ゲーテさんこんばんは/池内紀著

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ゲーテさんこんにちは 池内起

「ゲーテさんこんばんは」 池内紀(いけうちおさむ)著
集英社文庫

 ゲーテという人物のもつ偉大なイメージを、著者の手によって「引き下ろす」というのではなく、「身近な」ものにしてくれたことが本書の真骨頂、価値であろう。

 学生時代「若きウェルテルの悩み」を読んで以来、「ファウスト」の作者であることは知っていたが、敬して近づかぬ姿勢に徹してきたことが滑稽に思えるほど、ゲーテという人物は、本書による限り、格別に「大文豪」とか「大詩人」とかいうレッテルが装飾として似合う人でないことがわかって、むしろ安堵した。

 書店の新刊文庫のなかに埋もれるように在った本書に目がいったのはマンガチックな表紙とタイトルで、もういちど、この著者の紹介によってゲーテを新たな目でみてみようという気になった。

 ゲーテ(1749年、ドイツのフランクフルト生まれ/日本でいえば江戸幕末の120年前)は生まれながらにして金銭に苦労しなくてすむような家庭に生まれた。

 17世紀から18世紀にかけてはドイツがプロシアを最大最強とする20あまりの小国によって分割割拠していたが、ゲーテはそのうちの一つの公国「ワイマール」で執政官として請われ地位的にも安定していた。

 さらに、もって生まれた好奇心をベースに、当時ルソーの「自然へ帰れ」が流行していた時代背景もあり、本来の詩や小説以外に、鉱物学、植物学、骨相学などにも手をひろげたという。

 25歳時に書いた「若きウェルテルの悩み」が各国語に翻訳され、ベストセラーとなり、(ナポレオンが9回も読んだ)、センセーションを巻き起こしたことから、ゲーテの「ぼんぼん的な」嗜好とあいまって、あれもこれもに興味を惹かれはしたが、詩と小説以外、後世に名を残すほどの業績はなかった。

 鉱物学とはいっても、石のコレクションに明け暮れて夢中になったゲーテに少年の心を感じるが、同時代の「万有引力の法則」を説いたニュートンに対し冷淡に終始したという事実は、「品のよい頑固さ」とともに「育ちのよさゆえの頑迷さ」をも感ずる。

 とはいえ、「若きウェルテルの悩み」の主人公は優柔不断の典型で、女に言い寄っては逃げるという、よくわからない男で、この本がいまなお古典を代表する一冊であり続けていることは理解の埒外。

 親しかったベートーベンやシューベルトより凡庸なツェルターという楽長を最高の音楽家と考えていたくらいだから、音に対してはたいした耳ももっていなかった。鉱物にすさまじいまでの好奇心を示しながら、科学的なアプローチはまったくしようとしない半端さにも驚く。

 ゲーテの劇も舞台で読むためのもので、舞台用の劇として成功したためしはない。当時、だれもが知っていたドイツの思索者、カントにもショーペンハウワーにもなんの関心も示さなかった。このあたりの孤高ぶりにはかえって畏怖を感じさせる。

 どうやら、ゲーテはある一点を凝視するタイプで、凝視しはじめると他のなにものも目に入らなくなる性格だったらしい。

 学者というより、趣味人、数寄者、好事家といった印象が強く、いわゆる学術的な専門家とは、だいぶ肌合いが違うように思え、ダーウィンやファーブルのような確かなものからは縁遠い存在であるという印象は拭えない。

 しかも、時代は、アメリカが独立戦争に勝ち、フランスでは革命が起こり、処刑と流血が毎日のように起こり、革命のあとはナポレオンが国を支配、外国にまで領土的野心をもって戦争に明け暮れた、そういう時代に、ゲーテはむしろ超然としていた。

 ただ、ゲーテは決して保守的な人間ではなく、死後、後世の人は彼のイメージを利用して、ドイツのもつ暗く陰湿な雰囲気を変えるため、ゲーテの思考、思想をバックボーンとして意図的に活用した。

 さいごに、ゲーテはやはり「詩」の人だと思われる。ところが、「詩」とか「句」というものは、韻を踏むなど、あれこれの決まりがあり、その詩句を語った国の言葉でしか、本当は理解されない宿命を負っている。ドイツ語のゲーテの詩を日本語に苦労して翻訳しても、ゲーテのもつ詩本来の気分は伝わってこない。

 むかし、中国に旅行、タクラマカン砂漠を前にした陽関に至ったとき、「夜来の長雨は軽塵を潤し、客舎青々柳色新たなり・・・、さらに尽くせ一杯の酒、西の方、陽関を出ずれば故人なからん」と、うろ覚えの漢文を口にし、ぜひこれを中国の書道の先生に書いてもらいたいとお願いしたら(紙に書いて示したにも拘わらず)、周辺にいた中国人(ガイドを含め)の誰もこの詩を知らず、唖然とした経験がある。要するに、日本語にすると語呂がいいということだった。

 大文豪ゲーテに親近感をもてたこと、その一点に一読の甲斐があった。


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