天才の栄光と挫折/藤原正彦著

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「天才の栄光と挫折」 藤原正彦(1943年生/御茶ノ水女子大学理学部教授・数論専攻)著
副題:神と遭遇し苦悶した天才数学者たちのドラマ
2002年5月 新潮社より単行本
2008年9月10日 文芸春秋より文庫化初版  ¥514+税

 本書には有名な数学者を採り上げるというのではなく、人生にドラマのあった天才数学者だけ9人を採り上げているが、作者は几帳面にそれぞれの生まれた土地、家、関係者のもとを訪れ、内容に情緒的な側面を付加することによって、一冊の著作に仕上げ、かつ成功している。

 このようなことが可能だったのは、著者自身が数学の世界では知られた人物で、どこに赴いても歓迎されている事実がそのことを証明している。

 作者が採り上げた学者は以下の通り:(要点を絞って記す)。

1.万有引力を含む「プリンピキア」を著したアイザック・ニュートン(イギリス人・1642-1727)。

  1665年、ニュートンがケンブリッジのトリニティカレッジの学生だったとき、ペストが流行、ロンドンでは人口の4分の1が感染して死亡、ために大学は臨時閉鎖。ニュートンは故郷の村に帰り、一年半を過ごすあいだに、微積分法、万有引力の法則、光と色に関する理論という二大理論の端緒を発見。後日、近代経済学のケインズが「純粋思考に関して、かつて人間に与えられた最強の集中力と持続力を持つ人物」」と評価した。

 とはいえ、ニュートンが「プリンピキア」で万有引力と力学を発表したのは20年後で、微積分と光学については38年後。ニュートンという人物は自分が発見した知見を容易に公表しないくせに、誰か他の学者が気づいたと知るや、急いで論文を発表して発見者としての取得権を得るなど、癖の悪いところがあった。

2.「行列式」の関孝和(日本人・1639-1708/次の書評・「江戸の数学者」に詳しい)。

 中国から伝来した「算法流宗」や「算学啓蒙」はインドの数学の影響下で書かれたもの、二書は軍事技術、築城術の革新、鉱山開発や検地、商業の発達などもあり、知識欲に富んだ人に歓迎された。

 中国の天元術やホーナーの解法は未知数が一つの方程式には有効だが、連立方程式の取り扱いが難しい。孝和はXやYの代わりに甲乙などの文字を使い、連立方程式を立て、代数演算により未知数の一つを消去し、天元術で解ける未知数一つの方程式に変えるというレベルにまで達していた。孝和はその主著「発微算法」において、この術を用い、幾つもの難題を解いてみせ、35歳時に一気に和算界の頂点に立った。

 ただ、日本人の悪い癖は数学を俳句や和歌、華道、茶道のように家元のような秘伝とし、これを同門の弟子にだけ教え伝えていくという、難しい数学的問題に限って内部に秘匿する、いかにも島国の根性というべき狭い心根に束縛された。とはいえ、鎖国のために西欧の数学を全く知らなかった国としては驚嘆すべき歴史上の椿事であり、日本人の独創性を誇っていい史実である。

3.「群の概念」のエヴァリスト・ガロワ(フランス人・1811-1832)。

 時代のレベルをはるかに超越した思索をベースにした論文は生前に日の目をみることなく、若干21歳で死亡後、40年経ってから「置換論」、代数方程式の可能性との関連から導入した「群の概念」は連続、不連続群に発展し、今日では一大分野をなし、素粒子物理学における中心的原理となっている。

4.「四元数の基本式」の発見にとどまらず、「光学理論」から「屈折光線に関する現象」を予言したウィルアム・ハミルトン(アイルランド人・1805-1865)。

 ハミルトンは5歳までにギリシャ語、ラテン語、英語、ヘブライ語を読解でき、小さな町の神童だった。10歳頃には、さらにイタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシャ語をマスター。10歳でユークリッドの「原論」を、12歳でニュートンの「プリンピキア」を理解し、天文学に魅せられる。

