食した経験があるはずで、そのうえ山間の村であり、冬期は豪雪地帯になるという点では新潟、青森とさしたる違いはなかったであろう。ただ、盆地上の田地田畑は狭小で、旱魃や豪雨があると、家族全員が食えなくなる、学校への教育費は払えなくなる、家には勉強するための机や椅子があったのかどうかもわからない。村は、必然的に、過疎から廃村への瀬戸際にあったとみるのが当を得ている。

 戦後日本経済の成長と引き換えにだどった二筋道、農業の崩壊と教育の荒廃。本書は無着先生が指導教育した43人にどのような個性的な教育を施したかを追いつつ、40年後の生徒らの実態を追った労作というべきか、レポートいうべきか、そのために、読み手にとってはきわめて退屈な文章が延々と続く。私の個人的な意見をいえば、43人全員を追う必然性はなく、なかで際立った人間だけ、とくに無着先生に遠慮のない批判をする人間だけを対峙させることで充分だったと思われるし、共産主義者のこと、レッドパージのこと、GHQのことなど当時の政治的な背景はわかっているだけにうるさく感じられる。

 無着先生の際立った教育方針は生徒らに対し、自分らの生活の実態をありのままに作文に書かせることを主眼とし、それらを通して、各家庭の実情も透けて見える。ことに事実を、虚飾なしに書かせることを強く指示。そうした作文をすることが教育の大半を占め、生徒らの生活や体験の在り様があまりに泥くさく、田地田畑からの収穫に関する数字的なプラス、マイナスまでも記すことになり、これが東京の出版社の目に止まり、紆余曲折を経ながらも「山びこ」とのタイトルで上梓が実現すると、一人は文部大臣賞に輝き、無着先生は一躍メディアの有名人となる。私がこの教師の存在を知ったのもその頃のことであったろう。

 無着には子共らの頭髪をバリカンで刈ってやるという温かみや親切心もあり、当時としては破格の教師だったことは間違いはないし、現に、その折りの生徒らはみな無着先生に好意を抱く。当時の社会的背景を想定すれば、教師として傑出した人間的な質は無着個人の生得によるものと認識しておきたい。山元村という山間の貧乏村における教育で、終戦間もない時期、教育史に屹立するものを創造したとはいえるだろう。

 以後、作文に生の農家の暮らしが書かれたことが効を奏し、マスコミが大挙して村を訪れるようになり、無着の実家が土地の寺であり檀家を多く抱えていた事実もあり、無着は村の駐在より偉く、村長、校長なみの敬意を集める存在になった。

 話は若干飛ぶが、戦前満州の開拓団を大量に日本から現地に送ったが、開拓の先陣を切った移民が山形県からで、22、339人に及んだことは記憶しておく価値があるだろう。

 また、戦後、朝鮮戦争があり、昭和27年に入っても、人身売買はあとを絶たず、山形新聞によれば、満18歳の未成年女子で人身売買被害者となった1,887人のうち、80%の1,541名は売春関係の身売りで占められたが、そのほとんどの女子は農家の出身だった。

 「山びこ」が出版されたあとの反響は大きく、作文集はよく売れたし、涙なくしては読めなかった人も少なくなかったとの記述が残っている。マスコミからは脚光を浴び、記者やカメラマンがひっきりなしに村を訪れ、無着先生などは年に四度も座談会や講演に呼ばれた。また、英語にも翻訳され、「Echos from a mountain schools」と英訳され、ヒンドゥー語、中国語にも翻訳されたし、果てはユネスコにまで紹介されたという。村を訪れた文部大臣は無着に向かって「君はわが国の先生方に実証してくれた。教育者は他のことには目を向けず、教育の仕事のなかで志をとげるべきだ」との言葉をもらった。

 挙句に映画化の話が出、27年3月に試写会が行なわれ、無着先生も招かれた。ところが、朝鮮戦争が終わり、アメリカ駐留軍が去ると、日本の教育界にも変化が起こり、日教組が組織され、大学闘争が起こり、彼の作文集に対しても必ずしも好意的な批評ばかりではなくなる。

 ジャーナリズムが対象を選んで採り上げる目的は「山びこ学校のもつ本質」ゆえではなく、殺人や姦通などと同列線上で採りあげられる可能性もあり、このことに関して無着は無知だった。映画を実現するために、教師一人一人からカンパ協力してもらったりして、映画を成功させはしたが、無着自身は日教組の独善的な体質に反感をもっていた。映画は結局のところ、左右両陣営から利用され、攻撃される側面をもつことにもなった。

