フェルマーの最終定理/サイモン・シン著

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ふぇるまーのさいしゅうていり

「フェルマーの最終定理」 サイモン・シン(Simon Singh/インド系イギリス人)著
新潮文庫  2006年6月初版  原題:Fermat’s Last Theorem
青木薫訳  全495ページ

 本ブログで「博士の愛した数式」という、小川洋子さんが書いた小説を読んで以来の夢、「フェルマーの最終定理」にようやくたどりつくことができた。

 ギリシャ時代、最後の「数学の巨星」といわれる天才に、ディフォントスという男がいて、大著「算術」を書き残した。

 1601年にフランス南西部に生まれたピエール・ド・フェルマーは裁判官としての人生を送りながら、数学を趣味としていたが、アマチュアの域を脱するほどの天才的な閃きをもつ人物だった。 ラテン語に翻訳されたディフォントスの「算術」を読みながら、考えついた数々の定理を本の余白に書き残したが、フェルマーの死後、息子のクレマン・サミュエル・フェルマーが父の数学的発見をそのまま放置しておくのは勿体ないと考え、5年の歳月をかけて吟味、検討し、出版した。ちなみに、フェルマーは「近代数学の父」と呼ばれている。

 フェルマーが余白に記した所見や定理は、彼の死後に生きた数学者によって、一つ、また一つと証明されたが、一つの定理だけが証明できぬまま後世に伝わったため、「フェルマーの最終定理」との呼称で名声を博した。しかも、350年の長きにわたり多くの数学者が証明を試みたが、ことごとく煮え湯を飲まされ、ために一層この定理に箔をつけることになった。日本人数学者もそのなかに含まれている。

 問題の定理が記されたページは上記した「算術」の第二巻、ピタゴラスの数学が解説された部分にあたり、有名な方程式として伝わる「X² + Y² = Z²」を「X³ + Y³ = Z³」に、言葉を換えれば、二乗を三乗に変え、三乗以上はすべてニつの和で表すことは不可能であり、解をもたないと記し、あわせて「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるので記すことはできない」と、思わせたっぷりの言葉が書き添えられていたことがすべての発端。

 フェルマーがこの定理を発見したのは1637年頃のことで、以後、巨大な謎の定理として高い崖のように峻拒、後世の数学者たちのまえに立ちはだかり、崖への登攀を阻むことになった。このような例は他の学術分野にはない。フェルマーは同時代に生きたペルカルとギャンブラーのサイコロの出目に関する「確率論」の証明もやっている。

 著者はここでピタゴラスの偉大さについて以下のように付言している。

 ピタゴラスは紀元前六世紀に「数学は人間の主観や偏見に左右されない真理を見出せる」ことを主張。初めエジプト人やバビロニア人から数字というものを学んだ。エジプトで数学が進んでいたのは、ナイル川の氾濫が毎年あったからで、エジプト人は氾濫による耕地面積の増減について計算し、バビロニア人は精巧な建造物を構築するために数学を利用した。ピタゴラスは音の調和(和音)、不調和(不協和音)にも気づいていたが、数学が万物の基礎だと断言、以降、ニュートンやアインシュタインを導き、現代の「中空のひも理論」のもつ幾何学的、位相幾何学的な性質をも解き明かす根拠にも繋がっている。また、「公理が正しく、論理が完全であれば、結果として得られた結論を否定することはできず、これを定理という」ともいった。

 作者によれば、「ピタゴラスの証明には科学者の推論に比べ、反駁の余地がない。三角形の定理は数学における一つの里程標であり、文明史的に最大級の快挙」であり、「これによって証明という概念が生まれた。ピタゴラスは迫害によって死去するが、その後、多くの弟子たちが散り散りになって逃げたため、数学が外の世界に向かい、広い範囲で理解される結果を導いた」。さらに、ギリシャ時代のアイスキュロスもアルキメデスも、いずれも先駆者だが、アイスキュロスは忘れ去られても、アルキメデスが人類の記憶から消えることはない。すなわち、言葉が滅ぶことはあっても、数学の概念が滅ぶことはないからだ」と述べている。(確かに、時代の流れは彼の言葉を裏書している)。

 さて、フェルマーの定理を最終的に証明してみせたのは二十世紀生まれの、フェルマー定理に限りなく好奇心を刺激されたアンドリュー・ワイルズという数学者。挑戦開始から発表まで7年間、発表したあと指摘された欠陥を補完するまでさらに1年余、トータル8年余を、欠陥を補完した苦悩と閃きの年月以外は、他人に知られることなく、フェルマーの最終定理の証明という目的ためにだけ自家の二階の裏部屋にこもって没頭、専心した。

 本書はワイルズが1993年に発表、1994年に検証され、証明が正しいことが認められるまでの苦心惨憺する過程や様子のみならず、彼の成功が過去10年間に開発された数学の新しいテクニックに負うていること、なかんずく日本の「谷山=志村予想」というヒントに負うていることとあわせ、現在でもワイルズが証明した論理を完全に理解できる数論研究者は世界に10%とはいない難度の高さにも触れながら、ギリシャ時代から20世紀までに輩出した多くの数学者とその業績にも言及している。