 15歳時に数学に専念、16歳時にラプラスの「天体力学」にミスのあることを指摘。21歳時、「光線系の理論」という論文のなかで光線の経路を決定する特性関数を導入、大学4年生時に、学生でありながら天文台長兼天文学教授に推薦される。四元数の基本式の発見、光学理論を完成させ、双軸結晶の屈折光線に関する現象を予言。

 ハミルトンの悲劇はティーンエイジャーの終わりに見初めた女性との結婚が相手の親の反対で成就せず、死ぬまで満たされなかった相手との愛に悶え苦しんだこと。

5.「固定点をめぐる剛体の回転」を超楕円関数を用いて解決した女性、ソーニャ・コワレスカヤ(ロシア人・1850-1891)。

 24歳児、編微分方程式の定理を証明し、ドイツのゲッティン大学から博士号を授与される。ストックホルム大学で講師をやり、学期末に教授に昇格。

6.自らは証明できない公式を何千と発見し、後世の学者がそれぞれを証明するのに20年をかけたというシェリ二ヴァーサ・ラマヌジャン(インド人・1887-1920)。

 ラマヌジャンを受け容れたケンブリッジのハーディ教授との共著論文「分割数の斬近公式」は証明で用いられた円周法が解析的整数論に革命をもたらした。アインシュタインの相対性理論はアインシュタインがいなくても、いずれ誰かが発見しただろうが、ラマヌジャンが残した公式はなぜそのような真理に達したのかが解らないという天才。

 ラマヌジャンはイギリスのケンブリッジのハーディ教授に可愛いがれはしたが、インド生まれの彼にはイギリスの食事も、人間関係にも馴染めず、日々ストレスをかぶって衰弱。帰国した後は、若い妻と愛する母との折り合いが悪く、このことも彼の神経をずたずたにし、結局は33才という若さであの世に旅立ってしまった。並みの天才ではなかったことは事実で、長い数学界の歴史にも、彼のような逸材は現れたことがない。

7.第二次世界大戦中にドイツが考案した暗号の解読に成功したものの、大戦後にホモセクシュアルであることが暴露され自殺したアラン・チューリング(イギリス人・1912-1954)。

 この人物のことは、「暗号解読」という書籍が別にあり、世に知られた人物であるが、暗号解読に成功したのは、彼自身の数学的な思考がベースにあり、機械暗号の解読に純粋数学の一分野である「置換群論」をうまく利用したからであり、彼は「四則の演算」を含む、あらゆる理論的手続きを実行できる想像上の機械を考案した。これは「チューリング・マシン」と呼ばれ、後のコンピューターの理論的背景となり青写真となった。チューリングは世の中を変える仕事をしたといっていい。

8.アインシュタインが「一般相対性理論」を発表した直後、相対論と微分幾何学とを融合させ統一場理論の構築を目的に「空間、時間、物質」を出版し、ハイゼルベルグが「量子力学」を創造すると、「群論と量子力学」を著し、量子力学に数学的基礎を与えたヘルマン・ワイル(ドイツ人・1885-1955)。

 日本の生んだ逸材、小平邦彦に注目した人としても知られているが、1913年「リーマン面の概念」という論文で「リーマン位相幾何学的基盤」を与え、それを一次元複素多様体として明確に捕らえた。

 第二次世界大戦時、妻がユダヤ人であったこともあり、アインシュタインの薦めもあって、アメリカのプリンストン高等研究所の招聘を受け、学位を取得、30年間で157篇の論文と16冊の著作を残した。

9.17世紀にフェルマーが3世紀のディフォントスの「算術」という著作の余白に残した一つの定理をめぐって幾多の学者が後世に破綻したものを、日本人数学者である「谷山ー志村予想」と言われる「モジューラー楕円曲線」と、岩澤の「代数的整数論」に助けられて解決したアンドリュー・ワイルズ(イギリス人・1953- )。

 以上の9人のうち、ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャン、ワイルズについては、すでに本ブログで紹介しているし、アラン・チューリングについてはブログを始める前に、「暗号解読」という単行本で読んでいたし、ワイルズの「フェルマーの定理」も本ブログに書評を記している。

 したがって、本書が紹介する学者の大半に関しては決して目新しくはなかったものの、作者が現地を訪問したときの体験、エピソード、付随的な知見の紹介に面白みを感じた。


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