 子共たちのサイドから言えば、作文を書いたのは先生の指示に従ったまでであり、映画化や出版を期待したわけでなかった。内容的には、家庭の実情を描いたものが多く、ある意味では家庭の恥を曝け出す結果となった作文も含まれていたため、親からの批判にも避けがたいものがった。

 さらに、教育委員会からも、行政側からも批判の声が段々に高まった。作文集は山間の学力的にはレベルの低い少年少女らの手になるもので、文章能力のレベルを批判する向きもあったし、方言を使っているのは国語教育上問題があり、また作文の内容は生活と体験、生産と消費に関するものが大半で、子共の目を世界に向ける芽が摘みとられているなどといった批判もあった。

  ベストセラーだった書物からの印税は、経済的困窮者だった生徒を配慮、印税をプールし、年六分で資金を融通する一種の信用銀行を発足させ、現金収入のほとんどない山元村の子供たちとって、むろん、親たちにとっても、基調な資金源となった。

 とはいえ、歳月の流れとともに増幅する批判に耐えられず、無着は村から追放されるかのように、飛び出し、東京に向かった。彼がいつも子供らに言っていたことは「いつも力をあわせていこう、かげでこそこそしないで働くことが一番好きになろう」に集約されるが、これは二宮金次郎的な勤労観と道徳観だった。

 無着は東京の明星学園で教鞭をとり、ときにラジオの「子共電話相談室」の回答者として大活躍していた。

 その折り、山元村の生徒だった一人の男性が尋ねてきて、「先生は教育者ではなく、もはや芸能人になりさがっている」と批判した。実際、無着は、当時、駒沢大学に在学中である身ながら、山形県の文化向上に寄与した人物に贈られる斉藤茂吉文化賞第一回受賞者に選ばれ、31年には明星学園時代、東京放送のラジオ番組の「学校対抗知恵比べ」、また「ラジオ移動室」の司会者にも選ばれていたし、39年にスタートしたTBSでは看板番組「子共電話相談室」の山形便丸出しの名回答者として全国的な人気者になっていた。

 その男性は無着の部屋に飾られた額縁のなかの文字、「人それぞれに花がある。そして、花の美しさに序列はない」とあるのに対し、即座に「そりゃ嘘ですよ。花にだって序列はある。人間にも違いがあると思う」と辛辣な言葉を吐いた。「人それぞれに花があるなんて言い方は、暮らしに心配のいらない人間の戯言(たわごと)だ」と。

 無着相手に堂々と意見を口にした男は山元村で無着先生の教導を受け、以来、農業に最も固執した男性。彼には東京でいい気になって芸能人ばりの活躍をする無着先生の変貌に腹の虫がおさまらなかったのであろう。ただ、この男は自分の娘も息子も山元村の学校から遠隔地の高等教育を受けさせ、自分と同じ道は歩ませなかった。所詮、無着は非生産者であり、男は生産者である。

 明星学園の子弟は私立の学校で、山の手のブルジョアの子弟が多く、この事実を耳にした山元村の人々の無着に対する態度は前にも増して硬化、悪化した。彼は明星学園でも「山びこ作文集」を出そうとしたが失敗に帰している。

 無着は、結局、明星学園を去り、千葉県の成田近くの寺の住職になった。この時期、教育界は法律も含め、色々な面での変革を強いられ、共通一次テスト、偏差値など新しい言葉も出現している。彼には、時代背景としての、国家や文部省や日教組を意識せずるを得ない戦中派世代の宿命というべきものがあった。

 作者は「虚勢と自己正当化」の匂いが強く、これに辟易した人も少なくなかっただろうが、過渡期ともいえる時代にこういう教師が存在したことは忘れないで欲しい」という。

 私は退屈な部分は飛ばし飛ばし読んだが、本書を読んでの印象として「無着成恭という人物はカメレオンのように状況に対応してわが身の出処進退を決断した」という気がした。

 余計なことかも知れないが、この作品を3分の2で書き上げていたら、もっと中身の濃い、面白い作品に昇華したであろう。作者の頑張りすぎで、無駄な執筆が多いという印象がある。

 戦後、日教組が組織されたことで、この国の教育がどのくらいレベルを落としたか、と同時に、左翼的な思想かぶれの教師らによって、生徒らがどのくらい悪影響を受けざるを得なかったか、私の高校時代ですら、社会科の教師は社会を語らず、マルキシズムばかりを語っていたことにどのくらい不快感をもったか、いくら暴力団を嫌悪する私でも、日教組の大会を邪魔すべく、軍歌を拡声器で流しつつ、威嚇する右翼の姿を応援したくなりもした。


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