 ギリシャ時代のユークリッド(背理法やπ『パイ』に代表される「無理数」『小数点以下が無限に連続する』のほか、平面幾何学から立体幾何学を確率した)、に始まり、アリストテレス、ニュートン、ダーフィト・ヒルベルト(無限をめぐるパラドックスを示唆、無限の定義についての提示)、ノーム・エルキース、ドミトリー・ミリマノフ、レオン・オイラー(解析学の権化)、ソフィー・ジェルマン(弾性板の振動に関する研究をした女性数学者で、エッフェル塔の建造にその理論が使われた)、エルンスト・クンマー、カール・フリードリッヒ、クルト・ゲーデル(数学は論理的に完全ではありえないと主張)、ヴェルナー・ハイゼルベルグ(不確定性原理を提示した物理学者)、ゴットロープ・フレーゲ、G・H・ハーディ、ヘルマン・ヴァイル、ノース・ホワイトヘッド、P・フルトヴェングラー、ジョン・フォン・ノイマン、ポール・コーウェン、アラン・チューリング(暗号解読の権威)、ジョン・コーツ、マルティン・アイヒラー(基礎演算は加法、減法、乗法、除法、モジューラ形の五つだと主張)、パリー・メイザー、アンリー・ボアンカレー(モジューラ形式と双曲空間の提示)、ロバート・ラングランズ、ゲルヴァルト・フライ、ケン・リベット、エヴァリスト・ガロワ(五次方程式の謎の解明と群論の確立)、ドイリング(虚数乗法と代数理論)、宮岡洋一(微分幾何学からのアプローチを示唆)、岩澤(楕円方程式を分析する理論の提示)、カール・ガウスなどなど、古今東西の数学に貢献した学者名を挙げ、それぞれの偉業を説明していて、難しくはあったが学ぶことが多かった。

 谷山と志村は、19世紀にフランスで生まれたアンリー・ボアンカレの「モジュラー形式」と「幾何学的楕円方程式」という互いに全くかけ離れた領域にある別々の公式に関連性があり、実質的に同じであると主張、数学界に衝撃を与えた。ワイルズはこの「谷山=志村予想」の名称を与えられた根拠を探すこと、証明することが「フェルマーの最終定理」を証明することに繋がると考えた。

 ワイルズの師にあたるジョン・コーツは「数学上、この証明には核分裂の発見やDNA鑑定の発見に匹敵する意義と価値があり、知性の勝利、数論の革命、代数的数論における巨大な一歩」と絶賛した。ワイルズによる証明そのものが、多くの他の数学者がトライして失敗した理論に支えられているばかりか、何百もの計算が何千もの論理によって複雑に張り合わされた巨大な構築物である事実をコーツは強調している。要するに、近代になって発見された数論や幾何学論の数々に橋を架け、異なるフィールドを連携、合体させることでことをなし得た業績だったわけで、細分化されすぎた現代数学の見直しをスタートするきっかけになった。

 ただ、ワイルズの証明成功がフェルマーの死後に発見されたり、開発された新理論やテクニックに依存していたとすれば、350年前に亡くなったフェルマー自身が証明を知っていたと仮定しても、その証明手法はワイルズとは異なる手法だったはずで、数学者のなかには「フェルマーの頭のなかに証明はなかったか、あったにしても間違っていた」という人もいるし、「天才に訪れた稀有の瞬間的な閃きだったのではないか」という人もいる。(これについては、永遠の謎というしかない)。

 解に成功したワイルズは、以後、喪失感と解放感を味わっているというが、歓喜と虚脱も胸に錯綜したであろう。

 訳者のあとがきに「西欧では一般に日本人を含めアジア人の業績は無視する傾向が強いが、著者がインド系であることから、アジア人の業績や女性数学者にも公平に触れている」と特記している。谷山、志村のほかに宮岡、岩澤という4人の日本人数学者が本書には登場している。また、「本書には難解なことは何一つ出てこない」とのコメントがあるが、少なくとも、私にはそうは思えなかった。なお、ワイルズが証明に成功した時点で、谷山は自殺して死去していたが、志村は健在で、著者は志村にもインタビューし、感想を直接聞いている。

 インド人が「ゼロ」を発見したことは知っていたが、「負」の数の発見にも寄与したことは知らなかった。さらに、数字を算用数字(記数法)を使うことによって数学という学問の飛躍的な成長に貢献したという。

 本ブログでも紹介したことがあるが、日本人が数学の分野で誇っていい業績(例・江戸時代に関によって解明された行列式)を遺している事実、あわせて、高校しか出ていないインドの大天才、3500もの定理を発見した「ラマヌジャン」のことも思い出した。本書によれば、そのラマヌジャンはイギリスに招かれたあと、インドとはまるで異なる寒さにやられ、結核を患い、33歳の若さで亡くなったという。「美人薄命」と並んで、「天才薄命」という言葉もあっていいような気がする。


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